BOOK CAFEそらふね『SELFISHNESS』これぞジコチューの真の姿ーなにが善でなにが悪か?生きるための「価値」を問う
こちらBOOK CAFEそらふね、いつもは「読んで読んで!これ読んで!」って、ふがふが大好きな本を頭上に掲げてお届けしてるんだけど、今回は本を胸に抱えたまま、ちょーっと一歩下がってご紹介・・・
『SELFISHNESSー自分の価値を実現する』アイン・ランド
アメリカで政治的、思想的に大きな影響を与えたベストセラー小説『肩をすくめるアトラス』の著者、アイン・ランドによるひじょーにスパイシーで、とんがった思想の本!!(笑)
人間は自分自身の利益を最優先に、利己的(SELFISH)に生きることを美徳として生きるべし
他人のために、社会のために奉仕すべきって常識は、偽善どころか邪悪な教え
道徳が崩壊しているから社会が堕落してるんじゃない、そもそも私たちが思い描く道徳の在り方が根本から間違ってる
これ聞いて「へ?」「もや…」「ムッ」とする人に、ぜひこの記事をお届けしたい!
そう、これは熱烈なファンになるか嫌悪感を抱くか分かれる危険思想・・・(笑)
正直なところ、私はアイン・ランドの思想を全面的に「イケてる!」とは思えないんだけど、思想の根っこにある「人間のいのちに対する敬意」がひじょーに好きでね。今回は政治や経済に対する主張は横に置いといて…この根っこ部分、「自分自身のいのちとの向き合い方」部分を紹介するよ。
アイン・ランドといえば資本主義バンザイな経済論の印象が強いけど、この記事では政治経済については触れませんのであしからず。
ちょいちょい占星術的なツッコミもいれるけど、それは「今だからこそ」まっすぐ問いかけてくるテーマでもあるから。
4月19日から太陽が牡牛座のエリアに入室、東洋的には「穀雨」という暦の切り替え地点。この期間のホロスコープで強調されているキーワードに照らし合わせて、「これはダイジ」だと思うところをピックアップしたい。
そういうわけで、こたびのBOOK CAFEそらふね、この本『SELFISHNESS』を通してこう問いかけたい!
今この牡牛座のトキ(宇宙の潮流)が求める「価値」、それは全部この問いに答えられないと始まらない。ここを抑えておかないと、ただトキの流れの表面を「それっぽく」なぞるだけになってしまうくらい、ダイジな問いだと思うんだ。
どんなことを価値にしているのか?
それは、自分が世界を意識的に(あるいは無意識に)どう見ているのか?が反映される。逆に言えば、世界はあなたの価値に照らし合わせてその姿を表すってこと。
どれくらい自尊心※があるのか、欠けているのか?(※自尊心については、後ほどシッカリ触れるからね!)世界をどれくらい善いものと、あるいは悪いものと見なしているのか?
自分の理解と行動に対して、世界がどれくらい開かれて/閉じているのか?
