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占星術と言う人工言語

「コトバ」は世界との接点

ある「言語」を学ぶってことは、その言語でしか表現できない“世界との接点”に触れるチャンスを手に入れるってこと。

コトバは世界の切り分け方で、言語(〇〇語)はそのデータベース、ってのがソシュール先生が教えてくれた「コトバとは何か」ってハナシだったよね。

〇〇語を学ぶことで、「〇〇語でしか共有できない世界」の参加権を得るってこと。

チャンスを手に入れる、とか参加権を得る、ってところまで。その先は自分で見に行かないと見えないんだけどね。そりゃそうだ。中国語を学べば自動的に中国文化がインストールされるかっていうと、そこまで積極的なチカラは無い。でも出入口はいたるところにある。

接点に触れるための「人工言語」

占星術という人工言語も、占星術話者がわざわざこの言葉で表現しようとしている世界がある。あえてこの言葉を使うってんだから、他の言葉で表現できない世界の切り分け方を提供してるんだよ。

人工言語と言えば有名なのはエスペラント語。

エスペラント (Esperanto) とは、ルドヴィコ・ザメンホフとその弟子(協力者)が考案・整備した人工言語。母語の異なる人々の間での意思伝達を目的とする、国際補助語としてはもっとも世界的に認知され、普及の成果を収めた言語
―Wiki エスペラント語

人工言語ってのは、わざわざ作るからにはその「目的」があるわけ。

エスペラント語は「特定の国とか文化、民族に属していない、全ての人にとっての共通語(第二言語)」として作られたんじゃなかったかな、確か。

フェアネス(公平さ)とネットワーク(繋がり)っていう未来ビジョンのある人工言語。あら、これってとっても水瓶座的。公平な繋がりってのは友好と平和、ローカルを超えて展開する新しい世界を象徴してる。

エスペラント語は水瓶座的な世界の触れ方を「目的」とした言語ってこと。だからエスペラント語を話す(学ぶ)ってことは、その世界観を共有するチームの参加権を得るってこと。

よし、エスペラント語始めよっか!!ドラゴンヘッド双子座の流れにもぴったりじゃん。語学ブログのほうでプロジェクトにしようかね。

さてさて

今日書きたかったのはそれじゃなくて(書きながら思いついたことを文字にしていくからどんどん脇道にそれていく)占星術って言う人工言語のこと!!

占星術はどんな目的でもって作られた人工言語なのかってこと。

占星術という人工言語で共有する世界

ワレワレ占星術愛好家は、占星術っていう言語を通してなんらかの世界の「参加権」を手にしてるんです。でも参加権があるだけだと参加したことにならない、ってのは前述のとおり。

そもそもどんな世界に触れようとしているのか(人工言語の「目的」)も無自覚に学ぶでしょ。

それがイイとかワルイとかじゃないよ、もちろん。イタリア語を外国語として学ぶ人には学ぶ理由(友人や恋人と話すため・留学・研究・娯楽etc...)がそれぞれあるように、個人個人の目的だってそこにあるんだから。

ある特定の国や地域の言語を学ぶのは、その言語話者内で共有している世界への参加権を手にするため、ってのが第一になると思うんだけど・・・人工言語はどう?

もともと母語話者なんてなかった。わざわざ前提となる世界観を設定して、その世界観の元に集まるメンバーの共通言語じゃん。でも占星術だとその世界観を最初の動機としてやってくる人って、ほっとんどいないんじゃないかな?

ただ面白そうだから参加権を手にしてみた。自分にメリットがあるから学ぶことにした。私は、そうだった。だって、この人工言語はエスペラント語みたいに世界観(目的)を明示してないんだもん。

それで、その「目的」ってやつを探ってみることにした。
私はどんな世界の参加権を手にしたんだろう?って。

ルーツを遡る

占星術って、最初からボンッて目的ありきでつくられた人工言語じゃなく、草の繊維をよりよりして編み上げられた綱みたいに仕上がったもの。だからどこをどれくらいほどいていけば「ルーツ」なのかってのはビミョーなところ。

そんでも代表的なのは、古代哲学者たちの存在と、神秘主義的な思想。天の運動、星の配置から「パーフェクトな秩序」を見出そうと全力を尽くしていた時代の影響が大きいでしょ。

その向こう側に「神」を感じたいという猛烈な欲求。「知りたい」という強烈な欲望。

「知りたい」という欲求、好奇心が生物を進化させた。わざわざ海から陸にあがる。「死」の世界(海から見て陸は死、あの世から見てこの世は”あの世”)に生まれることを選択してきて、今の「生」がある。

時に死の恐怖すら無効にするほど、何をそんなに「知りたい」と思ったのか?ここに占星術のルーツ、目的がある、と私は睨んでいる。

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神が示すパーフェクトな秩序を知りたい、だったのがすったもんだあって、真理を知りたい、と衝突する。血なまぐさい歴史になってしまったけど、どっちも求める目的は一緒だった。

