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mumi mushu

無味無臭という言葉をここ何ヶ月もっぱら考えている。

この場合何を指しているかというと、例えば
「自分という存在を消して絵やイラストを描いたりする」
とかいうことだ。

いかに人に求められるモノを提示できるか。

人に求められるというのは何事においても自分の存在を認識してもらってから始まる。でも最初から「自分らしさ」をぷんぷんさせてしまうと、なかなか人には求められないような風習になってきている。
何においても(仕事でも)『自分』を最初から全面的に出してしまうのは怪訝な顔をされるのがこの世。職場で新しい場所に移る時などは特に気をつけていることでもある。

大衆に受けやすいイラストやデザインというのはいつの時代もあって、今なんて使えるアプリさえあれば『それっぽい』流行りの絵やイラストはいくらでも描けてしまう。写真でもそう。
オシャレであれば、それっぽいのである。色見本も沢山あるし、ある種の方程式を学べばなんとなくアーティストになれてしまう時代。

いつからこんなに誰でもデザイナーやクリエイターになれる時代になったんだろう。
クリエイティブのバリュー(価値)がすごく低く設定されてきていないかなあ、とも思う。
受け取る人のモノを求める価値観も変わってきてるのかな。
大半の人がいいと言ってるから好きになるのか?
それとも自分の琴線に触れるから好きになるのか?

今の人はどっち?

ムムムムム。

ファッションでも言えること。
生地の質、洗練されたデザイン、着心地の良さのなかのオシャレ感、その人を綺麗に見せるための服をどれだけの人が作っているのか?
好きなモデルやタレントが作っているから無理矢理『良い』と思い服を買う。安いから、流行っているから、みんなが持っているから買う。
インスタグラムを使わないとPRにならない時代。インスタグラマーの威力は前の仕事でよく知っている。影響力というのは強いツールである。


そんな中、自分はどうやって自信を持って絵を描いていけばいいかなあと、最近すごく考える。
どんなに無味無臭のイラストを描こうとしても、なんらかのクセがある。
クセ強イラストしか描けない。なんか匂う。消せない異臭。


大体好きなことは昔から変わってはいない。
心が喜ぶことを根本的に本能的にいつも追い求めてる私は基本すごくワガママだ。人と同じ事をするのが好きじゃない。同じモノを持つのも、持たれるのも苦手だ。自分は自分、人は人。それはそれは偏屈。

姉兄と歳が離れていることから、小さい頃からひとりでできる遊びが好きだった。

その中でも絵を描くことが自然とずっと好きで今もこの腕いっぽんで生活が出来たらいいのになあ、なんて夢を見るように思ってる。

絵を描くようになったのは、多分母に褒められたからだったとぼんやり。
嬉しくて印象に残っているのは、お祭りとかでよくあった『砂絵』をしていた時、母に色使いが上手だと褒められたこと。嘘をつかない人だから、そんなふうに褒められると調子に乗ってしまった気がする。

ただ好きなことを飽きないから続けている。
モノを作ることが基本好きだし、それはイラストだけじゃなく物として形にするのも好きだ。

でも、他の人の好きにはあまり興味ないからどうしても『自分』が全面に押し出されるようなものづくりが生まれてしまう。

無味無臭

それは人にもっと興味を持つことなのかな。

人を知る。

人のためのデザイン。

大衆のためのものづくり。

ムムムム。

ハードル高いなあ。笑 まだまだ修行しなきゃいけない。

私は私で好きになってもらえたら、それが一番嬉しいんだけどなあ。



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