喜びや楽しみを見出すもの、パートナーや友人との付き合い方、あらゆる選択と判断の根っこに、あなたの抱く「価値」がある。それは世界の写し鏡。
この記事では、「価値」について・・・そもそも価値ってなんなんだ?なんのためにその基準があるんだ?ってところまで遡って、ディープにほりほり一緒に考えてみたいなって思うよ。
「価値」の大前提にはいのちの「存在」がある
「価値」は占星術でいえば牡牛座のテーマ。この領域にしっかりと足を踏み込めるかどうかは、一歩手前の牡羊座テーマをどれくらい落とし込めているかにかかっている。
牡羊座のテーマは「存在」「出現」。私、というひとつの存在が出現する起点。いのちが始まる。始まったからこそ、いのちは今ここに存在している。存在し続けようとしている。
いのちが存在することをスタートした、いっちばん始まりのポイントにおいて、最も重要な、究極の目的はなにか?それは、生きる(生きているという状態、存在をキープする)こと。そもそもそれを達成しないと、その先に進めない。
いのちのすごろくゲームが始まった瞬間に、サイコロが手渡される。進むか?止まったままでいるか?ゲームは始まっている。このボードに自分のコマを置いた以上、振らない、という選択肢は無い。いのちにとって、とるべき選択肢はひとつだけ。「生きる(この世界に存在する)」ために動く、ただそれだけ。
さて、ゲームがスタートした。ここで「価値」が発生する。
すごろくゲームが始まったからこそ、サイコロの目の数に意味(価値)が生まれる。目の数が多いか、少ないか。もしかしたら意地悪なサイコロでマイナスの目なんかもあったりして。
サイコロの目だったり、マス目に書かれているあんなことやこんなことに「価値」(喜ぶべきことなのか?がっかりすることなのか?)があるのは、そのゲームをプレイしている本人たちにとってだけ、でしょ。
そのゲーム内の出来事に意味を見いだせるのは、そのゲーム内に存在しているから。このゲームをプレイする、生きる、という目的があるから。
たどえばすごろくボードに描かれた背景の絵。これは動かないし、動く必要がない。ゲームをプレイするという「いのち」が存在してないからね。この絵にとっては、サイコロの目もマス目に書かれたイベントも、何が良くて何が悪いとか「価値」はないってこと。
アイン・ランドは、生きている限り、いのちという存在にとって「生きること」以上に重要な目的はない、と言う。これが究極の、最初の、根本的な選択肢なのだから。
そして「価値」というのは、この究極の目的にプラスになるかマイナスになるか、が最重要基準であるはずだ、と。すべての価値は、「いのち」ありきの価値。
「いのち」という究極の目的、価値の下に、他の様々な価値がぶら下がって階層構造になってるよ、そこを忘れちゃいかんのだよ、ってのが、アイン・ランドの主張の核。
いのちにとってプラスになることが善、そうでないものが悪。
アイン・ランドの思想は白黒ハッキリしている。それはこの究極の価値が、白(生きるという選択)か黑(生きるという選択を放棄する)かしかないから。ここに立ち返れば、灰色ゾーンなんてのはありえない。
(生物学的にこのゾーンが曖昧だってハナシはここでは触れないよ)
人間は最初から「価値」基準が備わっているわけじゃない
生きることが究極の目的で、絶対的な価値(善か悪か選ぶまでもなくYESというしかない価値)。さぁ、すべての価値はそこからスタートするよ。
価値を自分で発見して、自分の意志でそれを選択しないといけない。価値は生まれつき備わっている情報じゃないし、それを実行するのも本能的な働きじゃない。
ここが、人間とその他動物の違うところ。人間の人間らしさ、人間の生存戦略なんだってのが、アイン・ランドの主張。
動物にとって、生きるための価値は自動的な反応で決まっている。生存本能ってやつだね。行動の選択は本能にまかせて自動的に決定される(そもそも選ぶことができない選択は選択といえないんだけど)。
でも人間はそうじゃない。生まれてからしばらくは、動物と同じように本能的に価値基準を学んでいくけども、人間はオトナ(人間らしい人間)になる。
オートマチックな反応をする動物的な存在じゃなく、「自由意志」を持つ人間になる。自由意志ってのは、意識的に選択する能力のこと。
何が善で何が悪か?何にどれくらいの価値があるのか?その基準を自分で決めて、自分で選択する力のこと。
動物が植物の生存戦略で生き延びられないのと同じように、人間も動物と同じ生存戦略のままでいると滅びてしまうだろう、とアイン・ランドは言う。
人間は人間の生存戦略「自由意志」を発揮する(使いこなす)ことでしか、生き延びられない。つまり自分の「価値」体系は、自分で見つけて、判断して、選択実践していかないといけない。
じゃあ、どんなふうに「価値」を身につけていくのか?学んでいくのか?その道程を占星術にからめて見てみようと思うよ!