どこまでも残酷非道になれるくらいの「目的」。それに抗えるほどの「目的」。それが占星術の根っこに編み込まれている重要なテーマなんじゃないか、って思うの。

占星術の究極の「問い」はなんだ

「神はいるか、いないか」・・・ってことじゃない。この問いは表面的な問い。

だって、ほんまに深刻になれる問いって、絶対に「自分」が絡んでいるはずだから。自分が登場しない問いは、自分が扱いきれないくらい深い悩みに梯子を降ろすための仮題ってのが、ニンゲンあるあるでしょ。

この究極の問いに答えるために、あーだーこーだ世界を分かろうとしている手段(言語)が、占星術。この問いを共有するための共通言語が、占星術。

神のパーフェクトでビューチフルな存在を肯定したい、ってのはそもそもなんでか?ってこと。なんでわざわざ「存在を肯定する」コトバが必要だったのか

ソシュール先生を思い出してほしいんだけど、コトバってのは必要性に応じて分割・生成されるんですよ。「米」だ「稲」だ「ご飯」だって分割して別々のコトバを生成するのは、それが分割される必要があった(関心が高かった)から。そうでなきゃriceひとくくりで良い。

信じるか?信じないか?という問いかけで始まる西洋の「神観」は、わざわざ肯定する必要性があった。大いなる存在は日常に根付いて疑う余地もないネイティブアメリカンには「宗教」なんてコトバを作る必要は無かった。

ネイティブアメリカンが「宗教を持たない野蛮な民族」と評価されたのは、精神性を蔑ろにしているんじゃなくてむしろ、精神的な豊かさを軸に生きることが彼らにとって気にも留められないくらい、疑うことすら思いつかない「当たり前の事実」だったから。

いや、昔の日本人にとってもそうだったのかも。

たとえ目には見えなくても、人とともにあり、人とともに暮らす身近な存在だ。この神は、人を導くこともあれば、ときに人を迷わせたり、人と争ったり、人を傷つけることさえある。かかる不可思議な神々とともに生きていると感じればこそ、この国の人々は、聖書も十戒も必要としないまま、道徳心や倫理観を育んでこられたのだと私は考えている。
- 『始まりの木』夏川草介

日本人の原始的な信仰心をテーマにした小説。

どうして「わざわざ」肯定する必要があったのか
というか、わざわざ肯定することで何を得ようとしていたのか、だな。

問いの向こう側にある真のニーズはなんだ、ってこと。

この仮説は『Humankind 希望の歴史 上 人類が善き未来をつくるための18章 (文春e-book)』を読みながら最近考えてることなんだけど…

占星術(天文と神秘思想)は文明(定住文化)と共に始まった。

文明と共に戦と病が始まって(これについては上の本がめちゃくちゃ衝撃的で面白かったから絶対BOOK CAFEで紹介するよ!!!)不安を慰めるものを必要としたから。

安心できるフィクション(拠り所)が欲しかったから。
これがひとつ。

もうひとつは、支配の仕組みが必要とされたから。

いろんな信仰的背景を持つ集団がMIXされた時代、統一のための「説得力」を求めて、絶対的存在を肯定するコトバが必要になった。

両方に言えるのは、自分の正当性を絶対的に肯定してくれる根拠が欲しかった、ってこと。支配や集団を統治する正当性、生命の存在の根拠。

ワタシがこうして何かをすること、何かをしないこと、そして存在そのものを、絶対的に認めてくれる、肯定してくれる根拠。

それをあぶりだすために占星術っていう言語が生まれたんじゃないのかな。

ワレワレはもともと肯定されている存在だから、それについて語ろう、ってのとちょっと違うと思うんだ。成立の背景には、それがないんだよ。ないからそれを求めるために必死になった。

今こうして世界が存在していること、自分が生きていること、それを絶対的に肯定してほしい。肯定したい。その根源的なキョーレツな欲望、欲求、ニーズが占星術成立の背景なんじゃないか。

それをハッキリと明示はしないけど、そうやって編み上げられた世界観に共鳴して、ヒトは占星術に惹かれるんじゃないのかな。奥底に、同じ問いがあるから。

「ない」ものを語るコトバ

「欲しい」ってことは「ここには無い」ってのと同じ意味。

・・・ってことは、もともと無いんです。ワレワレの存在を肯定する根拠ってやつは。生まれてきた理由?天命?使命?運命?そういったのは、全部もともと無かったんです

無いものを「ある」と仮定してそれについてコトバの限りを尽くしているんです。あ、仕組みとしては、ですから。占星術って言う言語の仕組みね。

占星術の仕組みに立ち返って言えば、「この瞬間、このホロスコープを選んで生まれてきた」なんてことはなく、逆に生まれてきたことに対する理由付け、神秘、を証明するためにホロスコープを使って語ってるんだよ。

