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BOOK CAFEそらふね『現代思想のパフォーマンス』

現代思想のパフォーマンス (光文社新書)の中から、言語学の父ソシュール様をピックアップしてお届け!移動図書館の船長、とと子でっす(''◇'')ゞ

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言語学LOVERにはおなじみ、ソシュール大先生でっす。

ソシュールの「発見」を機に言語学界の方向性が変わって、「ソシュール以前」「ソシュール以後」なんて時代区分されるくらいスゴイ人。

なにを「発見」したのかってと、コトバのしくみ。
コトバの正体、ってやつ。

これまでとは全く別の視点で「コトバとは何か?」を考えた人です。ものすごく乱暴に結論を言っちゃえば、コトバには正体は無いってのがコトバの正体(笑)なんてこった!

私たちはコトバを通して世界を理解して、考えたり判断したりしてるからね。コトバそのものの捉え方が変わるってのは、どうやって世界を見ていたのか、どんなふうに世界を理解していたのかがひっくり返る、ってこと。

だから激震だったのよ。哲学の視点、人類学、文学、なんかもうあちこちに影響を与えたのがソシュールの視点!(それが構造主義、ってやつ)

占星術も世界を理解する方法を体系化したひとつの方法だよね。だから言ってみれば、コトバの一種みたいなもの。

ソシュールの視点を通してコトバを捉えなおすことで、占星術を通して世界を捉える方法も見つめ直すことができると思うんだわさ。今回は小難しい理論、専門用語は思いっきり省いて、「占星術」に活かせるポイントに絞ってご紹介。

まず大前提として、コトバとは何か。ソシュールせんせの考え方から行きますよー。

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私たちの一般的なイメージだと、コトバってのは何かの名前よね。物の名前、ツクエとかイヌとかオトウサンとかマルとかクモリとか…アイとかキボウとか、ウツクシイとかイタイとか。

表現したいナニかがあって、それにペタッとつけられたラベル、タグみたいなものをイメージするんじゃないかな。外国語を学ぶとき、そのタグに対応する別のタグを追加していく、そんなイメージ。

んが!!それはちと違うんでねーかい?!!
と波紋を起こしたのがソシュールの発見したコトバのしくみ。

たしかに、表現したいナニかがあって、それに音(名前)が当てはめられて、ナニかと音がセットでコトバになっている。そこまではOK。

ただし、そのナニかはもともと名前を付けられる前からナニかとしてそこにあったわけじゃないのよ、ってハナシ。ネコはもともとネコと名前がついていないナニかとして存在していて、そのあとにネコとかCATとかラベルをくっつけてめでたく「吾輩は猫である」となった・・・わけじゃない。

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 ちょっとこの例、ネコ科の動物にすればよかった。。。トラとかヤマネコとかピューマとか。ごめんね、ムシ嫌いな人。

ソシュールが発見したのは、コトバって「ラベル」じゃなくて「輪郭」なんじゃないの、ってこと。タマムシは最初からタマムシ的なナニかがいたわけじゃなくて、固くてツヤツヤして丸っこいあいつらの中で、こういう特徴のやつはタマムシ、あんな特徴のやつはテントウムシ、ってふうに分けて浮かび上がってきた存在なんだよ。

言っちゃえばムシっていう存在も昔は、動物でもなく植物でも無いもの、っていうふうに境界線を引いてその中にはいるものみんなムシだったんだから。カエル(蛙)もヘビ(蛇)も虫偏の名前でしょ。やつらみんなムシ。エビ(蝦)もハマグリ(蛤)もムシ。

なんなら虹もムシだった。

今は両生類とか爬虫類とか自然現象、っていうふうに別の区分け(コトバ)でそれを言い表してるけどね。そんなふうに、ここからここまでがタマムシですよ、そうじゃないやつがカナブンですよ、みたいにコトバは境界線を示す目印(記号)だってこと。

その境界線は時代で変わったり、社会集団(国とか地域)で変わったり、使われるメンバーで変化する。それが、コトバの違い。コトバの違いってのは、線引きの違いなんだよ。

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よく例に挙げられるのが、色を表すコトバ。

ワレワレが当たり前に「赤!」とか「黄色!」って言ってるけど、それは光の波長のこの辺からこの辺を「赤」にしよう、「オレンジ」にしよう、って区分けしてるんだよ。

この色のコトバ分けが文化で結構違ってて面白いんだけどね、日本だと青と緑の境界線が結構曖昧で、英語圏のgreenも日本語の感覚で見たら「青じゃん!」ってなるのが有名。

