私の動悸ちゃん物語

※文中に繊細な方にはきつい表現も含まれております。ご自身の心と相談になって読める方のみお読みください。

この病気になってから、動悸という敵ができた。

ほんとうに軽いときは、普段感じない鼓動を感じるくらいの赤ちゃんレベル  

動悸の赤ちゃんは、可愛いらしい。どっくんどっくん、今、生きてるよーと伝えてくれて、なんなら微笑ましいくらいだ。

この時は深呼吸をする。

スーハー、うん。生きてるよーって言いたいだけだね。よしよし。とやってると大人しくなる。うん。可愛いもんだ。

でも、ひとたび動悸ちゃんが仲良しの不安感ちゃんと一緒に来ると、すぐに私は恐怖感でいっぱいになってしまう。

まれにある強い動悸と、本気出してきた不安感のコラボはこの上なく辛く、辛すぎてすぐには涙も出てこず、しばらくして落ち着いてから怖かったことを認識して時間差で大泣きしたりする。

そんな感じなので、強い動悸と不安感が原因で、一人でお薬の袋を開けられないくらいの大きなパニックになることもあった。あれ?おかしいな。私本来は割と冷静な方なんだけどなー。

動悸と不安感に困ったことはまだある。それは、彼らがかなり失礼な事だ。
私がリラックスしたり、うとうとしてるときに突然やってくる事が多い。本当、なんて空気が読めない奴らなんだろう。わざとやってるなら、すごく性格が悪いと思う。

頼む、今はやめてくれ、いまわたしの防御力はゼロだ。って時に限ってやってくるとか、敵も中々の曲者だ。

そして、こない時は何ヶ月もこないくせに、来る時は毎日のように、それに一日に何度もやってくる。全く節操を知れ!

このいつくるかわからない感じが、私の心をゴリゴリに削る。

夜道を一人で歩いている時に、ふと背後に人の気配を感じた時のような、なんとも言えないゾクッとする感じ。そんな、なんかいやーな感じと軽い動悸で、あらいやだわ。またきたのね。さて、頓服さんの出番よ。そう言う、嫌ではあるけどまだ余裕な時もある。

だが、いきなり心臓が早鐘のようになり心臓を突き破るんじゃないかという勢いでもう自分の心臓の音しか聞こえませんってくらいになってくると、ひとたび私は自制心をなくしてしまう。

これだけ強い動悸ちゃんとは生涯でも数回しか出会ってないが、ほんと困ったもんだ。

ここまで来るともはや動悸のモンスターだ。

このレベルになると、不安感ちゃんが一緒に来てるのかすらもよくわからない。動悸だけでもう充分に不安だからだ。

そもそもなんで動悸が怖いのかというと、こんなことも起因しているのではないかと思う。

長くなってしまうが動悸ちゃんとの出会いや最新の動悸状況を書いてみようと思う。

この病気になる最初の発作?で、動悸が早くなったり遅くなったりの繰り返しで、脈が次第に止まりそうになったということがある。

この時は初めての動悸ちゃんをお迎えして私はテンションが高かった。

いやー、初めまして、これが動悸ってやつですか!運動とか一切してないのに、めっちゃ鼓動早くないですか?

心臓の音ってこんなに大きいの??なにこれはじめてこんなの!!面白!なんか、すげー!!え?次はゆっくりになるの?え、脈、少なすぎない?鼓動、大丈夫なの??え?脈止まるん??(笑)死ぬん??しかも何か寒くない?なんで?毛布にくるまってるのに。

てか、体が異様に重くて動かない、布団にめり込んで階下まで届いてしまいそう。

とうとう指先までも動かなくなってきた。なんか、体が異様にしんどい、、わぁ、、、あれ、今一瞬寝てた?眠くないのに、寝るってあるの?私、あれ、これなんか記憶も飛んでる?え?これって、これってやばくね??あ、また鼓動止まりそう。もう動けないや。

