2020/11/27の星の声
行く先は、海の底の世界(後編)
ドングリとラッタン
「ボク、昨日公園でクジラと遊んだんだ」
男の子は、みんなからドングリと呼ばれています。ドングリの帽子みたいな髪型をしていて、クラスで一番背が低いからです。背の順だと、ドングリの次はナツメで、その次はコノハという女の子ですが、そのコノハがドングリの言葉を聞いて大笑いしました。
「なあに言ってんの。クジラとなんか遊べるわけないじゃん!」
コノハの言うことはもっともでした。でも、ドングリは真剣な面持ちで首を横に振りました。ナツメはそんなドングリの様子を見て不思議に思いました。ドングリは、ウソや冗談をつくような子じゃなかったからです。
「ほんとだよ。一緒に丸太のシーソーに乗ったもん」
それを聞いて、コノハはもっと大きな声を出して笑いました。
「へーんなの! ドングリみたいにちっちゃい子が、クジラとシーソーで遊べるわけないじゃん!」
それもまたもっともな話でしたが、ドングリはまた首を横に振って、こう言いました。
「クジラって言っても、子どものクジラだよ。ボクよりかは大きいけど、ボクとシーソーできるくらいなんだ」
ナツメはドングリのことをじっと見つめました。いつものドングリと、なんにも変わりありません。ナツメはドングリの言っていることがほんとうだと思いました。でも、コノハはそうは思わないようです。
「そもそもさ、クジラって海の生きものだよ。こんな山の中にいるわけないじゃん!」
コノハの言葉に、ドングリは「そうだよね」と言って、首を縦に振りました。「あれ?」と拍子抜けしたコノハはそのまま黙ってしまいましたが、今度はナツメがドングリにたずねました。
「そのクジラって、どんな子だった?」
「すっごくいい子! 人間の言葉がわかるんだよ!」
そう言って、ドングリは顔をしわくちゃにして笑いました。
「えー?」と言って眉をひそめるコノハを横目に、ナツメはドングリがほんとうにクジラと遊んだことが、なんとなくわかりました。
「どんなこと、おはなししたの?」
「うんとね、クジラの子はね、ラッタンって言うんだ」
「ラッタン!? かわいい名前!!」
ナツメよりも前にクジラの名前に反応したのは、コノハでした。疑ってばかりいたのに、いつの間にかドングリの話を信じたようです。ナツメは少しホッとしました。ドングリもコノハの反応を見て嬉しそうです。そこから、コノハはドングリを質問ぜめにしました。
「ラッタンはどうして公園にいたの?」
「ボクもわかんない」
「ラッタンの友達はいなかったの?」
「うん。でも、いつもはイワシの群れと遊んでるんだって」
「イワシって、魚の?」
「たぶん」
「イワシって、どんな魚だっけ?」
「わかんない」
「ラッタンと遊んだのはドングリだけ?」
「うん」
「他に何して遊んだの?」
「ブランコにも乗ったよ。あとはすべり台」
「あのすべり台に!?」
「うん。途中で挟まっちゃったから、ボクが後ろから押したんだ」
「へええ」
ドングリとコノハの会話に入るタイミングを伺っていたナツメは、この瞬間にドングリにたずねました。
「ラッタンはどこに帰ったの?」
それを聞くと、ドングリは腕を組んで首を傾げました。
「うーん。5時のチャイムでぼくの方が先に帰っちゃったからわかんない」
するとまた、コノハが会話に入ってきました。
「その時、ラッタンは何か言ってた?」
「また遊ぼうねって」
「他には?」
「うーんと、なんだっけ?」
「ほら、思い出して!」
「えーーっと」
ドングリはむずかしい顔をしたまま、腕を組んでうつむきました。ナツメはそんなドングリの姿を見て、ドングリのお父さんのことを思い出しました。
ドングリと同じように、大人の中でも小柄なドングリのお父さんは、町でいちばん腕のいい大工さんです。将来は、ドングリも大工さんになって、クラスメートみんなの家を建ててくれると約束してくれたことを、ふとナツメは思い出しました。
「そうだ! また海の底で会おうねって言ってた!!」
それを聞いたコノハは「海の底?」と言って、あきれるように笑いました。ドングリは思い出せたことがよほど気持ち良かったのか、スカッとした表情でうんうん頷いていましたが、ナツメはもう少しだけドングリの話が聞きたいと思いました。
「またって、どういうこと?」
「え?」
「ドングリも、海の底にいたってこと?」
ナツメの問いかけに、ドングリは半分ぼうっとしたような顔をして答えました。
「そうだよ」
その声に反応したのはコノハでした。
「えーーー!!!」と大きな声で叫ぶと、またドングリのことを疑うような声で尋ねました。
「公園で遊んだって言ってたじゃん!」
ドングリはコノハの声にうなずいて、さも当たり前とでも言いたそうな顔をして答えました。
「昨日の夕方、このあたりみーんな、海の底だったでしょ」
コノハの頭の上にたくさんの?マークが浮かぶそばで、ナツメは大きく頷きました。