あとね、虹の色の数!日本は7色、国によっては5色、8色、極端な例だと2色って文化圏もある。それはその国では虹が2色の光にしか分解されていないんじゃなく、その人たちの網膜が光を感知できていないわけでもなく、虹の色を言い表す境界線になるコトバがそれだけだったってこと。

昔外国人に「日本人は緑色を知覚できない」と言われて「んん?!!」ってなったのを思い出す。

どれだけ細かく境界線を引くか、がコトバの数になるんだけど、これは関心の度合いとか自分たちの必要性に応じて変わってくる。有名なのは「雪」を表す言葉が多いエスキモーかな。

私も雪国出身だから、「雪」とひとくちにいっても、ひょう、みぞれ、あられ、粉雪、ぼたん雪、全部「別の存在」としてコトバとイメージがくっついてる。日本人にとって米と稲とご飯は全部「別物」だけど、アメリカ人に言わせれば全部rice(笑)

逆に向こうさんはpigとporkは別の存在感を持つ。ワレワレはブタ/豚肉、でただ部位の違い付け加えただけのコトバを使うんだけど。

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ことばと思考 (岩波新書)

こういうコトバの分割の違い、世界の捉え方の違いってのを言語学で扱うようになったんだよ。すっごくオモシロイから、興味ある人はこの本がオススメ! 

物の名前もそうだけど、動作を表すコトバ…走る、とか掴む、とかそういったのも「区分」がコトバによって変わってくる。赤ちゃんがコトバを覚えるってのは、ラベルをたくさん集めて、お名前シールをはっつけていく作業、じゃあない。

どこで世界を区切っていくのか、世界をどんなコトバで分けていくのか、そのルールを学ぶのがコトバを習得するってこと

ここで唐突に占星術。

コトバを覚えて世界を理解してく段階ってのは双子座の世界観ね。それが展開する場面は3ハウス、学習とかコミュニケーション、コトバを扱う、やりとりする分野。

双子座は風サイン。風はラベルコレクターじゃないよ。集めない。知識ってのは、蓄えるもんじゃない。風のエレメントをタロットでは「ソード(剣)」で描くんだけど、まさにそんな感じ。コトバってのは切り分けること、境界線を引くことだから。

ほんじゃあ、コトバで世界を切り分け始める前、ケーキカット以前はどうやって世界を理解してたの?ってのが双子座の一つ前のサイン、牡牛座

身体感覚でダイレクトに世界を学んでいたのさ!

赤ちゃんって自分の拳をあむあむして自分の身体の「触る」「触られる」の境目を知るんだよね。触覚をはじめとする五感を通して、自分と世界の接点を知っていく。それが牡牛座の世界観。

感覚の違いが、世界の区分ね。

全身で世界に触れる時期って、この数年間だけなんだよね…。大人になったらその感覚がすごく難しくなる。コトバの存在感が圧倒的にでかいから。スポーツとか瞑想とか修行とかって、あの状態に戻って世界とダイレクトに繋がろうとしてる努力なんじゃないかな。

だから焦ってコトバを覚えさせようとする「教育の風潮」はすごくモッタイナイなぁと思う。幼少期の言語教育にちょっと関わっていた身としては、コトバの土台となる「感覚世界」をいかに豊かにするかってのを伝えたい、って思ってた。当然親御さんたちから求められることとは正反対なんだな。

ちなみに幼少期を表す占星術のコトバは「月」

月にとって牡牛座は居心地のいいサイン。月のエネルギーがいきいきと発揮できる、ってイメージ。牡牛座は安心・安全をキープすることを求めるから、安心感に直結する月にとってとってもダイジなテーマなの。

月の年齢域、牡牛座の身体感覚ダイジやで、ってことやね。

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さてさてコトバは世界を区切ってその境界線、輪郭を決める記号でした。

一個一個特定の意味があって、それを集めたコレクションじゃないのよ。全体の中の位置取り、お互いの守備範囲の接点に意味づけをしたのが、コトバ。

占星術という「コトバ」も、これに照らし合わせて考えてみよう。

例えば乙女座は乙女座らしさってものが単体であるわけじゃないの。魚座と対になるテーマであって、獅子座の次に展開する要素であって、まだ天秤座的な姿を表していないナニか。その「範囲」を乙女座、って言い表してるのね。

これ、占星術をべんきょーするときにも心に留めておきたい。

そこに特定の意味があるんじゃなくて、切り出して浮かび上がってきたものが「意味」なんだよ!ソシュールの視点(構造主義)的に言えば、ね。

例えば自分自身を表す1ハウスは、7ハウス他者と裏表の対になっている。他者がいなければ自分って姿は現れないから。あら、「自分はひとりでも自分だよ?」っておっしゃる?

