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幻想の霧が晴れたなら、世界はもっとうつくしい―BOOK CAFEそらふね『なぜ皆が同じ間違いをおかすのか「集団の思い込み」を打ち砕く技術』

さぁさぁ宇宙の波間を縫って、星屑飛沫メテオシャワーをあげながら、今宵もやってまいりましたよ移動図書館📚BOOK CAFEそらふね💫開いたページ📖が羽ばたいて、巻き上がる風に呼び寄せられる、君の心に隕石が🦋🌠

星(隕石)を呼ぶ移動図書館

今日お届けしたいのは、トッド・ローズ著『なぜ皆が同じ間違いをおかすのか―「集団の思い込み」を打ち砕く技術』!(書籍代の応援を受けて、いつもよりさらに張り切ってお届けなのだッ🫡✨)

ここ最近BOOK CAFEそらふねで紹介している本は「幻想」との向き合い方が共通テーマになってるの、気付いた?

私たちが現実だと思い込んでいること、信じる信じない以前に疑うなんて発想も浮かばないような、ただ当然の現実として受け止めているこの世界について。ニンゲン社会って「本当はそこにないんだけど、あるという前提で」組み立てられたものでありふれているからね。そんなあったりまえに自分の世界の一部になっている「幻想」のモヤの中から、一歩踏み出てみると…世界はどんなふうに見えるんだろう?

私の所有物、私の家族や友人、私の住んでいる土地、私の能力…所有しているものがなんであれ、その「ワタシノ」という「所有の概念」も、実は現実ではなく幻想だと気付いたら…

なにが好ましく、なにが好ましくないのか。選択の基準となる価値(道徳)を「幻想」ではなく「現実」を軸に決められているだろうか。

こうして「所有にまつわる幻想(ワタシらしさの境界線)」、「価値にまつわる幻想(選択の基準)」に触れてきたけど、今度は「みんな(私から見たみんな)」にまつわる幻想に注目してみようと思う🙌

所有、価値についての幻想を、これは幻想だ!と看破したあなたは、次に周囲を見渡す。そしてちいさくため息をつく。「でも…みんなは結局こう思っているんだよな」と。

「みんな」の意見

社会的、政治的な課題だけじゃなく、職場の暗黙のルール、家族間の習慣、友達付き合いの中で、「ワタシ、ほんとはこういうのスキじゃないんだけど…」「賛成してるわけじゃないけど、わざわざ反対するほどでもないか…」なんて思いつつ「みんな(相手)」に合わせて行動、選択、もしくは沈黙することって…あるよね?

特にワレワレ日本人は「空気を読む」能力に長けた人が多い(というか、空気を読むこと、やみくもに波風を立たせないことをヨシとする)文化集団だから、「みんな」に合わせることは割とアタリマエにしていることかもしれない。

空気を読んで、「みんな」から浮かないように気を配る。多数派の意見ありきの行動をとる。

日本語ではそんなふうに「多数派の意見」を「場の空気」なんて呼ぶわけだから、もともと分かっていることなのかもしれないけど・・・「空気」って、実体がないよね。あるといえばあるけども、「ある」と認識して(その認識を共有して)初めて存在するもの。つまり、具体的にそこに何かがあるわけじゃないんだけども、「ある」とみんなで取り決めたもの。これは多数派の意見である、みんなが当然そう思っていることである、というのが「空気」

なんとなく、今回取り扱う「幻想」の対象が見えてきたかな?
「ハイハイ、空気は実体がないからね。それを幻想だっていうんでしょ」と察した方、鋭い👍ただ、それじゃ浅い。ショッキングなのはこの先なんだよね。

重要なのは、その「みんなの意見」、あなたが読んでいるその空気の内容そのものが、想像以上に見当違いだってこと。

これはきっと、直感に反する事実だと思う。だって、実際に目に映る現実がそうじゃないか、って。「みんな」こう思っているから「みんな」の言動がこんなふうに現れているんじゃないか。私は確かに「みんな」の姿を見て「みんなの意見」を導き出している。ひとりひとりに確かめたわけじゃないけど、きっと「みんな」は同じような意見を述べる。言葉にするまでもないけど、実際に口にする人はそう言っている。

でも、本当にそうだろうか?本当に「みんな」(ここで使う「みんな」は、全員って意味じゃなくて大多数の人、マジョリティ側の意見って意味ね)そう思っているんだろうか?