人間として生きる、「価値」を発見する道のり
最初に決まる「価値」は、快/不快(苦痛)という肉体的感覚が基準になる。心地いいか?苦痛を感じるか?はいのちにとって危険があるかどうかを知る基本的な指針だからね。
占星術で人間の成長の最初の段階は「月」が象徴している。本能的な感覚、まだ目が覚めていない夢の期間。
サインで言えば牡牛座かな。肉体を通して、感覚器官を通して外界を判断していく。五感を司る牡牛座が「価値」という象意をメインに持つように、最初に築かれる価値、価値の土台は、五感に結びついている。
ちなみに月にとって牡牛座は「高揚」サイン。月がその性質を最も発揮しやすいサイン。
そこから水星の年齢域になると、オートマチックなそれぞれの反応を「知覚」するようになる。様々な刺激を情報としてまとめ、保存できるようになる段階。
情報処理や分類能力といえば乙女座、複数の現実の関連付けや学習という面は双子座のイメージだね。どっちも水星を支配星に持つサイン。
ここまでが、自動操縦。
情報を蓄えて、それをまとめて行動に活かす…ここまでは動物ができる範囲。動物たちの生存戦略。さてここから先に登場する能力が、人間らしさ、人間が人間として生きるために必要(不可欠)な能力なのです。
そう。この先にあるのが、自由意思。
学習した価値に対して、無自覚にただそれを実行するだけの動物とは違う。それに見合った行動をしないという選択肢(選択するという自由)も手に入れたのが人間。あえて悪・苦痛・不愉快を選ぶことも、善悪を考えない、判断を下さないということもできるのが、人間なのだよ。
価値に対する「自由意思」が人間の生存戦略
善(取るべき方向性)と悪(避けるべき方向性)にの二つの選択肢に対して、自動的に善を選ぶのが動物的本能ね。自由意思ってのは、そのどちらかを「選択」できるってこと。全自動のYESだけじゃなく、NOを選ぶという自由がある。
自由意思(選択肢)を得る、ということは言い換えれば、善を選ぶのも、悪を選ぶのも、自分の意思で選択しなきゃならんぞってこと。この人間らしさ、自由意思ってやつを手にした以上、自動的な反応に頼って生き延びることはできない。
人間らしさは、それすなわち人間の生存戦略。
自動的な反応で生き延びようとするのは、動物の生存戦略。それが機能するのは幼少期のお試し期間まで。
人間の世界が始まる前に、植物の段階と動物の段階をおさらいする期間がある。
胎内では植物的に栄養を受け取る段階をなぞる。でも、おぎゃあと生まれた瞬間にその生存戦略は機能しなくなる。
幼少期は動物的に刺激に反応して学習する段階をなぞる。でも、オトナの段階になるとその生存戦略も機能しなくなる。
植物、動物の生存戦略のおさらいが済んだ時点で、ワレワレ人間は人間の世界に放り出される。自由意思でもって生き延びる、人間の生存戦略で生きる世界に。そこから先、生きるためには自分の意思でもって選択しなければならなくなる。
それができない人間、この能力が欠如している人間は自分以外の他人に(家族や友人、誰か偉い人、社会や組織)自分のいのちを明け渡すことになる。
それは人間として生きることの放棄!いのちの放棄!とアイン・ランドは言う。
人間と動物を分かつ能力、『理性』のおでまし
なんで「悪を選べる」自由意思が、生存戦略なんだろう?って思うんだけどね。自動的にうまくいく方向が選べるなら、それでもいいじゃない?って。
じゃあさ、動物はなんで動き回ること、学習する生存戦略を選んだんだろう。黙って栄養を吸収する、受け取るっていう植物の戦略を抜け出して。
そこんとこ、アイン・ランドは突っ込んで触れていないんだけど。植物として生きるでもなく、動物として生きるでもなく、人間として生きるってことに人間のいのちの意味、価値はあるんだと思う。
その人間として生きる、動物と人間を分かつ分水嶺にある能力が「理性」。自由意思で選択するという生存戦略を実行するための能力。