と次第にパニックにおちいった私は、なんか死んじゃうかもしれないから、今のうちに遺書書いて伝えたい人に伝えなきゃと言う思考に至りFacebookとLINEで実行するのだった。

動悸=死ぬのではという恐怖がこの時から深く根付いた。

これが私のはじめての動悸物語だったのだが、この後の展開は言葉にあらわしたくないほど酷かった。

動悸と身体が動かないのが繰り返されていき、次第に自分の記憶や人格が失われていくのがうっすらとした自分の意識中で、飛び飛びに残っている。些細な事でイラついては、気づいたら当時一緒に住んでシェアメイトに対して怒鳴っていた。私は体が動かないから色々とシェアメイトにお願いするのだが、シェアメイトも私が怖いからかあまり寄ってこない。

自分で言うのもなんだが、いままで温厚で明るくて、怒ったところなど見せたことのない私が、些細な事で怒鳴ってる。私も体調の異変だけでなく、自分の性格の変わりようがとても怖かったのだが、急に性格の変わった姿を目の当たりにして、一部始終をしっかり記憶できて、他に逃げる家のないシェアメイトのほうが相当怖かったと思う。記憶にないって時には幸せなのかも知れない。

今思い返してもシェアメイトに対する申し訳なさと、情けなさと悲しさで胸がぎゅっと押しつぶされそうになる。

そして、はじめての精神科の入院になり1ヶ月がすぎ、その後当時福岡に住んでいたわたしは実家の石岡に連れ戻されることになった。

あんなに毛嫌いしていた、ゴミ屋敷でありDVもある、およそヒトの住める環境ではない実家に強制送還された私は、実家の辛さだけではなく大量の服薬と、納得のできない診断名と、記憶障害、失語症、見当識傷害、だるさ眠気、薬による30キロの増量、ほとんどの友人が去っていくなど、さまざまな悲しさや困り感と戦わなくてはならず、生きる気力を失っていた。

お喋り大好きで友人と徹夜で語り合ったり、国内外問わずフラッと旅行に出かけるのが趣味だった私が、今や、病院で先生に病状の説明もできず黙り込んでは、見かねた母に説明してもらっている有り様。

それどころか仲の良い友達との会話ですら出来なくなっていた。

子供の頃から、機械的な記憶は壊滅的だったが、エピソード記憶だけは得意で、あれが楽しかったこんなこと話したよねってことはずっと忘れずに残っていた私が、友達の前で話したい事が何一つも思い浮かず石になってしまう。

昔の私と違う。

そう思われるのが怖くて十年来の大の親友とも会いたくなくなった。

まぁ、実家で行動の制限のキツイタイプのDVを受けていたので、元々台所の椅子からテレビと、時々こっそりスマホを覗き見ては、背後にある冷蔵庫にもたれかかって寝逃げするだけの生活が何年も続いていて、友達に会えることなどほぼほぼなかったのだけど。

物で溢れかえって動ける場所のほとんどない実家の、台所の椅子と夜寝る時の自分のベットと、食事の時の居間、許可が降りた時のみの、時々の食料品の買い出しにスーパーに行く事が生活の全てだった。

このスーパーの買い物も中々大変で、母と近所のスーパーに行ってるだけなのに、止めてある自分の家の車の場所が全く覚えられず、スーパーの中でも自分がどこにいるのかもわからなくなる時もあるので、母にバレないように平静を装いながら必死に母の後をついて回った。

大好きだった料理も、手順を自分で考えられなくなっていた。

それでも私が料理しなくては怒られ、やらならくてはならない状況だったので、母に一個一個手順を教えてもらいながらなんとかこなしていた。   

この病気になる前の、自分で言うのもなんだけど、明るくて元気で機転がきいて、誰とでもすぐに仲良くなれて、宿も取らずに海外に一人でふらっと行っていたアクティブな私とはもはやまるで全くの別人で、自分のアイデンティティーまでごっそりと失われた気がしていた。