本音と建前

本書『集団の思い込みを打ち砕く技術』は、ひとつの小さな村のエピソードで始まる。

その村は隣近所の事情は筒抜けであっというまに広がっちゃうような、日本の田舎集落のイメージに近いかな。そこに引っ越してきた社会心理学者のリチャード・シャンクは、「人はどんなふうに意見を形成するのか」を研究していた。彼はこの村で暮らしながら村人たちに質問したり、行動をメモをとったりしているうちに、奇妙なことを発見する。

「言ってることと、やってることが、まるきりちゃうやんけ!」と。

たとえば絵札を使ったトランプ遊びは宗教的な理由でタブーとされていて(リチャードからの質問に対してもほとんどの人が「すべきでない」と答えていた)のに、4人に3人の割合の人は実際にはトランプ遊びを楽しんでいた。他の様々なタブー行動も然り、宗教に関係なく暮らしにまつわるテーマでも同様で。

戸惑ったリチャードはプライベートな場で「本音ではどう思ってるん?」と聞いてみる。そしたら「いや、個人的にはOKなのよ」と。
「じゃあみんなはどう思ってると思う?」と聞くと、彼らはこう答える。
みんなは、ダメなことだと思っているだろうね」と。

77%の村人が「個人的にはOKだけど、みんなは反対だろう」と考えて反対の立場を取っていた。なんと、自分の考えのほうが多数派であるということに気付かずに!!

個人として嫌っている習慣は、実は集団としても嫌っている習慣だった。それに気付かずに、その習慣はみんなのイメージする誤った「みんな」の意見に沿って維持され、時には強化される

それはみんなが共有する、「みんな」という幻想

この「幻想」は、実は世界中のあらゆる地域や社会、人々の間で発生している
本書で挙げられていた例の一つに、日本の「男性が育児休暇を取得することについてどう思うか」という調査があった。ほとんどの人が男性の育児休暇取得を好意的に捉えていて、自分も取りたいと考えているのに、「自分以外の男性はそうじゃない」と思い込んでいる。その結果はご覧の通り。男性の育児休暇はなかなか増えない現状がある。

この幻想は、ステレオタイプを増幅する。個人的には好意を持っている対象でも、「仲間たちはみんなネガティブに思っている」と過度に見積もることで過激な態度が促される。ヘイト集団も、幻想に操られている部分があるのかも。

私たちは思いの外「空気」を読めていないのかもしれない。いや、むしろ「幻想」を敏感に察知して、そっちを”ちゃんと”読んでいるのかも🤔

  • どうして「みんな」について間違った思い込みをしてしまうのか?

  • その思い込みが個人の意見、行動にどれほど影響力を持つのか?

  • この幻想が引き起こす個人的、社会的な危険性

  • どうすればこの強力な幻想を打ち砕くことができるのか

今回のBOOK CAFEそらふねは、そこんとこに注目して本書のオモシロポイントをザクザク紹介するよ🙌✨

長いものには巻かれたくなる

そもそもニンゲンは生存戦略として「つながる」ことを求める生物だってことをまずおさえておかないといけない☝相手と繋がること、集団とつながること。「同調」「模倣」を通して学び、学んだことを伝え、息を合わせた協力によって一人では立ち向かえない大きな課題も乗り越えてきたのがニンゲンなのです。

「同調」や「模倣」はリスクを回避して上手く生き延びるための諸々の戦略のうち、赤子のうちから実践してきた本能的なものであり、エネルギー予算管理を担当する※脳が好む省エネ戦略でもある。

※脳の重要機能を<身体エネルギーの予算管理>と表現していた『バレット博士の脳科学教室7・1/2章』、これも刺激的でウロコぽろぽろな視点だから次回のBOOK CAFEそらふねで紹介したい…!!

この戦略が骨の髄に染み付いているニンゲンは、「みんなと同じ」であることに安心感や幸福感、心地よさを覚え、「孤立」(もしくは孤立を予測させる状況)にキョーレツな不快感、ストレスを感じるようにできている。

だからより安全な(より不快な状況を避けられる)選択として、大多数の意見の「同調」したり、「前に倣え」で行動をとることはオカシイことじゃない。情報が不確かなとき、自分の意見に確信が持てないとき、人は他の人の行動を模倣(参考に)する。

周囲の100人が突然走り出したり、地面に伏せれば、「なにごと!!??」と思いつつも、状況を確認しに別行動をとるよりもまずその行動を真似するでしょ(笑)

私がとくにオモシロイなぁ!と思ったのは、この「同調」や「前に倣え」が、本人の自覚しないところでも起こり得るってこと!自分で判断して、自分の価値観と理性でとっているつもりの行動が、実は「みんなの意見」というフィードバックを反映させたものだったりするのだ。

みんなといるのが好きか、ひとりでいるのが好きかと聞かれれば、そりゃ答えは様々だけど、生物的な性質、身体(神経)レベルで言えば、「所属・安心⇔孤立・危険」という反応は本能的なもので共通する。意識していようとなかろうと、脳はこの快/不快に敏感に反応してそれに対処しようとする。そうしてとった行動に、実は本人は気付いていないことも多い