五感を基準に価値を判断する段階、知覚を基準に価値を判断する段階を経て、人間は「理性」を基準に価値を判断する。アイン・ランドは、というか西洋思想ではこの「理性」ってやつはひじょーに重視される。
西洋思想のバックボーンにあるのが、自然と切り離された特別な存在としての人間観だからね。自然との調和を美的に捉える東洋的感覚とはちょっと違う。
自然はあくまでも人間の下に位置するか、もしくは対立するものであって、それをうまく調伏する(望ましい状態にコントロール下におく)ことが人間の自然に対して成すべきこと、って感覚が根っこにある。
だから人間と人間以下を隔てる「理性」ってのは、人間らしく生きるための当然の前提、最低条件であり目指すべき美意識でもある。そんな文化的価値観が染み付いたコトバなだけに・・・純ジャパニーズで東洋的価値観の中で生まれ育った私には正直、「重み」というか「手触り」を伴わないコトバでもある。
コトバの定義、意味は知ってるけど、「自分のコトバ」ではないのよね。たぶん外国人にとって日本の「侘び寂び」だってそうじゃない?
説明されれば、ああそうだねそうかもねって思うけど。
そのコトバの意味を説明できることと、そのコトバから「あぁ、あの感覚」って自分の中で参照(追体験)ができるのは、全く違うよねぇ。
赤い色を見たことがない人が、「赤とはなにか」を説明できたとして(色のひとつで、熟したトマトや血液のような色の総称。暖色のひとつ。JIS規格では基本色名の一つ。国際照明委員会 (CIE) は700 nm の波長をRGB表色系においてR…)、それは赤を知っている、と言えるのか?
・・・なんだけど、とにかく彼女の言わんとしていることを落とし込むには「理性」という感覚を共有することが必須なので。辞書的なコトバの意味をペラペラと貼り合わせるだけじゃなく、あの手この手で「理性」の感覚を探りつつ、ここでお届けできたらな、と思うよ。
だから、先に進む前にもう少し「理性」ってコトバに込められるニュアンスに触れておこうと思う。
⑤「宇宙・人生をつかさどる基本原理」とか、ほら、「理性」を人間らしさの大前提として捉える視点を表してるよね。
アイン・ランドは「合理的な」ってコトバもかなり頻繁に使うんだけど、これは「理性に合致する」って意味でとらえていいのかな。
こっちでも、「道理に基づいて」ってコトバで説明される理性。「道理」って「理性的な道」のことでしょ・・・これってトートロジーじゃ・・・?と思うんですけども、とにかく「論理的に」「感情に走らず」、ロジカルに、クールにってことかしら。
感情や衝動が「レベルの低い」精神の働きと見なされがちなのは、それを抑えることが理性的(人間以下と人間を区別する能力)だからなんだろうね。
「女は感情的だ」ってコトバに込められる、理性的ではない=人間(MAN)よりも劣っている、ってニュアンスもここから来ているんだね。(最近だと感情も、感性や感受性というコトバでひとつの能力として認められるようになったけどね!)
理性VS感性の伝統的な西洋的視点は、こんなふうに↓まとめられる。
本能的な反応、感情、欲望は暗闇。まだ人間として目覚めていない、動物の名残の中にまどろむ夢の中。理性は光、宇宙の調和を見ることができる力。
そんな対比が西洋思想の根っこにある。
ちなみに西洋占星術はこの思想を汲んでまとめられた象徴体系。意味の与え方や解釈の仕方に大きく影響しているから、前提になっているこの視点は(賛同するしないは関係なく)心に留めておくべし。
最後にもうひとつ!
「理性」が動物的な「知覚」や「学習」能力と徹底的に違うのは、ここ!意識的思考能力。アイン・ランドのコトバで言う「意志的な意識」。
私は今どんな問いに向き合っているのか。それに対してどんな判断を下そうとしているのか。その判断基準はなんなのか。
自分自身がバチッと自覚したうえで、考えているってこと!