じゃあさ、右は、左がなくても存在する?

右は、左があるから右。上は、上じゃない位置。下があるから上。姉は妹がいなかったら姉にならないし、逆もまた然り。

自分ってのは、自分じゃないもので輪郭を確かめる。その境界線を「自分」と「他者」というコトバで分けてるんだけど、占星術のコトバだったら1ハウスと7ハウスとか、AscとDscって言う表現をする。

だからね、単体で「意味」が存在してるワケじゃないのよ。

ホロスコープのおもしろいのは、その境界線をいろんなスケールに重ね合わせて表現してることかなぁ!

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それから、ホロスコープを読んでて思うのは、図と地。シンボルと背景、って言うのかな。占星術で言えば図は天体、それからアスペクト。地(背景)は円盤かな。

この図はルビンの壺っていう有名な錯視の絵。黒地に白い壺の絵が描いてあるでしょ?でも、白い壺の絵じゃなくて黒い部分に注目して見て。白地に・・・見えた?黒い向き合う人の影。

見えた瞬間、地と図がひっくり返る。背景だと思っていたものが、それ自体が何かを描いている図になる。

占星術もね、天体とかアスペクトが主役だからそっちばっかり見てるけどね、地と図をひっくりかえすと違うものが見えたりするんじゃないかな?ってちょっと思って挟んだんだけど、ソシュールと組み合わせてどう説明したらいいかまだよくまとまってない(;^_^A

えっとねぇ。

例えば占星術だと天秤座の人はうんたらかんたら、って言うじゃん。でも、ホロスコープには天秤座ちゃんと描かれてるんだよ。万人に。図じゃなくて地だから気付かれないけど。

だから誰もが天秤座要素をちゃんと自分の世界の中に持ってる。エレメントも然り。風サインが無い、ってのは図(天体)に注目した視点で、地を見れば風はちゃんと3天体分そこにある。

片方を図として見てるときは、もう片方は見えないってのがミソ。壺を見てるときは顔は背景になって見えない。見えてるけど、認識しない。

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メアリー・アン・スタニツェヴスキーって人が、「信じることは見ること」ってタイトルの本を書いたんだったかな。これ、「見ることは信じること(=百聞は一見に如かず)」って英語のことわざをひっくり返した皮肉。

「信じる」ってのは、理解する、とか納得するってこと。見てやっと納得できる、見たことが理解できる、って意味のことわざね。

でもワレワレは実際「信じることが見ること」になってるんじゃない?理解して、納得して、こういうもんだ、と決めたことを見ている。これはテントウムシだ、って信じてるからテントウムシに見えるんです。カメムシだって思ったらそれはカメムシとして目に映る。

これは壺だ、って思ってるから壺に見える。ウサギだと思うからウサギに、アヒルだと思うからアヒルに見える。

ちなみにひとつまえの画像、ルビンの壺の隣にあるものはなんでしょう?地と図に惑わされないでね。

ヒトは見ようとしてるものを見てる。スピリチュアル的解釈でも心理学でもそれは一緒。「信じることは見ること」がデフォルトなんだから。

その「信じること」が何で決まるかってのが、コトバ。

だからコトバのなかにある意味じゃなくて、境界線を意識すると世界が変わるんだよ。その中に意味は入ってない。輪郭があってそこから浮かび上がってくるのが意味!

私はどこにどんなふうに線引きをしてるのか?自分を、自分を含む宇宙全体の中で線引きしているのが占星術。

サインそのものに自分の意味があるんじゃなくて、サインの示すテーマを、自分なりにどう区切ってる(捉えている)か?ってこと。

「自分らしさ」ってのは、「自分らしさ」っていうナニかがあらかじめあるわけじゃないの。ここ、ダイジ。自分らしさに触れる接点がいろいろあって、その接点と接点を繋いで浮かび上がる「輪郭」が、結果的に自分らしさとして見えてくるってこと。

そんなもの、円盤見てても見つからないからね。図を見てたら見えてこない部分、地を含めた全体像が自分らしさなんですッ。

それから、コトバの罠についても触れておきたい。

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 これは前ブログでも書いたことなんだけど、コトバってのは表現したいナニかを指し示すもの、なんだよね。それが境界線だ、ってのがソシュール。まぁここでは境界線の範囲を指し示してる、としよう!