あぁ、福岡の時になんで死ねなかったんだろ?もう、早く死にたいなと日々思っていた。

兄から、散々「なんで福岡の時に死ななかったんだ」と怒鳴られ、あぁ、この人は今の私の一番の理解者かもしれない。そう思った。

実家に戻って数年が経ち、やっとチャンスが巡って来た。

元々数日前から体調を崩していたが、「これ以上仮病続けるなら熱湯をぶっかけてやる」と脅されていたので仕方なくそろそろ動かなくては、でもやっぱ起き上がるとクラクラして動けない感じでどうにもならない。と、困っていた時だった。

動悸ちゃんの再来だった。

おーっよくきたね!久しぶり!君がこの窮地を救ってくれるヒーローなんだね!やっと死ねる!ラリホー!

ガッツポーズをし、ゆっくりと遺書をしたためる。SNSで騒ぎになるのはもう勘弁だからやらないけど。

誰宛かわかるようにそれぞれのLINEを開いては遺言を書いた。死んだ後にこの遺書に気づいてもらえてるいいんだけど。。

ドクドクドクドク!!とっくん とっくん と、と、  
と、    と  とっ  ツーー。

脈もいい感じに、早く遅くを繰り返している。

このまま、ほっておけば死ねるはず。安らかな死よ来たれ!

そうだった。脈ってこんなにも身体に響くんだっけな。懐かしいなぁ。この感覚。身体も冷えてきたし。指先動かすのも辛くなってきた。
遺書も書けたし、思い残すこともない。

最後はビミョーな日々だったけど、昔は楽しいことたくさんあったし、一生分は遊んだ気はするしもう充分だよね。

ほんとうに仲の良い友達数人と親なら、私が死んだら悲しんでくれるだろうし。

むしろ、あの時死んでたら、多くの人を悲しませてだと思うけど今なら少ない人だけしか辛くないはず。これでよかったんだ。

とても、安らかな時間だった。呼吸も時々止まったりしてるようだった。うとうとしてハッとして呼吸が止まってた事に気づき目覚める。やっと楽になれる。心の底からホッとした。

だが、その心の底の更に奥底からグングンと何かがやってきた。      

まだ、生きてたい。 やり残したことがある。

 ドラマと漫画の続きが見たーーい!!!!

3月のライオンと、アンナチュラル最後までみないと死ねない!!