「やっぱりそうだったんだ!」
パパタンとマーニ
その頃、ラッタンも同じように、パパタンと話していました。パパタンはラッタンの言葉をひとつも疑っていませんでしたが、物知りのパパタンでも不思議に思うことがいっぱいあったのです。
「むしろ、彼ら地上の人々の多くが、海の底の世界へやってくることになるんですよ」
パパタンは月の人の言葉を思い出しました。あの日以来、月の人々は海底で暮らし始めていますが、パパタンには、月の人々とはまた違う人間も海底にいるような気がしてなりませんでした。それがどういうことなのかはさっぱりわかりませんでしたが、ラッタンが人間の子どもと遊んだことは何か関係があるのかもしれないと、パパタンは思いました。
別の日、ラッタンがまたイワシの群れと遊んでいるうちに、パパタンは月の人々が暮らす海底の町へ向かいました。いつもならその途中で行き合うはずのチョウチンアンコウの姿が見当たらないことは気になりましたが、パパタンは螺旋を描きながらゆっくりと海底へ向かいました。
真っ暗闇の世界が少しずつ光を含み始めて、あたり一面が真っ白に感じるほどの光に包まれると、パパタンは月の人々が暮らす町へたどり着きました。パパタンの姿を目にした月の人々はみなパパタンの来訪を歓迎して、あちこちから手を振りました。その中には、あのチョウチンアンコウの姿もありました。
「どうして、キミがここにいるんだい?」
パパタンが尋ねると、チョウチンアンコウは頭上に浮かぶ星のようなまたたきをちらちらさせながら答えましたが、光にあふれる町中と、海底の暗闇の中では、チョウチンアンコウの光の見え方が違うことにパパタンは気がつきました。
「どういうわけか、帰れなくなっちゃってね」
「帰れない?」
パパタンは不思議に思うと同時に、チョウチンアンコウの身を案じました。しかし、普段仏頂面のチョウチンアンコウは、今までに見たことがないくらいに明るくて柔らかい表情でこう言いました。
「大丈夫。ここには一切の不自由がないよ。食べられちまう心配もないね」
パパタンはチョウチンアンコウの朗らかな様子を見て安心しました。
「それならよかった」
すると、チョウチンアンコウの隣に、ひとりの月の人が現れました。人間の世界でいう、女性の姿をした人でした。彼女はチョウチンアンコウの背中を優しく撫でて、パパタンの頬にもあたたかみのある手を当てると、パパタンはふと、大きな海溝の入り口のそばからふわふわと立ち上るあたたかな海流のことを思い出しました。
「パパタン、こんにちは。月明かりの海の底へようこそ」
「こんにちは。今日はあなたらにいろいろと訊きたいことがあってね」
女性はパパタンの頬から手を離すと、優しく微笑みました。
「なんでもおっしゃってください。私は、マーニです」
その時、パパタンは背負っているつもりのない肩の荷のようなものがスッとおりたような気がしました。ひとつひとつの呼吸が少しずつ楽になったのです。同時に、しばらく感じなかった懐かしい安堵感に全身がゆるみました。ふと、パパタンは人間に捕まったお母さんのことを思い出しました
「マーニ、うちの子が人間の子どもと遊んだらしいんです。その話を聞くと、どうやら地上に行ったみたいでね。シーソーとかブランコとか、海の世界にないものばかり話すんです。でも、うちの子は海の中から出たつもりは一切ないそうです。そのことと、この間、あなたらに言われたことが何か関係あるように思えて、とても気になったんです」
「地上の人々の多くが、海の底の世界へやってくることになる、ということですか?」
「ええ」
マーニはひとつ頷いて、パパタンとチョウチンアンコウが見守るそばで大きくゆっくりと両腕を広げると、虹色の泡が美しいアーチを描きました。よくよく目を凝らすと、泡は消えずにふわふわと浮いたまま、まるでチョウチンアンコウの頭の光のようにちらちらと瞬いていましたが、その泡のひとつひとつの中に、見たこともない光景がいくつも広がっていたのです。パパタンは驚きました。
「この星に存在する世界は今、万彩の泡の中に存在しています。どれひとつとっても、かけがえのない世界です。その数々の泡は、水に覆われた星の中にあります。つまり今、すべては水の中に存在している状態なんです」
マーニの言葉はパパタンを困惑させました。物知りのパパタンは、陸上に生きる生きもののことをたくさん知っていましたし、陸上は海とは違って水の中にない世界だったからです。パパタンの考えを読み取ったのか、マーニは首を横に振りました。
「パパタン、あなたがすでにご存知のことは、何ひとつ間違いではありません。ただ、今現在についてはすべてが水の中にあるんです。星が浮かぶ空でさえも水の中にあります。ですから、あなたの子どもが海の中にいたまま、陸上に生きる人間の子どもと遊んだことはおかしなことではないんですよ」
「そう考えれば、確かにおかしなことじゃないですね」