案外ね・・・日常生活では「意志的な意識」って働いてないもんかもしれない(^_^;)そりゃあ、頭の中がアーダコーダやかましいとしても、その全体像を把握してひとまとめに統制するリーダーの声があるかどうか?一貫した目的(価値観)でもって判断する視点があるかどうか?
「太陽」は理性の光を放つ人間の中心
「自由意思」「意志」「自分自身に対する自覚」、こうやってキーワードを並べれば、浮かび上がってくるのは「太陽」だね!占星術の太陽は、占星術の中心、主人公。
「理性」を人間の基本&目的とする西洋思想が根っこにあることを考えると、この意味付けの重要度が分かると思う。
太陽は獅子座の守護星。
ライオン・キング獅子座は、一国の主。最もパワーを持つ存在でないといけない。(東洋における「理想の王」像はまた色々ありますけど…!)自分の中で、力の中心であるべきもの。それが意志的な意識である「理性」、自我。
最近は自我を精神の未熟な部分のように見なす風潮はあるけども、それはまた別のハナシで・・・
今はとにかく、この「理性」ってやつは人間が人間として生きるために重要(必要不可欠)な能力だってことだけは押さえておこう。
刺激に反応するだけでなく、刺激から得た情報を保存しておくだけでなく、様々な情報の全体像を見渡したうえで、どれを選ぶか(選ばないか)決めることができる。いや、決めないといけないのが、人間だから。その判断を下す能力が、ここでいう「理性」の意味ね。
人間らしく生きる指針となるもの、それが「倫理」
ここまでは、おーけい?さぁ、ここからアイン・ランドの思想のおもしろいところに入っていくよ!
ワレワレ人間は、生きている人間は、まず「生きる」ことが究極の目的でないといけない。これは最初に述べた通り、生きている限り「いのち」こそが究極の価値(あらゆる価値の大前提)だから。
そのいのちを維持するために、人間(理性的な存在)として生きるために、いのちにとって価値があるものはなにか?どうすれば理性的に生きることができるのか?そのために必要な目標・価値はなんなのか?その価値ってやつが「美徳」。善悪の基準を考える、倫理ってやつなのだ。
それでアイン・ランドは「オブジェクティズム(客観主義的)倫理学」というのを提唱する。今回は彼女の「オブジェクティズム倫理学」の中身じゃなくて、その視点、「どうやって価値基準を見つけ出せばいいのか?」って部分に注目しようと思うよ!
善悪の基準を教えるのが「道徳」なわけだけど、これは人々に選択されて受け入れられた「倫理」のこと、何を美徳とするべきか?をまとめた価値体系のこと。
「道徳」は今、現実を生きるいのちある私たちのためにあるはずなのに
道徳、善悪の基準は歴史や環境次第で変わる「建前」のようなものだ、と知識人たちは言う。
「道徳」は緊急時ではその限りではない、と注釈がつくような教え、もしくは緊急時を想定した問いでしか(トロッコ問題とかね!)取り上げられないテーマだと思われている。
道徳は、その人その人によって答えが変わる、主観的なものだと哲学者は言う。
だから道徳なんてのは、日常とは別次元でこねくりまわされる暇人のための贅沢な思考実験だと思われている。
あるいは退屈でうるさいお説教だと、若者は言う。
時代にそぐわないオールドファッションな教えだと思われている。
信心深い人にとっては、神の御心に沿うことが道徳だと言う。
罪深い汚れた地上での生活が、死後天国で報われるために受ける罰だと思われている。
・・・いいや、そんなはずはない!!
いのちを生かすための価値を問う倫理、そのデータベースとして用いられる道徳が、日常に、目の前の現実に立脚していなくてどうする?!今生きている、生活している、経験している「現実」こそが「いのち」の現れであるというのに!!