気づいたら「おかーさーん」と叫んで走り出していた。

部屋から出た瞬間限界が来て倒れ込んだ。しばし息ができない。

驚いた母が階下から駆けつけてくれたが何を言ってるが全く聞こえない。

音の大小が目まぐるしい勢いで変わる。階下で病院に連絡しなきゃと相談してる音がよく響いたり、すぐそばの母の声が聞こえなくなったり。

そして、鉛のような体を引きずっては休憩を何度も繰り返しながら、なんとかベッドに移動し、その後しばし寝てたんだと思うのだか。

気づいたら、わたしは病院で拘束されていた。

知らぬ間に相当暴れて、興奮して、独り言を喋ったりしていたらしい。その辺は全く記憶にない。救急車にも興奮して乗れず警察のお世話にもなったらしい。

私にあるのは断片的な夢の記憶とよくわからないけど、なんかすんごい辛かったという感覚だけで、まさか警察まで出てくるとはね。

夢の中で、当時ドラマに使われていて、私の生きる意味になってた米津玄師のlemonが繰り返し流れていた。

夢ならばどれほど良かったでしょう~♪

本当にこれ、夢だったらどれほど良かったか。

後から分かったが、動悸がした日から一週間近く経っていた。その間私はずっと泣いたり笑ったりしてたそうな。全く記憶にない。

どうやら私は、動悸がして心臓が止まりそうになっても、物理的には死ねないらしい。

それどころか、何一つ悪いことしてないのに家に警察がきて連行されるとか、それって社会的に殺されたようなものじゃないか。

元々詰んでいたが、ますます実家に帰れなくなってしまった。

近所の人や同級生から、警察沙汰を起こしたやつと思われている中で暮らしていく勇気が私にはなかった。

動悸ちゃんは生物的な死に近ずく感覚を生むだけではなく社会的な死も運んでくるものとなった。

その後入院先で実家からはなれた場所で、グループホームを探してもらった。

そして、8ヶ月が経ち、父の職場があり、親戚も住んでいる水戸の作業所に入ることになった。

そして数年が経ち、動悸ちゃんのことなどほぼ忘れて平和に暮らしていた。

そんな時の急な動悸襲来だった。動悸自体はそんなに大きくなかった。ただ、薬が飲めなかった。

頓服は充分な数を医者でもらっていたが、お薬ボックスに入れるのを忘れて箪笥の中に適当にしまってしまっていた。

そのせいで頓服がすぐに見つからない事態に私は軽くパニックを起こしていた。

そしてその記憶を最後に気づいたらまた病院で拘束されていたのだ。

夢ならばどれほど良かったでしょう♪

再びこの曲が頭に流れる

一回目にこの病気で入院した時から、気付いたら病院で拘束されてましたという事態がトラウマになっていた。

だから、気づいたら病院で拘束されてるという悪夢を、頻繁に見ては、そのたびにひどい動悸で目が覚めて泣きながら頓服薬を飲むことが多々あった。

あまりにこの悪夢をみるので、途中からはいはいまたいつもの悪夢ですねーと冷静に見れる部分もあった。

夢の時間が長ければ長いほど辛いから、えいや!って力を入れて目覚めるという力技を使っていた。成功率はそれなりに高かったが、今回はその技が効かない。

というか、目覚めても何故だか全く同じ夢に引き戻される。5、6回夢見ては起きるを繰り返して気づいた。  

これ、夢ちゃうやん!!!

現実で拘束されていることに気づき、さぞ落ち込んだかと思えば私は意外と平気だった。

なんかもう記憶が飛ぶとかわたしには馴染みの症状だし、拘束されてたのも前は人間の尊厳が侵されてるという思いが強く受け入れがたかったが、今回は違った。あぁ、またなのね。やっちまったか。仕方ない。とりあえず寝逃げしよ。

薬箱に頓服入れてなかったという落ち度はたしかに私にあったが、私は自分の体調の変化を敏感に感じとり結構慎重に行動してきたつもりだった。

他の人から見たら結構大胆に動いて見えるようなことも、私の中では明確な基準がありどんな時も慎重にやることを精査し選びとってきた。

少しでも疲れたら休む、無理はしない、ちゃんと身体と心の声を聞く、それだけはどんなに好調な時でもしっかり守ってきた。

スタッフや父からどんなに「就労したいなら朝起きて来なさい」と言われても、自分でもそれが就労の最低条件だとはわかりつつも、少しでも無理だと思った時は絶対にその直感に従って休んできた。

調子を崩すくらいなら、怠惰でやる気のない奴だと思われても痛くも痒くもなかった。

それだけ心砕いて自分の体調を見てきたから、心残りはなかった。

いざという時のお薬の置き場所を考えるという課題は残ったが、それ以外は私はやれるだけやってきたし心残りなく動けていた私を、私は誇りに思えた。

これだけ頑張った結果が、これなら、もう他に頑張りようはなかった。この状況は私のせいじゃない、私は悪くない。自分なりに精一杯頑張った自分偉かった。

身体拘束をされているのに、その状態でも、自分を誇りに思えるというという、不釣り合いな状況がなんだか面白く、この最悪な状況でそう思える事がとても嬉しかった。

私は、遅くてもお昼までには作業所に行くというルールを自分に決めていたが、それでも身体も心も結構しんどかった時期なので入院して作業所をしばらくお休みできる状況にも実はかなりホッとしていた。