それは政治的や社会的な意見だけじゃなく、どれくらいの量のご飯をお皿に盛るか、どの顔がより魅力的かといった日常の選択や行動、喫煙や肥満度、離婚率、他者への寛容さ、ライフスタイルにまで及ぶ。情報や理性に無関係なこの連鎖反応は、どれだけ賢い人にも起こり得る。

ときには多数派のフィードバックが、認知(見ている感じている世界)そのものに変更を加えていることだってある。たとえその多数派が人工的な架空の存在であったり、全く共感していない正反対の意見を持つグループだと分かっていたとしても。明らかに違う棒の長さが同じに見えたり、止まっている光が動いているように感じたり、記憶や真実すらも変わって見えてしまう

この見ている世界に変更を加えられる現象は、脳が担当しているお仕事の視点で見ると「おおお!!」とスッキリするんだけど、それは『バレット博士』の本紹介の回で存分に語らせてくれッ😁(実はこれ、脳は間違えたりただ釣られて勘違いしてるんじゃなくて・・・)

裸の王様

そいでその、「同調」「模倣」の対象になるイメージが問題になってくる。私たちは「同調」すべき「みんな」のイメージを、どこかなにかのタイミングで取り違えてしまうことが多々あるらしい。そして取り違えたまま、その勘違いのイメージをみんなで共有して、間違ったその姿をみんなで維持しようと努める結果、みんなの望まない現実とその先にある未来へとまっしぐら、なんてことが・・・想像以上に今も起きているのだ。

最初に挙げた小さな村社会でのエピソードで、ほとんどの村人たちが「みんながそう思っているから」という理由で、公の場では本心とは違う言動をとっていた。彼らは自分たちがマジョリティ側であることに気付かず、ほとんどの人が実は賛成していない習慣を支持し続けていた。

このエピソードには続きがあって、リチャードは「村のインフルエンサー」であるソルト夫人の存在を知るんだよね。ハッキリと意見を主張できる人、みんなの代弁者のように振る舞う人。村人たちは、彼女の意見が多数派の意見だと誤認していた。

小さな町のなかでも、一般的に思われているほどお互いのことをよく知っているとはかぎらないことが明らかにされたのだ。ごく少数(この町ではたった1人)の声高な人物が、いとも簡単にほかのメンバーの意見をゆがめ、集団を誤った方向に導き得ることも。

『なぜ皆が同じ間違いをおかすのか』トッド・ローズ

声のでかい少数派の意見が、多数派のものだと誤認してしまうことは、現代社会でも簡単に起こり得る。声がでかくて影響力の持つ少数派がいれば、それ以外の主張は言い出しにくくなる。そうすると、目に触れるもののほとんどが少数派意見で埋め尽くせられる。ああ、みんなそう思っているのか、と「同調」「模倣」の本能で動く。そして現実が、そのとおりになる。

トイレットペーパーの買い占めだって、「実際に不足になることはない」とわかっていたとしても「でもみんなは不足になると考えて行動するだろう」と予測する。「みんなが買い占めに走るんだから、自分も今のうちに買っておかないと」と行動する。結果、様子を見ていた人までもが「本当にみんな買い占めに走った!」と続々とあとに続く。

むしろ、それを意図的におこしている人たちもいるってことを忘れちゃいけない。今やSNS上のやりとりは19%が人対人ではなく人対ボットなんだって。実験では、参加者の5〜10%のボットを紛れ込ませれば、3分の2に支持される圧倒的多数は意見を捏造することも可能だとわかっている。支持者を集める活動・・・そう、これは政治的目的にも「活用」されている。

多数派の意見にふれると「同調」「模倣」したくなる。内側(脳の本能的な反応)にも外側(社会的な反応)にも、それを促すシステムが張り巡らされている。

集合的幻想が引きずり込む落とし穴

集合的幻想が、望まぬ現実への推進力になりうるってことはこれまで述べた通り。育児休暇取得にしても、差別の解決にしても、移植臓器の大量廃棄にしても・・・「それは幻想だ!」と看破しないことには、自分で自分の首を絞めつづける事になる。

「自分の首を絞める」苦しみってのは、社会からもたらされる結果だけじゃない。自分にウソをつくことの代償でもある。

自分の考えと行動が一致しないとき、そのズレとか噛み合わなさを身体(脳)は不快な信号としてキャッチする。ズレを補正して不快さを解消する方法は、行動を変えるか考えを変えるかの二択。「同調」を選択するってことは、変えるのは自分の考えの方だね。これが「正当化」。
つまり自分にウソをつく。さらにそのウソを正当化するために、またウソをつく。そしてまた・・・というふうに、脳は一生懸命、正当化のためのエネルギーを消費する羽目になる。これはなかなかエネルギーコストが大きい。そのうち慢性化したウソはどこがどうウソなのかわからなくなって、血肉化しちゃうんだけどね。それでスッキリ解決かっていうと、そうでもなく。不協和音の警報は鳴り続け、しまいには心身の不調というSOS信号で行動にストップがかかることもある。

