過去を乗り越えるべき私たちに求められていることは??
日々の選択、例えば衣食住に関して、
正しい製法を選び間違ったことを拒否したものを選んでいく、
その積み重ねが大事。
その積み重ねがリズムを作る。
「正しいことを信じ、間違ったことを拒否する」リズムが構築されれば、
間違ったものはいずれ離れていくであろう。
「間違ったこと」との戦い
「間違ったことに気づく」「間違ったことに拒否し続ける」
これ、ほんとうに正しいことなのだけど、自分だけの力でやり続けるのは辛い。
私もヒーリングとかさまざまなものを頼って、
誰かに助けられながら、ここまで生きながらえてやってきた。
ブラック企業にいた時期は、確実に一人じゃ無理で、
出会う人誰かしらに頼り続けていた。
なんたって、そこに光を感じないんだもの。
一筋の光すらも届かぬ昭和の病棟のような場所に
生気を、正気を感じられなかった。
そこの従業員は人間の姿形をしているが、顔は青ざめて魂は抜けている。
金のために悪魔に魂を売った人間たち。
ブラック企業に漂っていたのは、ただただ悪魔崇拝の狂気だけ。
ブラック企業で引き起こされていたデスマーチは「間違ったこと」と知りつつも
一人だけでは全く太刀打ちできぬ有様だった。
「行きつけの店」という信頼感抜群のもの
何かにつけてあってるまちがっているというのは
過去の実績ベースにより行われるもの。
過去における正しい間違っているという感覚から
現在の選択というものは執り行われる。
一番わかりやすいのは「行きつけの店」であろう。
私も会社員だった頃は行きつけの店というのができていて、
毎週金曜日は自分へのご褒美と称して行きつけの店に通っていた。
夜が遅くなる日はコストが抑えられるうどんチェーン店に行っていたり。
今はある程度は自活で賄えるようになったし
最悪「食べない」という選択もできるようになった。
食に関しては、そういう思い出がある。
行きつけの店に関して言えば、信頼している同僚が「うまい」と言った店に
会社を辞めるまで何度も行き続けるくらい常連になっていた。
「行きつけの店」にとらわれて抜け出すということがなかなかできなかった当時。
今だったら何でもかんでも自分で作った弁当で済ませているが。
行きつけの店というのは信頼感が抜群なもので、いつ行っても期待を裏切らない。
その反面、自力でなかなか新しい世界に足を踏み込めていない、
ということの裏返しでもある。
終わりに
過去に囚われる。それは過去の快感であったり不快感であったり、
快感であればそれらを味わうために「行きつけの店」状態になるし
不快感であればそれは味わいたくないから避けるようになる。
それらは「間違ったことを信じ、正しいことを拒否してきた」から得たものかもしれない。
目指すのは全く新しい感覚で物事に臨み、新しい感覚を味わうこと。
過去のしがらみから抜け、ライスワークからライトワークに切り替える。
それが、過去を抜けるべき私たちに求められていること。
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