この出来事から、私はあんなに頻回に見ていた悪夢を見なくなった。

もう別に身体拘束くらいなんでもなくなっていた。

もちろん不快極まりない状況だが、決して怖くはない。

入院仲間も結構拘束されてたことある人いたし、拘束が特別な状況から、割とあることと思えたことも大きい。

みんな穏やかに和やかに、 いやー。暴れちゃって拘束されちゃったよー とニコニコ話すのだ。まるでお天気の話をするように。

動悸の数もそれにより格段に減っていたし、この状況でも、未来に希望を持てた。

そして、入院してから一ヶ月くらいで退院の許可が降りた。

グループホームに帰れると意気揚々と車に乗り込んだ私に父が現実を教えてくれた。

私の記憶のないうちにグループホームの仲間達にすごく迷惑をかけてしまったこと。

叩いたり、物を投げつけてしまった事でトラウマにさせてしまったらしい。だからグループホームではなく、しばらく実家に帰らなくてはならないんだと。

それを聞いて久しぶりの動悸ちゃんがやってきた。ズンドコズンドコ賑やかだ。

記憶になくて本意ではないことでも、そんなに怖い思いをさせてしまったのは、私が悪い。本当に申し訳ない。

でも、私いつまで、やった記憶のない事に謝り続けて、こんなに辛くて、理不尽で、不愉快で、苦しい思いしなきゃならないの?

私が生きてる限り、またいつか大切な仲間を傷つけて、怖い思いをさせちゃうかもしれないの?

申し訳なさと情けなさと悲しさ、絶望感でいっぱいになって喉の奥が詰まる。

そんな思いをあざ笑うかのように動悸ちゃんは絶好調だ。

ずいぶん賑やかだな。うるせー。黙れよ!!!!

あまりの剣幕に驚いたのか動悸もすぐに止まった。

止まったとはいえ、普段なら頓服を飲まなければならないレベルの動悸だったが、今回の入院先はいつものかかりつけじゃなく対応もひどかったので、退院時に薬を一切もらわずに、その足でかかりつけの病院に行くことになっていた。

なので、手元に薬がない。深呼吸を繰り返し何とか落ち着いた。

そして、かかりつけの病院で薬をもらい実家に帰ることになってしまった。

相変わらずのひどい実家滞在を経てグループホームに帰れる日がやってきた。

あんなに迷惑をかけたのにみんないつもと変わらず温かく迎え入れてくれた。その優しさが嬉しかった。

でも、グループホームのみんなにもう2度と怖い思いをさせたくないし、もちろん他の人にだって絶対にそんな思いさせたくない。

そのためには、今のままではダメだ。動悸ちゃんへの対応をアップデートするしかない。

今回の苦い入院の経験で分かったのは、一回目と二回目の入院の時みたいに、脈が早くなって遅くなって、体が重く動かなくなってという一連の流れが無くても、残念ながら入院が必要なほどの大きな崩れは起こること。

私の場合、大きな崩れのまえには大きな前兆があるから、入院になりそうな時は絶対に気づけるから大丈夫という油断しきった気持ちを改革して、動悸の前にある僅かな不調の前兆をも積極的に掴みにいって行って、早め早めに対処していかなくてはならないこと。

そのためには、いままでいうまでもないかなと思っていたような僅かな不調をもスタッフや世話人さんに逐一相談が必要だし、私1人じゃなく、世話人さん、スタッフさん、みんなで協力して考えていく必要があること。
ちょっとのことでも助けてほしいと積極的に伝えていくこと。