ウソにはもうひとつ興味深い副作用があって。
「バレるんじゃないか感」っていうのかな。ドラマとかでとんでもない過ちを犯してしまった主人公が、実はバレてるんじゃないか?って疑心暗鬼になっていくシーンよくあるよね。相手のなんでもない言動にビクついたり、疑われてるんじゃないかって過剰反応したり。ウソをつくとき、人はどうも相手の「透視能力」を過大評価する傾向にあるらしい。他にも、相手に同情してほしい、自分の気持ちを汲み取ってほしいと期待するときも、相手の察する能力を過剰に見積もってしまいがちなんだよね。(そのギャップに、なんでわかってくれないの!!ってのがお決まりパターン)

やっかいなのは、自分にかかるエネルギー負荷、ストレスもそうなんだけど、そこからとる行動。「バレるんじゃないか感」がある人は、「バレないように」さらに行動を取り繕おうとする。やましいことがあると口数が増える(私やん)くらいならカワイイけども、より強烈にウソを補強するようになるんだよね。
他者(本音ではそっち側の意見でも)を排斥し、差別的な思想や言動をエスカレートさせたり、より過激なアクションになっちゃうってこと。自分は本当はそう思ってなければ、ないほどに。その行動は、集合的幻想をさらに大きくふくらませ、どんどんその先へと加速させる。

この集団的幻想の負の側面でもある、全体VS個の構造を「巨人の罠」と言い表したケシーさんの表現力は、さすが!!巨人というメタファーでイメージすると、この「集団的幻想」の注意点がわかりやすいかも。

歯車を噛み合わせる

自分がイキイキとして、持ち前の生命力を発揮している調子の良い状態ってのは、「歯車が噛み合ってる状態」とも言える。自分の内側にまわるたくさんの歯車もそうだし、自分と外界の歯車もそう。カチッとはまって、うまくまわるとき。ぐるんぐるんと動くとき。そこから発電、放電されるのが生命力。
ウソが積み重なると、歯車はズレてきしむ。不協和音の警報が鳴る。

その不協和音は自分をジワジワと苦しませるだけじゃなくて、社会全体を望まぬ方向にプッシュする。私たちひとりひとりの持つ「責任」は、想像以上に大きい。

ああ、そうだ。この「責任」ってやつは、誰が悪い!誰が罰を負うべき!って意味のコトバじゃないってことはハッキリさせておくれ🙌

わたしが言いたいのは、「ものごとに対する責任は、本人の欠陥に由来するのではなく、それを変えられるのは自分しかいないために生じる」ということだ。

『バレット博士の脳科学教室71/2章』

自分にはそれを変える力がある、と認めること。Responsibility(責任)は、Response(応答)するAbility(能力)があるってこと。自分にはパワーがある。そのパワーを放棄しちゃいけない。

そんでもって、ここで言いたいのはSNSでやたらめったら自分の考えを主張しろってことじゃないよ。人の考えを曲げようとしたり、嘲笑や危険に身をさらせってことでもない。自分の身近な範囲で、生身の人間のあいだでは、信念と行動をひとつに「噛み合わせ」て生きてみようってこと。まずは自分の中で。それがその先の、内と外の歯車でエネルギーを高めあえる道に繋がるんだから。

『なぜ皆同じ間違いをおかすのか』のなかで、深刻な自己不一致で心身がボロボロになった人のエピソードがあってね。彼が自己不一致の状態から自尊心を取り戻す過程の中で、大きな効果を発揮したのが「日記を書く」って行為だった。これは私たちも活かせる方法だなって思ったの。

自分は何に同調しているんだろう?自分にウソをついた内容と、その状況について書き出してみる。自分のイイと思うことも、悪いと思うことも、そのまま文字にして書き出していく。

自己不一致から自己一致へ。自己一致について、「自尊心」というコトバで語られていたのも印象的。自尊心をもつというのは私的な体験で、自分がどう考えどう感じるかってのが中心コアにある。他人の行動とか反応の中から見出すんじゃなくってね。それは自分の心を信頼して、自分は幸福に値すると信じること。

これを読んで、アイン・ランドの『SELFISHNESS』を思い浮かべたよ!!

