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2020/8/14の星の声

靈靈の賑わい



亡くした誰かが 今に帰る時。
忘れていた何かが 目の前に現れる時。

思わぬ再会を目の当たりにして 呼吸を整えると
幻さえも 当然だと思える世界に変わる。

夏から秋へ移ろう季節は
乱流する時空を 立ち止まりながら旅する好機。

これまでの風が吹かぬのなら
あらゆる風を感じるのはどうだろう。

「生身の人間は 空を飛ぶことなんてできない」

誤解のつぎはぎで繕われた世界の
綻んだ隙間から 笑顔で飛び出す羽のない人々は
地の底から揺らめくように 立ちのぼる風に舞い乗る。

放射状に流れる星が 空の飛び方を教えてくれた。





8月16日(日)まで絶讃開放中!



こんにちは、こじょうゆうやです。
昨日8月13日の夜に、エムエム・ブックスの服部福太郎さんと、
instagramのライブ配信をしました。思わず2時間も。

福太郎さん、ほんとうにありがとうございました。
福太郎さんのパートナーの、服部みれいさんも、
ご視聴いただいている皆様のコメントをほとんど追わない、
ぼくと福太郎さんをフォローしてくださるように(笑)
コメント欄にたくさん登場してくださいました。

てんこもりの愛サポート、心から感謝しております。
気がついたら、パートナーの弓子さんはすやすや夢の中でした。

至らないところ多々あったかと思いますが、
ご視聴くださったみなさまも、貴重なお時間をいただき、
ほんとうにありがとうございました。

さて、そのライブ配信ですが、生きている人も死んでいる人も合わせて、
信じられないくらいの数の人たちが訪れたようです。

でも、あんまり死者にフォーカスすると、
お盆ならではのひんやりしたおはなしになりそうだし、
一人暮らしの方を怖がらせるようなことになりかねないため、
深掘りすることはしませんでしたが、
今年のお盆、特にすごい感じがびっしびしです。

御先祖総動員感、といったらいいでしょうか。
お盆ってこんな感じだったっけ、と思うくらいの甚だしさです。
いやもしかすると、これが本来のお盆なのかもしれません。

お盆期間は、
8月13日木曜日から8月16日日曜日まで、だそうです。

本日8月14日を含めると、あと3日。
もしかすると、結構重要な3日間なのかもしれません。

と、いいますのも、御先祖総動員だけでなく、
ぼくたちが今生で別れた人々も、ばっちり帰ってきているからです。

そのことに関連して、ぼくは昨夜のライブ配信で、
自分の実体験を書き綴った物語の紹介をさせていただきました。

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2009年7月11日初版発行、ぼくの処女作『リリィ』です。

磨く前の原石どころか、川原の石ころみたいに荒々しい作品で、
印刷会社にお願いして自費出版でつくったものですが、
どういうわけか落丁乱丁が多発した関係で、手元にはこれしかありません。

『リリィ』は、生きている人と直に触れるように、
約3ヶ月もの間、死者と接した出来事を、綴ったものです。

大学生だった当時、mixiというSNSを利用していたのですが、
あまりにも不思議な経験だったため、リアルタイムに日記を書いていました。

それを大学卒業後に、ひとつにまとめたのが『リリィ』です。
書き上げたのはたしか、2009年4月下旬で、書き上げたその次の日に、
長らく闘病していた大学時代の友人が亡くなりました。

あまりのタイミングに、この作品を書き上げたから、
友人が亡くなったのではないかと思って、
ぼくは2〜3日家で塞ぎ込んで後悔しましたが、
その際、亡くなった友人が話しかけてきてくれたことで、
友人の死も、この作品が世に生まれたことも、
受け入れることができるようになりました。

ただでさえ接点の多かった目に見えない世界と
より深く関わるようになったのは、この頃からです。

ぼくがそんな体験をしたときと同じような流れが、
日本という国全体で訪れているのが、今年のお盆のような気がします。
ちなみに、欧米の場合は、秋冬のあたりハロウィンからクリスマスくらいにそんな流れがあるんじゃないかと思っています。

