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亀農法

数日前SNSで
「スマホが無いときどうしていた?」
というトレンドを目にする。

昭和のおっさんな僕の記憶の中では10代の後半か半ばくらいにはパソコンは既にあったが身近な物ではなく当然スマホなども無く、ネットという便利なツールも無い時代。

どうしていた?と思い出すと僕にとっては幸せな時間だったと今は思う。

僕自身、他者からの評価や自己評価含めて自分を賢いと思った事は一度も無い。
どちらかと言えば何故こんな事を聞くのだ?考えてるのか?と言った感じに理解力が遅く、頭の回転も鈍い出来の悪い子供だったと思うし、今も本質的にはそういうおっさんであるという自覚がある。

では、本題でもあるスマホが無い時代は何をしていたか?

兎に角思考をしていたし、それは今もそう。
今もそのスタイルなので文章化するのは簡単な為ざっと書く。

例えば近頃話題になった未成年の飲酒喫煙問題。
未成年の飲酒喫煙は法的にダメという法律含めた「社会のルール」になっている。

そうか、ダメなら仕方ないな。

で終わらせる事が出来ない性質な為、まず未成年の飲酒喫煙はOKとして思考をし出す。
その時点の知識で絞り出せる限界の数のOKの理由を脳内に出しきる。
必要ならば書き出す。

その上で、そのOKの一つ一つすべてに反論を思考し一人で脳内で討論をさせとにかく全てに結論を出させる。

その時に今も昔も気を付けているのは、出た結論はあくまで「仮説」であるとする事。

この工程を僕は思考の耕しと定義している。

そしてその仮説を基にそれを他者に披露する前に周囲を観察する。
人を見たり、図書館に行き本を借りるなどして社会の思考を拾う。
勿論、自分の結論も仮説に過ぎない以上、その段階での周囲の情報も全て仮説に過ぎないと弁えつつ。

その作業を行った上でまた最初の思考の耕しに戻ると、OKの思考が更に出来るようになり、その反論も浮かぶようになる。

その作業を一人で飽きるほどして厳選した仮説を、思考の実と僕は定義しており、人に見せても恥ずかしくないと思ったらそこで初めて他者に聞く。
自分の仮説ではなく、あくまでもスタートの
「未成年の飲酒喫煙はなぜダメなのですか?」
と。
その段階でも尚、自分はこう考える、こう思うという仮説は提示しないので相手によっては
「なぜこんな分かり切った事を聞くんだろう、しかも何度も。
バカなのかな?」
と思われる事もあるだろうが、そこは一切気にしていない。
気にしてはいないが、何を言われても敬意を持って聞き、真摯に聞き入れる。

そしてそこで得た相手の意見も全て「仮説」と定義し思考の耕しの種にする、を延々と繰り返している。
50の声も目前と言う今ですら、10代の頃の同じ疑問に関する思考の耕しをしているお題を抱えており、歳を重ねても思考の畑を耕し思考の実はなり続けている。

賢い人から見れば、同じことを、そんなしょうもない事を延々と考え続けるとか無能だねぇ・・・頭悪いねぇだとは思うがそんな事は自覚している。
僕はそうやって、自分を客観視しても時間の無駄、狂っているとしか思えない思考を繰り返し続けないと物事を深く考える事が出来ない。
ただそれだけでしかない。

思考を耕し、思考の実が常に実る状態にしておかなければ分かったつもりになり畑を放棄し雑草しか生えない、使い物にならない人間に直ぐにでもなる自信しかないからなのも、ある。

そして最初に書いたなぜ幸せなのか?
僕は最初に書いたように自分の能力、思考はアホウだと思っているし好奇心は少年期から旺盛だが飽きっぽい性格をしていると思う。
飽きっぽいと言うよりも好奇心が強いので新しい物に対する興味が強い。

そんな少年が今のようにスマホで簡単に周囲を観察でき、質問できるツールを手にした場合、とてもじゃないが思考の耕しは出来なかっただろうし、しなかっただろう。
簡単に調べられるその情報を事実と受け入れ、思考で耕すことをやめ、仮説と言う実を実らせる事もない。

雑学と言う雑草が生える実りの無い脳みそになり果てていたと今でも思う。

勿論、賢い人はそうした情報から正しい、間違いを選択し有効に使う事が出来るのだろうが残念ながら僕は今も昔も常に思考を耕さないと賢い人の10%すら物事を理解出来ない知能である事は自覚し、自戒して生きれている。

そう考えると、スマホという便利なツールが少年時代に無くて良かった、と思っている。

こうやって書いてみて思ったのは、良く人間は老人になると同じ事を繰り返して言うようになるが、なんてことはない僕はもう10代の頃から同じことを言う、聞く老人みたいな子だったな・・・・(  ˙-˙  )オシマイ