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名句全集中鑑賞∶八月の水兵編

俳句ポスト、兼題『八月』は、実に挑み甲斐のある季語だった。時候の季語であるゆえ映像を持たないという前提があるくせに、それ自体が内包している情報量が大きく、極めて料理しがいのある素材だったと言えるだろう。

俳句をしばらくお休みしていた筆者ですら、重い腰を上げて三句も投句してしまったというから、この季語のエネルギーはやはり強力であると言わざるを得ない。(なお結果)


さて、木曜日まで開いた段階で、どうしてもこの記事を書かなくてはならない案件が発生した。



『八月の雨の記憶のなき造花』

長谷川水素

 

嗚呼…水素さん、お久しぶりです。

旧Twitterでのくだらないやり取りの一つ一つが、筆者の現在を形作っていると言っても過言ではない、いや、過言ではあるが、大切なフォロワーさんの一人。それが長谷川水素さんなのです。


筆者がTwitterをやめた後も、水素さんは日々精進され、まるで酸素を得た水素のように、あだち充も顔負けの水々しい句柄を確立されました。筆者は陰ながら、その活躍を楽しませて頂きました。


ただ、今回の俳句ポストの結果については、どうしても納得が行きません。これほどの名句に対して、講評が余りに浅すぎます。本来この句には、然るべき情報量を持った鑑賞文と共に、特選の称号が相応しいと、筆者は思います。

よって、僭越ながらこの企画を以て、この句の価値が少しでも高められるよう、鑑賞文を寄稿したいと思います。


サイトの講評について、何が浅いと感じるかというと、八月という季語がどこに係るか問題において、とりあえず全部などと簡単に書き流している所に、納得が行きません。そこを掘り下げたら、この句はランクアップさせざるを得ないと思いますけどね。

ていうか、これを書いている今は、まだ木曜日なので、相対的評価は妥当なのかもしれないですが。

で、もう一つ着目しないといけないのが、末尾の造花について、選者が献花や供花と断じて鑑賞している点です。自分としては、作者が献花や供花ではなく『造花』を選んだ背景を慮ると、そこにこそ、この句の醍醐味があるのになぁ…と感じてしまいます。
むしろ作者は、用途ではなくて、状態として『生花』ではないという意味で、『造花』であると言っている気がしましたね。


それでは、一つずつ詳らかにしていきましょう。


『八月の雨の記憶のなき造花』

長谷川水素

まず、助詞『の』が続けて出てくる事で、八月という季語も各所に係ってくるのだという理屈は分かります。しかし、それをどう料理するかによって、鑑賞の方向性は一定ではないはずです。

順番に見ていくと、まず八月は最初に、雨を修飾しています。即ち、八月に降る雨ですから、例えば蒸し蒸ししているとか、梅雨みたいには長引かないよねとか、色々な推測はできます。ところが、直後に記憶が出てくる事により、現代の八月ではなく、過去の八月に降った特定の雨を指している可能性に気づきます。

だとしたら、それは『黒い雨』の事です。

原爆投下後に、広島と長崎には放射能を含む黒い雨が降りました。それを受けた大地には、その記憶が残っています。その地に生きる草花にも、その記憶は根付いていると、自分は思います。

だから、『この造花』にはその記憶がない。

『みづ』ではなくて『雨』だと言っている以上、作者はその事実を断じたかったのでしょう。

造花は、目の前のリアルではありますが、本物の花ではありません。そして、この造花を作った人物の記憶の中に、黒い雨の実像はないのです。しかし、同時にその場所には、黒い雨が降ったあの年から脈々と続く八月があるのです。八月は、魂が戻って来る月です。この造花はどういう意図で作られたのか。献花や供花として使われたとするなら、黒い雨の記憶がなくとも、死者を偲ぶ心は確実にここにある。何故ならそれが、八月という季語の本意だからです。


もう一つ、別の鑑賞をしてみたいと思います。

それは、八月が雨の記憶をすっ飛ばして、直接造花へ係るパターンです。要約すると、「これは八月の造花です。造花は屋内で生まれたから、まだ雨の記憶はないんですよ。」という事になるかと思います。この線で掘り下げていくと、どうしてもここに書かれていない『生花』の事が頭を過ぎりませんか?つまり、生花には雨の記憶があると、全ての読者は確信できますよね。

献花や供花に造花が用いられる例は、近代では珍しくなくなって来ているようですが、本来は形を残さない自然の摂理や、香りも一緒に供えたいという事で、生花が推奨される事も事実です。

それで、先述したように、作者は敢えて『造花』を選んでいると信じたいので、様々な背景も考慮しつつ、そのように鑑賞を進めます。

一つには、選者の講評にある通り、造花である故に、朽ちる事ができない『悲しみ』が込められていると読む事は可能です。その場合は、「造花というものは生花に対して、雨というものを知らないし、朽ちる事も許されぬ存在である。」という解釈になり、そこに八月という季語のフィルタを噛ませる事で、八月が抱える過去が清算される事はないのだという読みが成立します。

端的に言えば、自分はこの読みがあまり好きではなかったのです。

先に述べたように『雨の記憶のなき』という部分には、もしかしたら『まだ』という一語が省略されているのではないか。自分はそちらの読みに賭けたかったのです。

造花は自然に出来たものではないから、生まれる過程に雨を感じる事はないですが、だからと言って、雨を知る余白がないのかといったら、そんな事はないと思います。外に生けて、献花や供花として使われるのであれば、尚更です。

過去に降った黒い雨を知らないからこそ、八月に降る本来の美しい『雨』を、造花はこれから知る事ができるのです。正しい雨に打たれながら、その音も、香りも一緒に、帰って来た魂を受け入れる事ができるのです。

自分はそれこそが、作者の言う『八月の造花』なんだと思います。そしてこの句は、季語の特性上、どうしても過去ばかり注目されがちな八月の、『未来』を感じさせてくれる稀代の名句だと思います。



というわけで、水素さん。
いつも素敵な俳句をありがとうございます。

自分は俳ポ戦線から離脱して、外から皆さんの句を楽しむ事に注力します。これからはショートショートの方を主戦場に移しますので。
(と言いながら、色鳥は魂の一句出し)


最後に、アンサー俳句を進呈させて下さい。
これからも俳句界の最前線でのご活躍を期待しております!

八月の造花に匂ふ水素かな
恵勇



名句全集中鑑賞∶八月の水兵編
【完】


企画、執筆、アンサー俳句 … 恵勇

掲載句 … 長谷川水素

出典 … 俳句ポスト365 兼題『八月』より

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