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誕生日を迎えて思う。

誕生日って、やっぱり特別。
誕生日を迎えた人はその日の主役になる。家族や友人・仲間などにお祝いしてもらって、笑顔がいっぱいあふれる特別な日。
私の子供の頃は、よく外食に連れていってもらった。普段は食べられないようなステーキだったり、焼き肉だったり。特にブロンコビリーのがんこハンバーグが好きだった。

お祝いをしてもらえると嬉しい。でも祝ってもらえるから特別なのかというと、そういうわけではない。誰からも祝ってもらえなくても特別な日。なぜなら、自分の中で特別な日であることを意識してしまうから。
「来月は誕生日だな」
「今月は誕生日だな」
「明日は誕生日だな」
「今日は誕生日だ」
誰に言われるわけでもなく、自分の中で何度となく意識してしまう。
「ハッピーバースデー……」
誰にとっても、誕生日は特別。

そんな私も先日、誕生日を迎えた。頭の片隅に「誕生日」ということを意識しつつも、いつものように仕事。でも時々仕事が少し手につかない感じがあって(誰かに誕生日おめでとうって言われるんじゃないかな)という期待なのか不安なのか分からない感情がわいてくる。

でも結局なにもないまま退社時間になり、いつものように電車に揺られる。
「やっぱりなんにもないよね。いつものことなのに。」と自意識過剰な自分に恥ずかしさを覚える。
「もしかしたら、メールが送られてくるかも……」なんてわずかな希望を抱いて、なかったときにちょっと傷つくのもイヤ。あったときの喜びは計り知れないけどさ。
頭の中でback  numberの「HAPPY BIRTHDAY」を流し、自分と重ね合わせて自分を慰める。「あるわけないんだよなぁ」と星空を見上げる。
同じ日、同じ時、同じ思いを何年続けただろう。
そしてこれから何年続けるのだろう。
星空は薄い雲に覆われた。
「今日はケーキでも買っていこうかな」

いつもと変わらない日を過ごし、いつもと変わらない夕食を食べる。今日はスーパーで買っておいた一袋50円の和風そば。和風というだけあって、半分以上は小麦粉で作られてる。
その和風そばを手際よくレンジで温め、お湯に白だしとレモン汁をあわせ、仕上げにいりゴマをまぶす。手軽でおいしいいつもの夕飯。わずかに立ち上る湯気が幸せを演出する。
「おいしいんだよね、これが」
そばを食べ終えると、いよいよデザート。いつもなら用意なんてしないけど、今日は”特別”だからね。
帰り道のコンビニで買ったチーズケーキのパッケージを開ける
「ハッピーバースデートゥ……」

やさしい甘さのなチーズケーキは、私をほのかに幸せにしてくれる。誰かと食べたら、もっとおいしいんだろうな。でも1人でいい。自分のことなんてどうでもいい。
大切な人たちが幸せならそれでいい。

本当にそうだろうか?大切な人たちが幸せでも自分が悲しみに包まれていて、それでもいいのだろうか。それで自分は幸せなの?星の瞬きは消えていた。

よくない。

今日は自分にとって特別な日だよ?
それなのに、悲しんでていいの?
自分の特別な日を、自分が1番お祝いしなきゃ。
自分のことを大切にできない人が、他の人を大切にできる?
もしできるという人がいたとしたら、それは本当?
他の人を大切にしているようで、本当は利己に陥っているんじゃない?相手のことを考えているようで、自分のことばかり考えてる。
自分のことを大切にしている人って、堂々として輝いていて、とても魅力を感じる。だからこそ、人が集まってくるし、他の人を自然と幸せにするんじゃないかな。

お祝いされないのは毎年のことで、慣れきってしまった誕生日。
でも自分の誕生日を最もお祝いして、最もねぎらうのは自分自身だ。

「ハッピーバースデートゥー、ミー」

「そうだ。明日、誕生日のお祝いに外食に行こう。1日遅れだけど、許してね!食べるのはもちろん、ブロンコビリーのがんこハンバーグ!」
いつもの誕生日。
でも、ずっと変わらない”特別な日”。

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