さて、いつも通りの迎え火、送り火が、
もしかすると、とてつもない作用を生み出すかもしれません。

近年のお盆は、
ただの長期休暇のように認識されてしまっている感が否めませんが、
目に見えない世界とのつながりをより深め、強める、
1年に1度だけの特別な期間だと、ぼく個人的には感じています。

特に今年は際立っているようです。
この時期恒例の夏祭りや花火大会は、軒並み中止ですから、
そのことも、こっそり後押ししているような気がしてなりません。

目に見えない世界とのつながりを深め、強めることは、
いったいどんな良いことにつながるの?

というご質問もありそうですが、
正直、特に良いことはないかもしれません(笑)
ぼくのようなポンコツアンテナでこんな感じですから、感受性豊かな方はほんとうにいろいろと見えたり聴こえたりするでしょう。その忙しさたるや、想像が及びません。

ただ、それを踏まえたとしても、
これは良いこと悪いことという次元の話ではなくて、
個々がより本来の存在に戻るためには、必要不可欠なものなのかも、
という気が、ぼく個人的にはしています。

たとえば、
「豊かさ」というものは、経済的なことだけではありませんよね。
さまざまな「豊かさ」が、この世界にはあるはずです。

その「豊かさ」は、どうやら芋づる式でぽこぽこ手に入る感覚があって、
豊かさ=お金(物質的なもの、目に見えるものだけ)
と執着したり、その考え、感じ方を固定化してしまうと、
他の豊かさが舞い込む余地がなくなってしまう気がします。

それこそ、愛という至上の豊かさは、目には見えない、見えにくいものでしょうから、そういったものが感じられなくなってしまうかもしれません。

目に見える世界には、さまざまな限界があります。
でも目に見えない世界は、無限に等しい余白、空白が、しかも透明な状態で存在していているように思えますから、
個々の裁量でいかようにも変化、創造することができる領域なのではないか、とぼくは感じています。

目に見えない世界を感じるようになると、なんとなくですが、崖っぷちで落っこちない、イメージがあるんです。
崖下に落ちるという一択以外に、崖の先に目には見えない道や大地を感じてそこを辿れるような、そんな感じです(意味不明でしょうか?笑)。

他者から見れば、崖から落ちずに、宙に浮いているように見えるかもしれませんね。「あの人、空を飛んでる!!!」と思う人もいるでしょう。

ほんとうはただ、目には見えない透明な道、透明な大地の上に立っている、歩いているだけなんです。

そんなわけで、

「生身の人間は 空を飛ぶことなんてできない」

という世界から、そうではない世界へ行く手がかりは、
目に見えない世界との関わりだと、個人的に感じています。

空を飛ぶ、というのは今のところ隠喩ですが、
そのポイントがこのお盆にある、というのが、
本日の星の声、並びに、靈靈の賑やかな声なんです。

ちなみに星々の声の総意としては、シンプルに、
「今は祖靈と交わる良いタイミングですよ」でした。

今回は、昨夜のインスタライブ配信の中でお伝えしたこと(なんとかして思い出して)とともに、
2020年に吹く「風」について、口語的におはなしさせていただきます◯





ぎゅっとふわっと




今は世界的に、「ぎゅっ」としている時期のように感じます。

身を守るために体を丸めるような「ぎゅっ」
自分以外の外側のあらゆる事物に対する視野が狭まるような「ぎゅっ」
「ぎゅっ」と目をつむりたくなるような出来事が起こりやすく、
精神的にも経済的にも抑圧されるような、
ストレスを感じるような収縮感のある、「ぎゅっ」。

今年は夏を迎えるまでに、どんどん「ぎゅっ」が強まっているようです。


「ぎゅっ」の状態は、人によっては、余白余裕を持ちにくいかもしれません。

特に依頼心、依存心が強い方の場合、
これまで頼ってきた、よりかかっていた相手が、
自分自身を守るために「ぎゅっ」とし始めると、
頼るための、よりかかるためのスペースがなくなってしまい、
孤独感を感じたり、一人で立てなくなって倒れそうになったり、
いろいろと大変な時期を迎えていらっしゃるのではないかと思います。