と、いうのがアイン・ランドの主張。倫理は誰かの(神や社会や権力者の)気まぐれであるべきじゃない。誰にとっても客観的で筋の通ったものであるべきでしょ、と。
だからこそ、現実の向こう側にある世界、神の領域を基準に道徳を語るなんで笑止千万!!とアイン・ランドは神秘主義をぶった切る。
アイン・ランドが猛烈に非難する神秘主義ってのは、「神のおわす天界(天国)は善、地上は罪と汚れの悪の世界」って前提の伝統的なキリスト教の考え方を指している。「原罪」のイメージだね。
生きている現実を蔑み貶める神秘主義は、いのちを蔑んでいる。地上を、このいのちの存在を邪悪なものだと思い込まされたら、人は無力感、不安、罪悪感でコントロールされるしかなくなってしまう。
「倫理」は人間が生きるために必要な「価値」を問うことでしょ。だから死者のためや死後の世界のためではなく、現実を生きている生者のための、人間らしく生きるための指針となるものでないといけない。
いのちを最上級の「価値」として、人間らしく理性的に生き抜くことを目的にするのなら、生きて活動している現実こそが「価値」を決めるものであるべきじゃないの?
でも今どき「この世は罪と罰の牢獄、天国だけが唯一の救い」って考えのごりごりクリスチャンはそんなにいないんでないかな?と思うんだけども・・・
もひとつ、私たちが当然「道徳的」で「善きふるまい」と考えている、「他者(社会や組織、自分以外の他の誰か)のために自分を奉仕する」自己犠牲の美徳に対しても、アイン・ランドはキョーレツなビンタをお見舞いする。
私の人生は、あなたの利益の手段じゃない
ここでは自己犠牲を美徳とする考え方をひっくるめて「利他主義」と呼ぶよ。
利他主義が示す「価値」の基準は、いかに自分を犠牲にするかで測られる。重要なのは、自分のいのちをどう生きるか、ではなく、自分をどう犠牲にするか。
「SELFISH(利己的)」というコトバがネガティブな意味で使われるのは、私たちが利他主義の思想に染まっているから。そもそもこのコトバには善の意味も悪の意味もなく、ただ「自分の利益を重んじること」という意味があるだけなんだから。
利他主義では、価値とはなにか?は問われない。
自分が求めるべき価値はなにか?何を選択、判断すべきか?そこを一切合切すっとばして、ただ盲目的に「だれが利益を受け取るか」だけが重視される。
利他主義にとって、価値の恩恵を受け取るのが他人であれば善、自分であれば悪ってことになる。
「そこじゃないだろう!!」とツッコミをいれるのがアイン・ランド。
その倫理はオカシイ、と。
だってその倫理に従えば、「自分はこの人生をどう生きるか」じゃなく「自分はこの人生をどう犠牲にするか」を考えることが人生になってしまう。
倫理は「人間らしく生き延びるための基準」であるはずなのに、これじゃあいのちを否定してしまっているじゃないか。
利他主義は自分のいのちに対する敬意だけじゃなく、他人のいのちに対する敬意も失わせる、とアイン・ランドは言う。自分のいのちが他人の利益の手段・道具であるなら、他人もまた他の誰かのいのちの手段・道具でしかないんだから。
奉仕したがる人ってのは、自分を他人の目的の手段にすることを厭わない人。そういう人は、他人を自分の目的の手段と見なす。
これはあれだね、「相手には問題や欠損があって、そこをどうにか私が補修してあげねばならぬ」ってエネルギーで人(や世界)と接すると、それを証明する現実しか見えなくなるって法則。
助けてあげたい、役に立ちたい、ってマインドで相手を見ることは、相手の力を奪うことでもある。
自分のいのちに誇りと、責任を!
人間として生き抜くというのは、ただ生きながらえるということじゃない。
行き当たりばったりの選択、短絡的な判断、理性ではなく力を手段とする生き方(それは動物レベルの生存戦略)じゃあダメなの。
自分の行動・目的・価値を、一生のスケールと文脈で考えて、選ばないといけない。それができるのは誰か?その責任は誰にあるのか?