自分がほんとうにやばいと思ったらその直感を信じて、周りがなんと言おうが休息入院したいと伝え続けること。

薬はいつでも飲めるようにスマホにポーチをつけて持ち歩くようにすること。

薬を飲むための水もいつも持ち歩き、外出時に急に強い動悸がきた時に見ず知らずの人に助けてもらえる可能性を少しでも上げるためにカバンにヘルプマークをつけること。

いつもそばにいる人に、動悸が来たら助けてほしいと伝えること。

出来そうなことは片っ端からやった。

そして、それが身に染みていたのか、3月の入院は、自らの意思でのものだった。時間の感覚の欠如、観念奔逸(頭の中ですごい勢いで考えが流れてきて止まらない)など、の異常を察知し、動悸や不安感、嫌な予感などを訴え、いつ悪化するかわからない。夜中に悪化したらどうしようもないから不安で入院したい旨を作業所で伝え、初めて、臨時で通院介助してもらうこととなった。二日間連続で通院した記憶がうっすらあるが、記憶の混乱があったのでほとんどのことは覚えていない。なんなら、診察の記憶すらないが、わたしは無事に入院することとなった。

入院してからの経過はすこぶる良く、暴れたり暴言を吐いたりもせず、大人しく穏やかに過ごせていた。記憶がなくなることもほぼなくなった。観念奔逸も、いい感じに頭が回っている状態に落ち着いた。まだ、本調子じゃなく文字が追えない、やりたいことやっていても五分くらいでも疲れてしまうとかはあったけど、誰かがいないと不安だとか、大暴れしてしまうのではないかという懸念は無くなっていた。

ただ、入院中は、薬が普段の半分の量しか飲めず、どんなに困っても主治医は中々来ない。看護師さんは忙しくて、何か聞いてもリーダーに聞いて、とか、担当じゃないからわからないとそっけなく、肝心のリーダーさんは忙しすぎて一日顔を合わせずに結局誰がリーダーだかわからないまま一日が終わってしまうことも多かった。

そりゃないだろ。入院中が普段より辛いなんて聞いてない。

主治医の診察日でナーススターションに来てるのを見かけて、そろそろ診察してもらえるとウキウキして待っていたがそのまま主治医が帰ってしまいショックだったこととかもあった。

飲みたい時に薬は飲めない、看護師に相談乗ってもらうこともできない、頼りの綱の主治医は診察日にも来ない。土日と祝日と主治医の休みの日と、診察日だけど今日は診察しませんという日が重なってしまった。

体調も悪くてしんどいのに薬も貰えない中、薬に関する看護師の無責任な発言で、私は限界に達してナースステーションの前で大泣きしてしまった、

「これなら、入院した意味がない。外来なら確実に主治医に診察してもらえたのに。入院してたらみてもらえない、担当の看護師も来ない、薬はもらえない。じゃあ一体何のために高いお金払って入院してるの?」