ちなみにそれは、
他者に見放されたわけではなく、嫌われたわけではなく、
ただ、自分の足で立つ、自分の軸で生きる好機が訪れた、と
捉えられるのかもしれません。

それに、依頼心、依存心がたとえ強いとしても、
決して悪いことではありませんから、ジャッジメントにはご用心くださいませ。
人は性質によって、ほんとうに多種多様ですからね。


「ぎゅっ」、あんまり良い印象がないように書いてしまいましたが、良いこともとってもあります。

自他を優しく包み込むときの「ぎゅっ」
スポーツなどでいうゾーンのように、意識を集中するときの「ぎゅっ」
誰かと和解するとき、心を通わせるときの握手やハグなどの「ぎゅっ」

などなど。

「ぎゅっ」の流れにある時期は、「ぎゅっ」としやすいため、
たとえ「ふわっ」を追い求めている方でも、今現在は、「ぎゅっ」とする期間として、感じていただくのが楽で楽しい気がします。

ぼくの場合ですと、

兼ねてから集中して取り組みたかった、田畑の仕事に対する「ぎゅっ」
新天地と称した場所の整備にエネルギーを注ぐ「ぎゅっ」
自分自身をより、あるがままの本質的な存在に成長させるための、戻すための意識としての「ぎゅっ」

に取り組んでいます。

「ぎゅっ」は、緊張につながりやすいため、できるかぎりリラックスして、力みのない状態に、自分自身を整えていくことがオススメです。

力みや焦りはその人の本来の能力を半減させると言われるくらいですから、
もし心身に力が入っていることに気づいた場合は、まずは「ぎゅっ」としているものを、ゆるゆるとほどくことから始めてもいいかもしれません。

もつれてからまって、「ぎゅっ」となった結び目をほどくような感じです。


ちなみに「移動」というものは、どちらかというと「ぎゅっ」とは異なる性質のものです。ですから今年は、特に「移動」がしにくいはずです。

海外渡航だけでなく国内移動でさえ、少し難しいというか、これまでよりもしにくい流れがあると思います。
お仕事や、どうしようもない事情、溢れ出るもよおしの中で、移動する場合は、「ぎゅっ」の期間中であっても、比較的スムーズに移動できる気がしますが、これまでの世界に比べると、ずいぶん難しくなっているかもしれません。

もしかすると、ちょっとウロウロしすぎたのかもしれませんね。人類ぜんたいが。

奇しくも今年は「自粛」「Stay Home」という「ぎゅっ」とした拘束感を伴うような言葉がクローズアップされ、世間に浸透しましたが、
その流れに流されて縛られるのではなく、その流れを活用するのならば、今現在は、自分の持ち場をできるだけ離れない、ということが大切なのかもしれません。

自分の持ち場でできること、これまで放置してしまっていたこと、おそらくいっぱいあるはずです。

たとえば。

仕事ばかりだったけれど、家族との関係を「ぎゅっ」と深める期間になった。
移動ばかりの日々だったけれど、家の中のことを「ぎゅっ」と集中して取り組むことができた。
ゆっくり落ち着いて、自分自身の思考や行動などを見つめ直したり、意識を柔軟にしていくことに、「ぎゅっ」と時間を凝縮することができた。

などなど。


そんな「ぎゅっ」とした時期に、お盆というわりかし「ふわっ」としたタイミングが訪れたことは、とっても意味のあることのように感じます。

理由としては、
地球の性質上なのか、宇宙の仕組みなのかはわかりませんが、
「ぎゅっ」のあとには必ず「ふわっ」という軽やかさとほぐれが訪れるからです。


来年以降しばらくの間は「土」を想起させるような世界の巡りが起こるような気がしていたのですが、「風」の次は「土」じゃなくて、「空(くう)」もしくは「光」になるかも、などと感じています。