ワタシにとって最大の価値は、ワタシのいのちにほかならない。この生命が最大の価値、生きていること(ただしただ生きるんじゃなく、ニンゲンらしく生きること)こそが「善」(選択の基準となる価値、道徳)なのだ、ってハナシだったよね。
彼女にとってSELFISHNESS(ジコチュー)は、自尊心をもって生きること、その価値を維持する努力を怠らないことを指していた。「一般的にイメージされるSELFISHNESS(ジコチュー)=他人の不利益を気にしないワガママ」とアイン・ランドの説く「美徳として守るべきSELFISHNESS」のギャップもひとつの「幻想破り」だったなぁ。

集団的幻想を加速させるのも、それに気付いて選択と行動を見直せるのも、自分自身。自分は自分の世界に応える力がある、責任がある。

狂気には群れごと走るが、正気にはゆっくりと一人ずつ戻るしかない

チャールズ・マッケイ

社会が変わってくれるのを待って現状に従うのは、自分が集団的幻想に加担しているってことを自覚しなきゃいけない。ガンジーが言ったように、『Be the change you wish to see in the world(あなたが見たいと望む世界のその変化に、あなたがなりなさい)』ってことなのだ。

これはなかなか厳しい。「そうは言っても・・・」と尻込みしてしまう。いや、厳しく感じるのは、自分にはパワーがあるだなんて思えていないからなのかもしれない。私たちがまず打ち砕かないといけない「幻想」は、ここにある。

無力という幻想

自分にはパワーがあると思えること、自分への信頼感は、自己一致(自分の中の歯車が噛み合っている状態)から生まれる。自分を信頼できるかどうかってのは、実は他人を信頼できるかどうかってことでもある。誰もが誰もを疑っているような社会、不信を前提とした社会では自己一致感は育まれにくい。
信頼できないワタシのために念入りに構築された(いかに信頼できないかを証明するような)世界で生き、「あなたは信頼できない」というメッセージやまなざしを常に受けているうちに、そのイメージは自分のなかに刷り込まれる。自分は信頼に値しない。他者は信頼に値しない。

『なぜ皆同じ間違いをおかすのか』では、その根本原因が「パターナリズム」にあるんじゃないか、という。「強者が弱者を支配、管理すべき」って考え方だね。
エリート管理階級が、愚鈍な労働者を効率よく働かせられるようにきっちりと管理すべき。そうして、最大の効率で最大の利益を得ることが、社会的善なのだ。福祉や国際支援だってそう。デキナイやつらにデキルおれたちが手を差し伸べてやる、それが社会的善。でもデキナイやつらはちゃんとデキナイわけだから、そのへんしっかり目を光らせて導いてあげないとイケナイのだ。

こういった不信を前提にしたシステムは、ワレワレにとって当たり前過ぎて何がオカシイのか気付けないもののひとつ。
貧困で困っている人たちに使い道を指定せずにまとまった金額を渡すこと、刑務所で服役する人たちに「罰」ではなく「整った生活」を提供すること、子どもたちに自主的に学校を運営させること。こういったことが、これまでの思い込みを覆す結果を出していることを、私たちはなかなか認められない。

人間は信頼に値しない、という前提で動く世界では、人間は信頼に値しないことを証明する現実を自分たちで創り上げることになる

人々が世界を見る目に応じて、世界は変わる。
人々が現実に向ける視点を1ミリでも動かせれば、世界を変えることができる。

ジェームズ・ボールドウィン

それを看破したのが『Humankind』だったね!!!!

刑務所の例は『Humankind』でも取り上げられていたっけ。
性悪説か性善説か、っていうハナシじゃなくってね。私たちにはそのどちらであっても現実にするパワーがあるんだよ、ってこと。それを自覚しなきゃいけない時が来ているってこと。

「よりよいシステムが自動的によりよい生活につながるわけではない。むしろ逆こそが真である。よりよい生活をつくることでのみ、よりよいシステムを生み出すことができる」とハヴェルは書いている。

日々の些細な選択が、世の中をよくも悪くもする。偽りのなかに生きるのを拒否するという単純な行動にも、個人と社会の姿と能力を変える力がある。

『なぜ皆同じ間違いをおかすのか』

幻想を見破る

ワレワレは「同調」と「模倣」がニンゲンの成長、コミュニティ発展に果たしてきたことには敬意を示しつつ、そこに集団的幻想の落とし穴があることを心に留めておかないといけない。本書はタイトルに『集団の思い込みを打ち砕く技術』とあるとおり、ちゃんと幻想を幻想と看破するテクニックについても言及している。

▶自分に正直であれ

これは思ったことを無神経になんでもかんでも正直に言おうぜってことでもないし、「本当はこう思ってるけど、ヘラヘラと受け流して同調してしまった、ワタシってなんて気が弱いの…」と自分責めするためでもない。シンプルに「気付けるかどうか」ってことが重要ポイントになる。アイン・ランドの視点を借りて言えば、自分の価値に自覚的であれってこと。本当は自分はどう考えているのか?自分の価値基準に沿った選択はなにか、ちゃんと把握しているだろうか?