月っていう意味を示そうと思って、指をさす。月を指してるけど、指は月そのものじゃない。月を見よって言って指さしてるのに、指ばっかり見てくるんだよ。それも指を月だと思いこんで。イヤよね~~、ってハナシが禅にある。

水瓶座っていうコトバは、水瓶座というコトバで区切られたナニかを指してる指ってこと。そのコトバ自体に、意味がくっついてるわけじゃない。水瓶座ってコトバが本体じゃないの。これ、ややこしいかな…

本体じゃなくて、本体を説明するコトバね。んで、そのコトバも境界線なわけだから、適応範囲が時と場合で変わるんだよ。

例を「土星」にしよっか。土星の記号が示すものは、土星的なナニかの輪郭で、それを日本語に置き換えるために他の色んなコトバがくっつけられる。父性、とか制限、とか、枠とか困難とか・・・。それぞれのコトバの共通点の向こう側にあるのが土星的なナニか、意味の本体

そんでもって、その日本語の訳語たちにもまた色んな価値観とか適応範囲があるわけじゃん、全部コトバだから。何重構造にもなってるのがヤヤコシイね。

そうそう、ソシュールは「コトバそれ自体に優劣とか価値は無い、差異があるだけ」、って言ってるんだよね。土星のキーワードを見るとネガティブなものを思い浮かべがちだけど、それはそのコトバの使用範囲が違うだけで、それ自体がネガティブな存在ってわけじゃない。

う~ん、ややこい!ややこいね!!この辺にしとこう(笑)

現代思想のパフォーマンス (光文社新書)で紹介されていた別の思想家、エドワード・サイードもちょっと紹介させて。彼は「オリエンタリズム(東洋的なもの)」は西洋人が「オクシデンタル(西洋的なもの)」のイメージを作りたいという欲望の裏返し、って批判したの。

西洋っぽさの輪郭をハッキリさせるために、対照になる東洋っぽさのイメージを(無意識に)つくった。東洋っぽさって、もともと最初からそこに東洋っぽさとしてあったわけじゃなくて、「これ東洋っぽいね(=西洋っぽくないね)」って感じで歴史的・文化的な境界線で線引きされた人工的なイメージじゃねーか!!ってサイードは言う。

でもその後付けイメージが、本物よりもホンモノとして浸透してるってハナシがおもしろいところ。生の東洋人である私を見ずに、無意識にその「オリエンタリズム」を基準にして見る。

これはどんなコトバ、イメージでも起こるよね。

本物じゃなくて、本物を想定して作られたイメージがホンモノにすり替わっちゃうって現象。ガイドブックを見て旅行したけど「期待外れだった」のは、ガイドブックが本物の体験の基準にすりかわっちゃってるから。

いつのまにか、指がホンモノの月になっちゃってて、指を基準にして月を「あれは月っぽくないなぁ」なんて論じちゃうってこと

いいかい、占星術で人を「読む」人たち!!
ホンモノはその人自身で、占星術は指のほうですからね!!!!

占星術は世界を捉えるために線引きして区切って「見える化」してくれる。これはとっても便利な手法だと思う。でも、その線引きした世界に人を無理くり当てはめる必要はないでしょ

 星がこうだから、あなたはこういう人。
アスペクトがこうだから、あなたの人生はこう。

これ、どうしても違和感があるんだ。
なんでカテゴリーのほうにこっちがあわせなアカンねん、って(笑)

 逆に「星を使う」ってのもピンとこない。

星ってのは、記号で、コトバで、線引きだから、「使う」というか浮かび上がってくるものだよね?ソシュールの考え方で言えば。
そんでもってどこに注目するか、でどう見えるか、が変わるってだけなんじゃないかな。ルビンの壺みたいに。

ソシュールとかサイードの思想は「構造主義」って言われてるんだけど、個別じゃなくて全体を捉える思考法と言うか、図を地に変える発想と言うか、すっごくオモシロイ。

ああ私は構造主義的に占星術を見てたのか、って発見してスッキリした。私にとって占星術って、一種のコトバなんですな。占星術のコトバを借りて、本や漫画読んだり映画とか人間関係とか切り分けて楽しんでるわけです。

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以上、BOOK CAFEそらふね『現代思想のパフォーマンス』からお届けしました♡ Thank you for “watching”になってるのは、これもスライド動画にしようと思って断念したから(笑)

文章(指)のほうが饒舌だわ私。
パパッと口頭でコトバまとめられる人、憧れるなぁ!!!

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