そうなるとまたスペシャル感がありますね。
そのあたりのことはいつか、キンボとは別の記事で書かせていただくかもしれません。

続いては、「ふわっ」をお伝えすると同時に、「風」についてもお伝えしたいと思います。




2020年の「風」について




以前noteで、『火のもとに、風が訪れた』という記事を書かせていただき、その中でも少し触れましたが、占星術的な観点でいう「風の時代」のことではなく、個人的な感覚で捉えた雰囲気ですが、今年2020年は大きな大きな「風」が吹く一年だと感じてます。

去年(2019)は、「火」の一年でした。
これまでの世界は、土→水→火→風の順で、風の次にまた土が来るというサイクルでめぐっている感覚があったのですが、その順番は基本的に一年ごとに変わるものではなく、その性質によって、5年、10年と続くようなものでした。

ところが、

2018「水」 → 2019「火」 → 2020「風」 

という風に、突然めぐりが加速しました。

実際、2011年の東日本大震災あたりから(もっと言えば2000年初頭あたりから)、その加速感はあった気がしますが、果たして無事に身体を保てるのだろうか、と感じるほどの加速感の真っ只中に今ぼくたちは生きています。

従来であれば、「風」は移ろいや節目を示しあらわすもので、移動がしやすかったり、変化が起きたり、という「ふわっ」と感があるんですが、今年の「風」はどうもこれまでのよりもスペシャルなようなんです。

2020年の風は、下から湧き上がってきます。ふっわ〜っと。
先ほどご紹介した記事を公開した春の時期は、地の底と感じていましたが、
夏を迎えた今感じるのは、それよりも、もっともっと奥でした。

地の底の底、宇宙の中心とも言える場所で、
そこは、ぼくたちが本来グラウンディングすべき、ポイントとも言えます。

この上昇感満載の「風」の性質については、先ほどご紹介した記事の中でちょこっとご紹介しております。もしお時間ある方、ご興味ある方はご覧くださいませ。

今年の風は極めて「ふわっ」としています。
去年のおはなし会などでは、ユーラシア大陸を持ち上げるようなイメージの風、とお伝えしましたが、「ふわっ」としているのに、超強力な風です。あまりにも桁違いで崇高なため、神風と呼んでもいいのかもしれません。

荒々しさはありません。ふわっふわなんです。

この風を、個人レベルで体感すると何が起こるか、とイメージすると、先の章「靈靈の賑わい」で書いた、


誤解のつぎはぎで繕われた世界の
綻(ほころ)んだ隙間から 笑顔で飛び出す羽のない人々は
地の底から揺らめくように 立ちのぼる風に舞い乗る


で、

「生身の人間が、容易に空を飛ぶ」ようになる気がしてなりません。

この「ふわっ」とした風は、究極の追い風とも言えるでしょう。
端的に言えば、自分のほんとうのほんとうにやりたいこと、好きなことなどをしていく上で、背中をふわぁぁぁっと押してくれるような感じです。

それを次元上昇、アセンションなどと言い換えることはできると思いますが、正直言って、それすら適当ではないかもと感じるほどの、素晴らしさです。

ぼくたちは、この秋冬に本格化する「ふわっ」とした風に乗って、空を飛べるようになるのかもしれません。今のところメタファーとしてお伝えしますが、そうじゃない可能性も多分にあるのかなあと思います。

ですから、この「ぎゅっ」としている時期に「ふわっ」を体感する準備を始めるのはいいかもしれません。

その準備とは、
今までに何度もお伝えしているため、みなみなさまにとっては耳タコすぎて、もう飽きちゃったと思われるかもしれませんが、念のためもう一度お伝えします。

自分自身に対する意識を「ぎゅっ」と、深めに深めること、です。

自分以外の誰かや、報道などの情報に意識を注ぐと、
視野が狭くなって偏りのある意識状態になってしまうのですが、
どういうわけか、自分自身に意識を注ぐと、宇宙が膨張するように拡張していくように、意識の拡がりと深まりが増します。