なんていうのかなぁ。

その「根拠がある世界」を共有するために作られた人工言語が、占星術ってこと。それが「ある」と仮定している世界観。

こんなこと言うと「仮定じゃなくてそれが真理なんだ!!」って怒られるかもしれない。でも疑う余地もない真理ってのはわざわざコトバにされない真理は沈黙のなかにあるから

私たちは占星術を通して、ひとつの世界観を(仮に)共有する。それは存在の根拠を、絶対的に肯定する世界。私はそれに賛同するから、この言語を学ぶ。

運命も、存在理由も、宇宙の秩序も真理もそもそも「なかった」。

ちょっとヤヤコシイことを言えば、それを表すコトバがなかったときには「あった」のかもしれない。それを「ある」と認めるためのコトバが生まれた瞬間に、「ない」が背景になった。

「ある」と「ない」の転換はほら、ルビンの壺だよ。

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ソシュール先生の記事で出したこの図。「ない」部分(背景)を「ある」(図)として見た瞬間に、ないもの(背景)とあるもの(図)がひっくり返るでしょ。

こういうのを「中空構造」って言うんだっけ?

中心は空っぽなの。空っぽの部分について語るコトバ(食べるとこ)があるから、空っぽはそこに存在できるってわけ!

絶対的な肯定を一生懸命説明することで、絶対的な肯定を浮かび上がらせようとしてる。それをやってのけたのが、ドーナツ、いや占星術って言いたいの。

ドーナツがピンとこないなら、パティオはどう?

壁で囲うことで、その内側は何もないままでも中庭として建物の一部に「ある」ことになるじゃん。占星術愛好家は、占星術っていう壁で仕切った内側のパティオで楽しくお喋りしてるんだよ。

占星術を学ぶってのは、この楽しいお喋りができるパティオの参加権を手にするってこと。

パティオを全世界だと思いこむこと

ある「言語」を学ぶってことは、その言語でしか表現できない“世界との接点”に触れるチャンスを手に入れるってこと。冒頭の一文に戻ってきた。

パティオの参加権、世界との接点に触れるチャンス、そこまで。その先には自分で見に行こうとしなけりゃ見えないってハナシ。

んで、占星術の「その先」ってのが、この人工言語設立の究極の目的で。その目的は存在の絶対的根拠を肯定すること。そんでもって、それは「ない」ことが前提になってるってこと。

だからそもそも「ない」ってことに気付くってのが、占星術を学んだ「その先」なんじゃない?って私は思うのね。ドーナツの穴は、穴だった。

占星術はドーナツの穴を「ある」と捉えた時に生じる「算数の公式」みたいなもので・・・xとかyとかって、そもそも特定の何かが無いからxとかyなわけでしょ。

その公式をつかって遊べるのが、パティオ。
そこで遊ぶのがダメだとか劣ってるとかそういうのんじゃないよ。

でも「絶対的に存在する世界の真実」がパティオに「ある」と思っているんなら、そうじゃないよってことが言いたい。パティオは壁があって初めてパティオになる。

月と指のハナシ

「月」を伝えようと思って月を指さす。その指は月を指し示してはいるけど、、指は月じゃない。それなのに人はそのさされた指を見て「月」だと思う。これは禅の教えにあるひとつの例え話。

指は占星術で、月は占星術の目的(存在の根拠を絶対的に肯定するもの、真理)。ヤヤコシイのは、その「月」ってやつが実体を伴わないもの(ドーナツの穴)だってこと。二重にヤヤコシイ。

さらにヤヤコシイのは、だんだん「指」のほうがホンモノの月よりもリアルなほんものになっちゃうってこと。これはサイードの言ってた「オリエンタリズム」と同じ仕組み。

西洋っぽさの輪郭をハッキリさせるために、対照になる東洋っぽさのイメージを(無意識に)つくった。東洋っぽさって、もともと最初からそこに東洋っぽさとしてあったわけじゃなくて、「これ東洋っぽいね(=西洋っぽくないね)」って感じで歴史的・文化的な境界線で線引きされた人工的なイメージじゃねーか!!ってサイードは言う。
でもその後付けイメージが、本物よりもホンモノとして浸透してるってハナシがおもしろいところ。生の東洋人である私を見ずに、無意識にその「オリエンタリズム」を基準にして見る。
BOOK CAFE そらふね『現代思想のパフォーマンス』

東洋っぽさってのはもともとあったわけじゃなくて、西洋っぽさ(これももともと無いイメージ)を作るための輪郭として作られたってこと。

もともと存在していない「月」を指さすことで、そこに「ある」と表現したのが占星術のコトバね。そのコトバは「ある」と仮定した月の存在と同時に存在する。「ある」と仮定するから自分も「ある」って根拠になるわけ。

