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人間関係の永遠のテーマ。「誰が自分のゴールに必要なの?」

永遠に答えの出ない自分の中での論争。
今ですら、不毛とすら思うものの
当時は真面目に、人生の永遠のテーマとして考えていました。

「誰が自分のゴールに必要か?」

形の下の「成功論」

かつて私のコーチは

「誰が本当にあなたのことを愛しているのかというのを見極めろ」
そう言っていました。

私はカチンときて歯向かいつつも、人探しはした。
もうだいぶ前の話ですね。

SNSですごく見せてる自分は賞賛の対象だ
SNSでカッコつけてチヤホヤされている自分が愛されてないはずない、

恥ずかしい話ではあるけれども

賞賛され、もてはやされ、人より年収が高いのが「成功」だと信じていました。

小説「カバリスト」の主人公はお金も地位も手にしておきながら
それが「幸せ」ではないと気づいてしまいましたが

あいにく私はまったくそこまで到達できなかったから
「全てを手に入れても虚しい」って感覚は全くわからなかったですね。

一番大切だったのは愛の記憶

結論を出したのは、そこから1年後。
アデプトを受けて半年が経つ。

アダムカドモン(ギャラクティックアクティベーション1)もうけて
キンソロヒーリングを受けている途中で、浄化変革期。

浄化が進んで、少しずつ見えなかったものが、見えたのだろうか。

「誰が本当にあなたのことを愛しているのかというのを見極めろ」

という問いの答えが。

誰もいない、
最初から、誰もいなかった。

これまで出会ってきた人の中で本当に自分を愛してくれた人
ないしはゴールに必要な人はいなかったのだと。

いや、そもそも「基盤」として、まず自分を愛せていないことに気づいた。

自分を愛してくれた家族がこの世を去った年でもあった2018年は
その時初めて「この現世からいなくなって初めてその人の大切さがわかる」

ということを見にしみて学んだ1年。

身内の死に動揺した私は、これまで堂々巡りで人に会い続けても
自分の立場を何も変えることができなかったことを悔やんだし、

自分が「愛されていた」記憶のかけらすら失って行動していたのだと気づく。

その愛されていた当時の記憶のかけらが一番私にとって大事な、宝物だったのに。

なんで今まで気づかなかったんだろう、もっと早く気づけなかったのか
もっと早く馬鹿なことから手を引くことはできなかったのか。

そうやって、あの時、自分の「基盤」とよりを戻した。

コーチに言われた「誰が本当にあなたのことを愛してくれるの?」

という問いかけの意味がわかったと思うし
それに対する答えも自分なりに出した。

その結果、愛された記憶のかけらが何より大事だと気づき
これまで出会ってきた人とは
薄っぺらな関係性しか築けてないことにも気づいてしまった。

誰がゴールに必要か?

私の中で答えとして

「この中には、というか、最初から私には誰もいなかったんだ」
「いや、誰が、というより、もっと大事なものがあっただろう」

ということを見出しました。

そしてFacebookをやめ、俗世から離れ。

「誰が自分のゴールに必要か」答えはあるのか

何年か経っても、あの時とほとんど私は変わってないと思う。

「誰が自分のゴールに必要か」って問いに

答えが出せるかと言われれば否である、また同じ不毛な自分論争になって

「誰もいない」というのが明確になるだけ。

現に誰か親密な仲を築いたかと言われると、別にそうでもない。
「学び」をした、環境が刷新された、ヤッター くらいの気持ち。

問うても問うても答えが出ないテーマ。

小説「カバリスト」の表現を借りれば、知らぬ存ぜぬですら罪だという。

じゃあ皆同じじゃないかというところでゴールに必要な人だらけとも言える。

言い方を変えれば、皆罪を持っているのなら
「浄罪」がゴールなら皆一緒だから、それこそよりどりみどりではないか。

日々はクライムアンドペナルティ(罪と罰)のオーケストラ。

「現実社会」という名の地獄という
「カバリスト」の表現がすごく的を得ていると思うしまさにその通りと思えます。

終わりに

「誰が自分のゴールに必要か」答えは、あるのか??

ということに、最適解で言えば、同じ「行き先」に足を運ぶ人。

ただ、人は間違いをするもの。
いつまでも通用しない常識や考え方を抱えていたり
そんなものベースで判断を下してしまうから、往々に間違いが起きる。

だから「行き先」が一緒かどうかすらも、見誤る。

選択ミスをしないために、行動慣れをするのでなく
古くて通用しないものを刷新して廃棄することがまず大事です。

「峻厳」の試練はそのために表れています。

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