主治医も忙しいから仕方ない、祝日だから仕方ない、看護師さんも対応大変な人多くて忙しいから仕方ない。

ずっと仕方ない仕方ないで蓋をして我慢していた不満が溢れた。

入院さえすれば全て大丈夫だろうという浅はかな考えが崩れた。

確かに、緊急時には任意入院は必要だけど、今のわたしにはそぐわない。

今後の対応を考えないと。新しい課題ができた。

だが、今回の入院で、記憶にないまま大暴れしてしまうことを回避できたことは、私にとっておおいに自信になったし、入院の意義はあったと思う。

不調を感じ取って、自分の意思で入院したいと意思表示できるところまで、わたしは私の病気をコントロールする事ができているのだ。

ここまでくれば、そこまでこの病気も怖くない。私の勝ちでしょ。とまで思えた。

だが、退院してすぐの日曜の、昼過ぎに、大きな動悸と不安感のコンボに、作業所に入所してはじめて、センターの電話相談を泣きながら利用した。

その後、しばらくして世話人さんが出勤してきてくれた。女神に見えた。ホッとしてまた泣けた。ダメだこりゃ、全然感情のコントロールがで全くできていない。

その後はしばらくは平穏な日々が続いていたが、ちょこちょこと動悸と不安感がやってきては泣かされていた。

今度のは、ほぼ毎日寝る前のリラックスタイムにやってくるという夜這いパターンだ。

やめてくれ、好きでもない相手に夜中突然やってこられるのは迷惑甚だしい。

この時代セクハラは立派な犯罪である。ほんとやめてくれ。来るんじゃない。

そんなことを思っていたら今度は夜来ることはなくなり、朝からやってきて、昼寝しようとしてウトっとした瞬間に突然現れたりしだした。ほんと節操がない。

まぁ、定期的にこられても、不定期で来られても迷惑なことに変わりはないし、どちらも急に来るので結局心臓に悪いのだが。

でも、動悸に泣かされてはいても、前の時みたいな入院したいという感覚は皆無で、ただなんか寂しさのゲージが満タンになっているというか人恋しいとかが強くて、感情のコントロールが下手くそになって泣き虫になっているだけなので、その辺は安心していた。

これは、ホルモンバランスの影響とかもあるのかもしれないしね。

そんなこんなで動悸ちゃんの襲来のパターンが見えてきたかな?って頃になって、また動悸ちゃんが進化してきて、はじめてのパターンが現れた。

脈の強さは変わらないのになんだか早いのが安静にしてても続いていて落ち着かない。

ジェットコースター乗ったときのウッってなって内臓が浮かび上がる感じが何度もしてきて不快。と言うものだ。

もしかして、動悸ちゃん、進化してる!?

この病気になって7年くらいかな?経つけど、タイミングとか強さ以外の点でまだ進化できるとかお主も中々やるじゃないか!

動悸ちゃんとは、戦いの歴史が長すぎて、もはや向かい合う謎の敵というよりは、顔見知りのライバル?みたいな感じになっている。

敵なんだけどちょっとだけ仲間みたいな不思議な感じ。

じゃあ、動悸ちゃんがライバルならば、私は一体何の競技に出場しているのだろうか?
 

本物の敵は、記憶ないまま暴れてしまうことで、動悸ちゃんは、そのお知らせをしにやってくる実は仲間なのかな?

なんて事を思うくらいには、動悸ちゃんには親近感がある。

嫌なことしか知らせないし、すごく不快だから、仲間だけど、嫌いなことにはかわりないけど

きっとまだまだこの先も、動悸ちゃんと私の物語は続いていくのだろう。

末長くよろしくねとは全く思わないけど。

でも、もう動悸は生活の一部だから、なるべくなら仲良く過ごせたらいいなーと思っています。

ここまでの、文章を書いたのは4月のことで、その後5月くらいから鬱状態が酷くなり、8月には、グループホームにも、作業所にも一人でいられないほどの強い不安感がやってくるようになった。

動悸も相変わらず寝入りばな、寝起きにくることが多く、油断も隙もない。

昼間でも急にくる。そしてさらに気持ち悪さと、少しでも動くとひどい動悸がくるためほとんど動けず、作業所ではリクライニングの椅子で寝る日々が始まった。土日、一人で居られず、また作業所まで歩くことすら困難な日々だったので、送り迎え付きでセンターの静養室で過ごすことになった。

精神的にもかなりきていた。この作業所にきて4年間。波はあっても順調に過ごしていたのに、ここのところ半年に一回入院して、いつもはその後戻る調子も良くならず。近所のスーパーくらいしか行けずに何ヶ月も過ごし、作業所の遠足でもすぐ疲れて休みながらだったり、せっかく作業所でユニクロに行っただけでも気持ち悪くなってしまってほとんど見れなかった。

精神的なものばかりか、疲れやすさ、胃腸の不具合に、くちびる、指先の腫れと痛み、全身に広がるに種類の発疹、ご飯が全然食べられない日が数週間続き、ひどい下痢からひどい便秘に急に切り替わり、一体体内で何が起こっているのか?