パティオが「ある」のは、パティオを囲む壁があるから。「パティオがある建物」があるのは、パティオが「ある」から。「パティオがある建物」っていう世界の全体像は、何もない部分を区切って「ある」と仮定した仕組みの上に成り立ってるってこと。

パティオに集まってお喋りするワレワレは、見たことのない「月」について「これこそが月だ!!」と自信満々に語り合ってるわけさ。時々はその中の誰かが語る月について「こっちの月が正当だ、ほんものだ」なんて言ったり。

パティオの外にある世界

パティオが、パティオで語るコトバが、自分の存在の根拠を肯定してくれるゆるぎない真実だと思うのは間違ってるとか、イケナイことだとは思わない。

生でむきだしの世界に線引きをして、壁に守られるところで安心して語ることができるってのはダイジなことだと思う。

でも私は「その先」提案したい。

わざわざ「絶対的に自分や自分を含む宇宙の存在を肯定してくれる根拠」を必要としなくなること。あなたが生まれてきたことにはこんな意味がある、とか使命がある、なんてわざわざコトバにしなくても、わざわざ肯定しなくても全く気にならない世界。

肯定するものをわざわざコトバにしなくても、それを否定するものがそもそもなかった、って気付くこと。

パティオの外に出て、また気に入った場所に天蓋を張って自分のパティオをこしらえてもいい。土壁だと移動は大変だから、布張りの天蓋がいいと思うな。モンゴルのゲルみたいな。

ジプシーみたいに、遊牧民みたいに、その場その時そのメンバーで新しいパティオをこしらえるってのも、楽しいんじゃないかしら。

私は占星術の「その先」の楽しみが、そうであってほしいなぁって思う。

トキ読みと「月を指す指」

トキ読み楽しいし、星の運行と自分の日々の暮らしの接点を感じるのはとってもおもしろいから大好きよ。

ただ、月と指がひっくりかえってないか、って視点も持っといたほうが人生に「幅」が出来ると思う。というか、いつの間にか自分で自分の世界を狭めるワナにかからずに済むように、心に留めておきたい。

リアル(月)は現実で、占星術はコトバ(月をさす指)のほうだってこと。トキ読みをリアルな基準にして、現実をほんものかどうか見定める、ってのは現実とものさしがひっくり返ってると思うんだ。

かといって占星術を「使う」って表現するのも、占星術がほんもので現実をそのほんものをベースに変えられるまがいもの、みたいな視点になりがちで危うい。

そもそもほら、その占星術が指し示そうとする「月」って「ない」わけだから。ないものを語ってるドーナツでしょ。

黒い絵の中で切り抜いた(黒が「ない」)部分が、特定のカタチとして浮かび上がってくるのが月。これ、表現方法のハナシね。

月は「存在しない」ものをカタチにした存在
「どっちなんだ あるのかないのか」ってやつですな。

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それにしても「月」の例えはぴったりだなぁ!って思うよ!背景が変われば細くなったり丸くなったりカタチを変える天体だし。

タロットで「月」はillusionイリュージョン、幻そのもの。

海王星の象徴に近いかな?「ない」ものをリアルな存在として見るのが、幻。

月ってのは「中空構造」、ドーナツの穴。「ない」ことを「欠損」と表現することも確かにできるけど、私はこの構造自体に虚しさとかネガティブな感じは全く抱いてなくって。

ただ単純に、中空構造だってだけで。ドーナツは穴がなけりゃドーナツにならんでしょ。絶対的なカタチが月自体にあるわけじゃなくて、まわりの食べられる部分がその存在を説明しうるってだけでしょ。単純に、それだけ。

活かすとかどうとかっていうより、その「構造(しくみ)」に気付くかどうかってだけだと思うんだよなぁ。

「占星術を教えてほしい」と言われると、私はその「意味」じゃなくて「穴」のほうを伝えたいんだよ。よし、もし私が占星術講座をリリースするなら今度は【まわりくどい占星術講座】ってタイトルにしよう(笑)

だって周りしかないんだもん、ドーナツって。

パティオで語る共通語

なんだかんだいって、楽しい占星術。最近はトキ読み定期的に配信出来てるよね!来週は乙女座の新月。実はもう大体読んであるの。リリースしようかどうか迷い中。

月と太陽の動きと仕組みについても、ちょっと思いついたことがあるから改めてひとつの記事に書いておこうと思う。占星術のコトバを借りて、私は表現させてもらってる。共通語のおかげで、聞いてくれる人に出会うことができる。

その中の一人でも、「それ面白いね!」といって一緒に新しい天蓋を張れる仲間に出会えたら、私は嬉しい。その「縁」のために、私は占星術を学んでいるのかもしれない。

STAR SHIP☆星読み航海図 【公式LINE】

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