他の誰でもなく、自分自身にいのちの責任がある。
だって、自分のいのちを生きられるのは自分だけなんだから。
この自分を中心に生きる、ってスタンスをアイン・ランドはSELFISHNESSで表現する。原題は『THE VIRTUE OF SELFISHNESS(利己主義という美徳)』。ジコチューであれ!という問題発言。これが「問題」発言だと思うのは、「自分を中心に考えることは、善いことではない」っていう前提があるからだってのは、先に述べた通り。
私はこのね、「私の世界の中心に、私のいのちを取り戻す」って視点が好きなのね。自分の人生のために、自分のいのちがある。それは誰かの犠牲になることを強要されるものじゃないし、誰かの犠牲がなければ維持できないものでもない。
自分自身(いのち)を最高の価値として保つ努力、行動、姿勢をアイン・ランドは「自尊心」と呼ぶ。自尊心を持って、理性を手段として生きること。それが彼女の利己主義の在り方。SELFISH(ジコチュー)の美学。
究極の価値「いのち」と、人間らしく生き延びるための能力「理性」に立ち返って、人生の「価値」を問い直してみよう。自尊心と、理性。もろもろの価値、善悪の基準はここが出発点でないといけない。
この利己主義の大前提をもとに、アイン・ランドはいろんな問題をぶった切っていく。
などなど。利己主義であれ!と言われて思い浮かぶような疑問にたいして、ズバズバ答えるアイン・ランド。本の後半三分の一ほどは、利己主義を支える経済のあり方、政治的なハナシになるんだけど、ここでは割愛!
資本主義に疑問を持つ人、資本主義の可能性を信じたい人、起業家の人とかはウンウンと勇気をもらえるかもしれないから、興味ある人は読んでみてね。
人間関係の項目で、アイン・ランドは「対価交換」のイメージで語っていたけど、私はもっと丸いイメージだな!直線上で⇔取引(交差)する、ってんじゃなく、ぐるんぐるん♻ってあっち向きこっち向きのエネルギーがまわる感じ。
そんでもってそのつながりは、お互いのいのちの価値を損なわないだけじゃなく、もっと大きな価値を生み出せるものだって思う。
それから、冒頭で述べた、その人の持つ価値はその人の世界を映し出す、ってハナシ。
善き世界は、善き人間観を前提に(楽観的な期待とは違う、前向きな責任と覚悟)生み出されるんだよね。
↑あわせてよんでほしい!!私の人間観を支える一冊!
蠍座満月に問う
改めて、究極の目的「いのち」のために、あなたは「理性」と「自尊心」でもって価値を定められているのか?自覚的な意志でもって、選択できているのか?問いかけよう。
自分にとって「価値あるもの」はなんなのか。
そのために必要な価値、その価値のために必要な価値、さらにそのために…価値の鎖のさきっぽに、目の前の現実(選択)がある。
価値を守るために、アナタは選ばなければならない。自分の意志で、自分の価値を自覚して。その結果がなんであれ、タップして展開した現実を受け止める責任と覚悟ができたとき、本当の幸福(豊かさ)にふれることができるんだから。
ああ!!サクッとまとめたいのに、この分量!!😂
ここまで読んでくれた人、何を感じたかは別として、私のいのちを受け止めてくれてありがとう!だってこうして読んで貰う人がいて、はじめてこのテキストが、私のパッションが、「存在」することができるわけだからね。
あなたの人生が、あなたのいのちに幸福をもたらしますように!
祈りを込めて。
BOOK CAFEそらふね、スススーっと次なる寄港地めがけて、銀河の旅を続けます🫡⛴ 書籍代の応援、ほんとうに嬉しい!ありがとう!
次はね、自分の価値を他人(社会や集団)の幻想に奪われてしまわない技術にステップアップしたテーマでお届けしたいと考えてるよ!!