何が起こっているか謎で不安でつらくて。そんなストレスだらけの生活に限界が来たのか、記憶障害と不安感が強まりもはや、日常生活がうまく送れなくなってしまってしまい、8月の入院になった。頓服薬の管理がついに自分でできなくなってしまった。

大暴れしてしまう心配も少しあったが、何より日常生活を外で送っていくのが不安で、休息入院というよりは避難入院だった。

なので、入院できることが嬉しくニコニコしながら、「元気になって帰ってくるね」と、担当職員さんと別れた。

初めて、任意入院になったが、コロナのせいで隔離部屋スタートだった。

初めは動悸起きてもナースステーションに薬もらいに行けず辛かったが、なんとか隔離解除になり、薬の調節をしてもらい、体の不調の元になったカルバマゼピンを抜いてもらったら、体の発疹、腫れは徐々に良くなった。お通じも改善されてきた。

不安が減ったのと。朝晩の動悸がなくなってきて、体が動かせるようになったらみるみる元気になってきた。

そうしたら始まるのが、暇という一番の敵。コロナで今まであった面会、外泊、売店への買い物、散歩、OT.いろいろなものが制限されることとなった。

テレビがまともに見られなかったり、本も文字が追えなかったりなので、やることと言ったら塗り絵か、スクラッチアートくらいしかない。暇だ。お友達ができれば楽しいんだけど。

時間潰しだけじゃなくて、仲間意識とか、ただ話していてもピアカウンセリング的に癒しや救いになったりするのだ。

病気仲間の存在はでかい。

病気仲間の存在はとても貴重だ。

作業所ではお互いの病気について語ることはほとんどないからだ。

傷を癒すのは、同じ傷を負った仲間の存在と、一人ぼっちじゃないという実感と、安心感。そして時間薬。

笑うこと、美味しいものを食べること。

好きな文章や音楽やドラマや映画に漫画。

友達との会話、気まままに散歩すること。

ちょっとリッチにコンビニで値段をみずに好きなものを好きなだけ買うこと。

ふらりと旅に出ること、旅するように暮らし、好きな時に好きな場所に行けるそんな自分でありたい。

自分が自分でいられるために、必要な時間と場所

それを今は、手に入れた。

作業所も変わったし、グループホームも変わった。

以前より良い環境になっている。

この一年ちょっとで、胆嚢炎になり緊急入院、即手術になったし、グループホーム二回変わったし、精神科に入院にはなったし、コロナにはなったし、胃カメラ大腸カメラはやったし、神経内科たらい回しにされたし、つねにどこかしらの病院にかかっているような状況だった。

でも、一日中作業所のソファーで寝てる日々が、一日PCに向かえて穏やかに過ごせるようになった。

利用者さんとも、スタッフさんとも楽しく話ができて、念願の自分のデスク周りにも好きなものや必要なもの配置できるようになった。

利用者さんとも、ディズニーに行こうとか、お泊まり会しようよってところまで仲良くなった。

グループホームでも好きなもの買って食べたり、アヒージョやラタトゥユ、ローストビーフなんかの簡単な料理を作るようになった。お料理楽しい。

お出かけも、18切符の旅に行ったり、東京や宇都宮に行ったりできている。

不満はあれど、楽しく過ごせている。

もう大丈夫。動悸が来ても仲良くできる

だって、動悸は敵じゃない。ライバルであり、味方だ。

さっきの、なんの競技に参加しているのだろうという疑問に答えが出た

生きること 生き抜くこと

絶望的な状況でも、自分らしく笑って過ごすこと

笑って仕方ないねって笑顔で親友と会うかのうように絶望と対峙しよう

きっと それができる もう大丈夫、何も怖くない。

ここから先は、ボーナスステージ 好きなことだけしてればいい

好きなことで、生きていける 仲間もいる  私は今 幸せだ。

今の私と動悸ちゃんとは、お友達の関係です。

この先も仲良く過ごせるといいな。

動悸ちゃん、これからもよろしくね。

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