▶「なぜ?」を問い、相手のコトバに耳を傾ける

選択や判断に際して、相手の行動に無批判に追従したくなる誘惑に抗うために・・・やっぱり、相手の意見を聞くべきなんだ。その人はどういう考えでその選択をしているのか?もしかしてそれも「前に倣え」の理由なのか、個人的な事情があるのか。だとしたら、自分にとって判断の基準にすべき事情はなんだろう?

本書のエピソードのひとつに、「臓器移植のために提供された腎臓のうち、5つに1つは廃棄されている」というショッキングな事実が紹介されていた。腎臓を待ち望んでいる患者は、アメリカで年間10万人にのぼってる(腎臓移植を希望する患者の4人に1人は1年以内に亡くなっている)というのに。
ウェイティングリストの上から順に移植希望者に連絡がいくわけだけど、何人かの人が提供を受け取らなかった結果自分の番が回ってきたときに、「前に倣え」の本能が働いて「いや、私もやめときます…」とまた次の人へパスしてしまう。実際最初の数人の拒否の理由は腎臓そのものにはなく、別の個人的な(移動手段や自分の体との適合度の問題)であるんだけども、何人目からの人はただ「ここに至るまでにこの腎臓が断られてきたのは、なにか問題があるんだろう」と推測して「前に倣え」で判断しがちになる。そのせいで、健康な腎臓の10%は廃棄されてしまっている。

その人自身の「なぜ?」を聞くことができたら、その理由が自分の判断の根拠になるものかどうか少し考える機会ができる。自分の現実にピントを合わせて、個人的な判断を下すことができる。

相手が「あの人とあの人がそうしたから」以外の理由を説明できないときには、群れに巻き込まれて集合的幻想に陥る危険があると察知できる。

「なぜ」と問うことで暗幕を取り払い、他者の行動や主張の裏にある真実を明らかにできる。 同様に、このシンプルな問いかけには即席の(しばしば不正確な)推測だけに頼るのを予防し、連鎖反応の発生を未然に防ぐ効果がある。

他者の選択の裏にある理由づけを解明すれば、その行動原理が自分の価値観や優先事項に合っているか評価し、さらにはその判断が自分の個人的事情に適しているかを検証することもできる。

『なぜ皆同じ間違いをおかすのか』

他者を観察し他者に耳を傾けることで正確さを高めるのが望ましい一方で、自分の判断を捨てて無批判に他者(集団全体や権威者)に従いたくなる誘惑には抗わなくてはならない。
それは面倒に思えるかもしれないが、自分で考えることは個人にとって重要なだけでなく、社会全体が健全に生き延びるためにも必要不可欠なのだ。

『なぜ皆同じ間違いをおかすのか』

ちなみに、この相手に「なぜ?」を問うという方法は、嬉しい効果もある。「自分のことを話す」行為は、金銭や食事の心理的報酬に匹敵する満足感をもたらしてくれる。個人的なハナシを開示することは、人にとって純粋に快感なの。
個人的な考えを人と共有すること、お互いの考えを尋ね合い披露し合うことは、(例えそれがセンシティブな内容であっても)満足感につながり、仲を深めることが研究でも明らかにされている。

相手に「なぜ?」を問う。お互いに自分の考えを共有する。それは他者とのつながりを築き、絆を深めやすくしてくれる。そこで交わされる情報や知識の蓄積が、お互いの学びにもなる。

相手の言葉に耳を傾ける、ってのは相手の意見に同意するってことじゃない。相手を尊重するってのは、相手に従うってことじゃない。

人と人を結びつけるのは、同調の「共感」だけじゃないってこと。むしろ、同調の絆よりももっと大きなエネルギーをお互いに創り出すことができる「共感」の在り方がある。これは『生命力を高め合う「つながり」を自分の手で創る方法』で紹介したNVCって手法なんだな。

『なぜ皆同じ間違いをおかすのか』では、孔子の『誠』の教えが引用されている。

あなたが何を信じていても構わない。それが私の目に正しく映ろうと誤りに見えようとも関係ない。
あなたが自分の信念に対して正直な態度をとっていて、自分の信念のために本当の犠牲を払ってきたのであるかぎり、私はあなたを尊重し敬服する。

いま重要なのは、あなたが信じる真実の内容を私が受け入れることではなく、その真実に対するあなたの態度を私が尊重することだ。

真実の内容はあなたと私とで異なるが、態度については間違いなくお互い共通している。

『誠』孔子

そう、表面にある違いに拘るんじゃなくて、「ま、人それぞれだからね」と寛容のフリをした断絶でもなく、お互いに共通している「信念に対する正直な態度」に敬意を払う。多様性を認めるってそういう態度なんじゃないかな。

↑「人それぞれ」を、相手と距離をとって本音を遠ざけるコトバとして取り上げていた本!

▶群れ的思考に陥っていないか?

