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「見る」「見られる」

どうもこんにちは、全く予想外の方向からこのnoteのアカウントがバレていてテンパり倒した弦です。やっと落ち着きました。

確かによさげな記事が書けたときはTwitterに流した時期もあった。けどさすがにアクセス数も大した数ないし、大学の部活仲間とか文学部のTwitterよく見る人たちあたりが読んでるのかなーと思って完全に受け流してた。
気が緩んでたから、特に最近はリンクをTwitterに貼ったりしなかったとはいえ、就活のゴタゴタや家庭環境なんかも流したりして、これ読む人によってはこんなこと考えてるとわかったら今後の付き合いどうなるか分かったもんじゃないな……と思い始めていた。いや、ネットの海にタールみたいに文章垂れ流してる自分が全ての元凶なんだけど。

そんなときだ。

「そういやnote読んでるでー!」

電話越しにサラッと言われてしまった。敵わないなあと思ってる人たちの集まりに。
いやー、時が止まったよね、うん。本当に電話で良かった。でも電話だからってタイトル読み上げるのマジでやめろ、顔から火が出る。
冷静に自分の状態を考えたら、スマートフォンに向かって自分がちまちま書いた文章のタイトルを連呼してる。一周回って面白くなってくる。
なんか前にもTwitterって投稿してはないけど見てる人の多さに気づけない怖さがあるよなあと思った記憶はあるけど、こんなにダイレクトに実感するとは思わなかった。だとするとあれもこれも読まれていたのか……? 的なフラッシュバックはもうあるあるだと思って諦めることにしよう。公共良俗に反することは書いてないはずだし。
結局僕の自己表現として、自分の頭の中を全部吐き出そうと思うと文章になるから、このプラットフォームを手放す気はゼロ。なんだけど、迂闊に受かったとか落ちたとかくっついたとか離れたとか言えなくなっちまうなあ。これが匂わせってやつか。フウウ!!
むしろそういうのは下手に形に残さず、飲みの席で肴にして終わらせるのが美しいということなのかもしれない。なのでその電話の直後に3時間飲んできましたよ、ええ。相手は本当にSNS見ない人だから安心だった。その話題にはならんかったけどね。なんの皮肉?

こういう「自分の頭の中をのぞき込まれる恥ずかしさ」って、創作の世界ではひとつの関門というか、ここが受け容れられないならもう自己表現で何かを為すことは望めないんじゃないか、それぐらい大きなハードルだと思ってる。カラオケを配信で人に聴かれるとか、イラストをpixivにあげるのとかも近いのかもしれない。
そう考えたら、まだ気心知れてるやつらに見てもらった段階でよかったのかもしれんな。不意打ち過ぎただけで。正直その後に出かける予定も会話の中身も一瞬ぶっ飛んだし。今度感想聞きたいので会いましょう。

んで、改めて考えてみると、すごく今やってる卒論の題材にも近いなと。急に現実に戻してすみません。幻想文学がやりたくて江戸川乱歩の長編を選んだはいいが、一歩間違うとコンプラギリギリみたいな内容なのでどうしたもんかと悩みつつ。けど彼の作品はやっぱり、「見る」「見られる」みたいな視線の問題とか視覚のトリックとかがすごく多い。屋根裏や押し入れからの窃視とかね。そういった視覚表象が文化的にも一気に開花した時代だったんだ、という先行研究を読んで感心した覚えがある。
とはいえ先行研究のパクりで卒論は書けないので、なんとか自分のルートを見つけてぼちぼち進めていきたいな。てかあと2週間で発表なのでシンプルにまずい。3月4月を就活とそれに伴う体調不良で食い潰してたら進捗がえらいことになってる。

自分にとって「見られる」ことは、だんだん日常の中に落ち着きつつある。このままどんどんいって、自分の思いや表現を素直に社会に撃ち抜いていけたらいいな。自分の体験や感情を吐き出す型ではあるからそんなに乱れ打ちできないだろうけど。マイペースに打ち出すので生暖かい目で見届けてください。GWも明けて、どうなることかと思ったら意外とケロッとしています。例年死んでるから反動が怖いです。でも気圧にはしっかり負けている。起きられない。

では!

p.s.「続いてる」って言っておくのでご安心を。あと一番読んで欲しいのはやっぱり「はば」。


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