ちなみに、思考を深めることとは違います。
意識と思考はまったくの別ものです。

よく瞑想などで言われますが、自分の呼吸、吸って吐いてだけに意識を集中させるとします。ただ、それだけにひたすら集中するんです。
その状態は意識的であると言えると思いますが、急に頭の中に呼吸の吸って吐いてとは別の考え事が浮かんだとします。これが思考です。

ですから、自分自身に意識を、というのは、内向的にぐるぐると、さまざまと思考を繰り返すような状態とは、全然違いますから、そのあたり、体感として感じてみてくださいませ。

今という時期は、自分自身に対する意識を深めるために、ほんとうにいちばんの好機なんでしょうね。

その際は、決してがんじがらめにならず、
深呼吸して、脱力して、柔軟さを心がけて、広々とした海や空、草原を眺めるようにして、
ご自身を、注意深く観察していくと、いろいろとあらわになるものがあるはずです。

あらわになるものは、ネガティブな感情であっても、エゴであっても、良し悪しのジャッジメントをするのではなく、自分自身を見つけ、触れた証として、「ぎゅっ」と抱きしめるように、認めて(受容して)みてください。

この認める、という行為が、「ふわっ」につながります。

まさにぼくは、認めることに心をくだいている真っ最中です。
時には、「こんなん認めらんないやい!」という反応が出ることも、もちろんありますが、そんなぼくを穏やかに見守ってあげていると、
プンスカしているエゴのぼくに、抱きしめる隙が生まれて、
そこで確かに意識的に抱きしめると、プンスカがおさまって、急に認められるようになります。不思議なものです。

そうすると、意識が行き届く領域が少しずつ深まっていきます。

その深まりは拡がりでもあって、あるところまで深まっていくと、
ただ自分自身に意識を集中しているだけなのにも関わらず、その意識が実は全方位的に発動し始めて、
どういうわけか、自分以外の誰かにまで、意識が行き届くようになります。


そんな体験はまだまだ指折り数えるほどですが、その確かな感覚は、より高次の意識、言い換えれば「ふわっふわ」な本質の自己との一致につながり、穏やかでのどかな幸せを感じる状態を実感できるようになるはずです。

地の底の底、宇宙の中心から立ちのぼる「ふわっ」とした風を、「ぎゅっ」というこの時期の中で、感じとってみていただくと、まるで自由の翼を得たかのように、自由にのびやかな生命の本質を、味わえるようになるかもしれません。

またそれは、決して特別なことではありません。

すでに、庭先でふわふわと舞う蝶や、気持ちよさそうにさえずる鳥たち、風を受けて揺らめく草木花たちは、生命の満喫、堪能を、絶えずぼくたちに示してくれています。

森羅万象とひとつになることは、永遠という巡りの中で意識的に生きることにつながり、ある意味ぼくたちは、生死を超えた存在として生きることができるようになるのかもしれません。これは、勝手な仮説ですけど(笑)

これまでの世界であれば、死を体験することで、その領域の中に戻ることができますから、死を迎えたら誰しもがそうなったのでしょうけれど、
今、生きながらにしてその感覚が得られると、死生観は大きく変化することは間違いないでしょうね。

あ、話が脱線しちゃいましたね。

今回、星々の声を聴いてみて、
「ぎゅっ」とした今の世界の中で、意識的に「ぎゅっ」としてみることは、「ふわっ」とした軽やかで澄み切った世界への一歩目につながるのかも、と思いました。

まずは「ふわっふわ」なお盆を、どうぞ凡々とお過ごしくださいませ。
ぼくたちの心身、表情が、「ふわっふわ」に綻びますことを願って。




今週は、そんなキンボです。







こじょうゆうや

あたたかいサポートのおかげで、のびのびと執筆できております。 よりよい作品を通して、御礼をさせていただきますね。 心からの感謝と愛をぎゅうぎゅう詰めにこめて。