私が思う私らしさ、つまりアイデンティティってやつは、個人の特徴だけじゃなくて「自分が所属する集団への帰属意識」もかなりまぜこぜになってるもんなんだよね。

日本人らしさ、だったり、〇✕商事のオレ、だったり、カープ女子、だったり。そういうどの集団の一員であるかってラベルが、アイデンティティの一部として扱われる。脳は、個人のアイデンティティと集団的アイデンティティを区別していないから。

集団的アイデンティティがその人のアイデンティティになる、ってのはつまり、私らしさの表現方法が「その集団のメンバーっぽさ」を強調するってこと。商社マンらしい服装や言動、考え方や価値観に「自分を寄せてゆく」。「日本人の誇り」、っていうのもそう。例えば「不良グループ」だって、まぁステレオタイプなファッションだとか言動してるよね。自分を集団のイメージに寄せてゆく。「同調」「模倣」の対象になるモデルは、「その集団の理想キャラ(だと自分が思っているもの)」になる。

このとき気をつけないといけないのは、集団アイデンティティの価値観由来の考え方はバイアスがかかりやすいってこと。その考え方を補強する情報だけを拾う思考パターン、確証バイアスってやつね。ワレワレvsアイツラっていう群れ的思考になっちゃうと、受け取る情報が「自分たちが正しくてアイツラは間違ってる!」という内容に偏りがちになる。そして確証バイアスを通して情報に触れれば触れるほど、より同調したくなり、外部に対して攻撃的(排他的)になる。世界が閉じていっちゃうスパイラル。

人々が説得されるのは、大声で言われたときではなく、すでに信じたがっている情報にふれたときです。

世界が閉じれば閉じるほど、無批判に同調しがちになってしまうことを覚えておきたい。

自分のパワーを取り戻す

私たちは言われるほど分断されていない。共通の価値観を持っている。私たちは信頼に値するし、互いにできるだけのことをしたいと思っている。
自分の内なる力に気づき、自己一致を心がけ、信念に基づいて声をあげれば、集団的幻想の霧をふり払い、よりよい社会の可能性を切り開くことができるはずだ。

『なぜ皆同じ間違いをおかすのか』

自分たちにパワーを取り戻し、幻想を打ち破るカギは「真実」「自己一致」そして「信頼」にある。繰り返しになるけど、思い込みの杭を引っこ抜くためには、それくらい頑張って何度も引っ張らないといけない。

▶真実

本当はどう思っているのか?どうしてそうじゃないのか?自分と、相手に問う。個人の声に耳を傾ける。そして違いを受け入れる。思い込みをしないように気を付けて、すでにある思い込みには臆せず立ち向かう。

▶自己一致

自分の価値観に自覚的に正直でいる。信念と行動の歯車を噛み合わせる。

本心の公言とは、人の考えをねじ曲げる(そもそも実在さえしないかもしれない)ソーシャルメディアの実体なき集団に言葉を投げることではない。また、めったやたらに嘲笑や危険に身をさらすことでもない。

自己一致のために重要なのは、コミュニティにいる生身の人々のあいだで信念と行動を1つにすることだ。

自分の内側に加えて、外側でも真実と調和することだ。

『なぜ皆同じ間違いをおかすのか』

まずは身近な関係性から。家族や友達、目の前にいる誰かに対して、「誠実」であろう。「誠実」ってのはなんでもかんでも自分の気持や考えを主張するってことじゃないよね。関係性を裏切らない、っていうのかな。自分と相手の、大切にしているものを裏切らない。表面的な摩擦を避けて自分をまげることでも相手のことを全く考えずに自分を押し通すのでもなく、目をそらしたり受け流すのでもなく、心を込めて向き合う。

▶信頼

「信頼に値することを相手が証明するまでは不信の目を向ける」を基本姿勢にしている限り、信頼はなかなか生まれない。

人は信頼されていると感じると、それに応えようとする。信頼に値する振る舞いをするかどうかは、その人が信頼に値すると扱われているかどうかで決まる。これは実験でも証明されている。

無防備でいなさいってことじゃなくてね、もし「これくらいまでなら裏切られても大丈夫かな…?」って思えるくらいの小さなリスクなら、勇気を出してとってみる価値があるってこと。その価値はめちゃくちゃある。信頼には嬉しい副作用がたくさんあるからね。全般的な幸福度が上がって健康になるし、生産性も上がる。お互いに寛大になって、世界がよりよい場所に思えるようになる。たとえ信頼の結果が期待と違っていたとしても。
オモシロイのは、「騙されやすさ」に関しては、人を信じる人よりも疑う人のほうが大きい(ウソを見抜きにくい)らしい。信じる人はそれだけまっすぐ相手を観察してるのかもしれないね。

傷つくリスクを負う勇気は、人を通して伝染していく。その勇気は繰り返されるたびに広がりを増し、成長していく。「同調」の沈黙は、疎外と閉塞と引き起こすけども、この波紋は開放と結びつきを促してゆく

小学生と1歳の息子がいる我が身としては、これは子育てでもひじょーーにダイジな視点だなと思うのです。「どうせできない、できるはずがない」という決めつけがあると、先回りして手助けしすぎたり口うるさくなったりしちゃうものね。そうやって不信を前提に支配&管理された環境で、自立自尊の心がすくすく育まれるか?ってことを心に留めておかないといけない。

  • 他人から信頼されると、他人を信頼しやすくなる

  • 他人を信頼する人は、そうでない人よりも信頼されやすい

  • 相手と「競争」していると思うより「協力」していると思うほうが、信頼に信頼で応じる確率が倍増する

こういう「信頼」の影響力について研究した数々の実験結果からわかるのは、ひとつの「信頼」から起こした行動が全体に影響を与えうるってこと。

これは、一度誰かが傷つくリスクを負うと、その後に起きる交流すべての指針となるグループ規範が生まれる可能性があることを意味する。私が読者のあなたに財布を預けたら、その1つの行為が引き金となり、信頼の送り手と受け手が集団と社会全体で急増するかもしれない。
想像してみてほしい。あなたには1人でこの世の社会的信頼の総量を倍増させる力があるのだ。いまよりも少しだけ他者を信じ、頼る気を起こせばいい。

『なぜ皆同じ間違いをおかすのか』

もちろん、全人類が100%信頼に値するってわけじゃないさ。不信に足る理由がある相手なら、信じなくても問題ない。問題なのは、その例外を原則として振る舞わないってこと。不信バイアス(無意識に相手の行動やふるまいの端々に不信の証拠を見つけ出そうとする習性)に陥ってないか?を自分に問うということ。裏切られて取り返しのつかないことになるようなハナシならすぐに信頼する必要はないけど、日常の交流のほとんどはそんなに高いリスクはないってこと。

まずは、身近な人に向けるまなざしを、不信ベースではなく「信頼」ベースに切り替えてみよう。相手に思い込みを抱いてないか、チェックしてみよう。信頼ベースの社会のChangeになれと言われても難しく感じるけども、目の前にいる身近な人にいまよりもう少し信頼と敬意を向けることなら今からすぐにできるよね。

社会的信頼を研究した実験で驚かれた結果のひとつに、ほとんどの人が「自分は原則として誠実に行動する」と思っていることが分かった。他の人はそう思っていないだろうという予測もまた、ほとんどの人が共通していた。私たちは他者に対してかなり間違ったイメージを抱いている。その幻想気付かなければ、不信の罠からは抜け出せない。それに、忘れちゃならないのが自分の抱くイメージに責任を持たないといけないということ。人間は相手をモデルにして行動やふるまいを決める。一人一人が他者の行動のモデルになるわけだからね。

人間観のパラダイムシフト💫これは善き未来への大きな一歩。踏み出せば天地がひっくり返る。それでも地球はまわっている。それでも世界は美しい。

併せて読みたい『Humankind』🕊まだの人はぜひ、BOOK CAFEそらふねの紹介記事だけでもいいから触れてほしいエネルギー✨

なんだかまた無性に聴きたくなった、長田弘氏の詩『世界はうつくしいと』。もし、信頼ベースの関係性に世界がひっくりかえったのなら・・・うつくしいものを、ためらわずにうつくしいといえるようになるんじゃないかな。その真実が聞き手の真実と違っていても、否定しあって傷付け合うんじゃなく、その人の「うつくしいと思う真実に対する誠実さ」に敬意をはらって、認めあえる関係性がひろがれば。

いつか塵に還るこの世界、この身体。だからこそ、うつくしい世界を目指したって、いや、信じたっていいじゃないか。

以上、トッド・ローズ著『なぜ皆同じ間違いをおかすのか「集団の思い込み」を打ち砕く技術』でした!!🙌

BOOK CAFEそらふね、今日もうつくしい世界を信じて宇宙をかけまわるよ📖💫そして「善き未来を一緒にいかが」とあなたのもとに停車する。本を開いた指先で、静かに動いたつむじ風。その風はいつか、トキと場所を超えて、大きな渦を巻き起こす。目に見えぬ 世界に響く バタフライエフェクト🦋

ここまで読んでくれてありがとう!!お次はちょっと目線を変えて、「幻想」と「現実」の境界線はどこにある?ってハナシを、「脳の仕組み(一般的なイメージは誤解がいっぱい…!!!)」からつついてみようかなって。

BOOK CAFEそらふね、これからも生命力をぶんぶんまわして発電⚡できるような、そんなハナシをお届けするよ🚀✨(応援、サポート、本当に嬉しい!ありがとうなのです…!!)


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