パパタンはひとつ大きく深呼吸をしました。自分自身の考えや、経験則を改めようとしたのです。マーニはパパタンの頬にもう一度手を当てました。
「あなたはほんとうに聡明ですね、パパタン」
じっと目をつむって、マーニの優しい手を感じたパパタンは、いくつかの閃きをたずさえてマーニに話しかけました。
「海や空、陸上など、今この星にあるすべてがひとつにつながろうとしているのですね。チョウチンアンコウが元いたところに帰らずにここにいるのも、帰らなくても帰っている、ということが起きているからなのでしょう?」
「はい、そのとおりです」
マーニはもう片方の手でパパタンの頬に触れると、パパタンの口先を引き寄せるようにして、自分の額の真ん中に当てました。
「記憶、意識、夢もまた、ひとつになります。過去、現在、未来という時間感覚がすでにひとつであることと同じように」
「ぼくのお母さんや子どものラッタンとも、そうなるんですか?」
「いずれそうなるでしょう。でもね」
そう言いかけて、マーニはパパタンの頬から手を離しました。パパタンはつむっていた瞳をゆっくりと開いてマーニの姿を捉えると、思わず全身が震えました。満月のように美しい眼で真っ直ぐにパパタンを見つめるマーニと、瞬間的にひとつになったような体感を覚えたのです。
「そう、ほんとうにすべてがひとつになるんです」
お母さんやラッタンだけでなく、目の前にいるマーニやチョウチンアンコウともひとつになるのかと思うと、パパタンは心臓が高鳴りました。期待や緊張から起きたものではないことだけはわかりましたが、パパタンにはその体感の理由がわかりませんでした。
行く先は、海の底の世界
ナツメはおじいちゃんにせがんで、おんぼろ軽トラックの荷台に、ドングリとコノハを乗せてもらいました。
「ほんとうに団栗と木の葉だったら誰にも怒られないんだがなあ」
おじいちゃんは歯抜けの口を大きく開けながら笑いました。ナツメはシートベルトを締めて、後ろの窓から荷台の上を覗きました。ドングリとコノハが軽トラックの左右のあおりにしがみついています。おじいちゃんはレバーをぐるぐる回して運転席のドアの窓を開けてから、ドングリとコノハに声をかけました。
「いいかい? おまえたちは、団栗と木の葉だ。もしおまわりさんが来ても、ぜーったいに動いちゃいかんぞ? なんせおまえたちは、ドングリとコノハなんだからな!」
どういうわけか、おじいちゃんが町で一番のいたずら小僧のように思えて、ナツメはその言葉を面白がって耳に入れました。当のおじいちゃんも、ちょいワルな顔つきを崩さないまま、そろりそろりと軽トラックを走らせ始めました。いつもならすぐに、5の数字が書かれたところまでシフトレバーを入れるのに、2の数字のところに入れたままです。おんぼろ軽トラックはいつも以上に変な音を立てていました。
「ナッちゃん、今じいじは結構悪いことをしてるんだ。おまわりさんに怒られちまうようなことだ。でもな、ナッちゃんの頼みとなりゃ話は別さ。だからな、今度はじいじの頼みも聞いとくれ」
おじいちゃんはさっきまでちょいワルな顔をしていたのに、いつの間にか、あんまり見たことがない、しょぼくれた少年みたいな顔をしてこう言いました。
「このことはおかあにもおとうにも、言わないでおくれ。特に、ばあちゃんには絶対だ。じいじ、運転できなくなっちまう」
ナツメは笑いながら頷いて、シフトレバーを左手で掴むおじいちゃんの手をとんとんと優しく叩きました。ナツメのママがよくナツメのパパにする仕草を真似てみたのです。おじいちゃんは鼻で笑うように「ハハッ」と言って、あたりをきょろきょろと見回しながら、公園まで軽トラックを走らせました。
公園には誰もいませんでした。この集落はもともとたくさんの子どもが住んでいたそうですが、今はドングリしか子どもはいません。近所の山から伐り出してきた丸太を削って作られたシーソーと、町の小さな鉄工所のおじさんたちがこしらえたブランコとすべり台しかない、小さな公園でした。
コノハはドングリの集落のすぐ隣の集落に住んでいて、たまに公園まで来るそうですが、ナツメにとっては生まれて初めて訪れた場所でした。おじいちゃんは「懐かしいなあ」と言って、大きなコナラの木の下にどかっと腰掛けると、ポケットから出したシワくちゃの紙箱の中から、もっとシワくちゃになったタバコを取り出して、ちっともつかないライターでなんとか火をつけました。
その間に、コノハはまたドングリを質問ぜめにしていました。
「それで? ラッタンはどうやって立ってたの?」
「立ってるわけないよ。泳いでたんだよ」
「水たまりもないのにどうやって?」
「だから、昨日ここは海の底だったんだよ」
「今日は?」
「うーん、まだ違うね」
「まだってどういうこと?」
「ボクもよくわかんないけど、急になるんだよ」
「ええっ!?」
二人の会話を耳にしながら、ナツメは公園のあちこちを歩いていました。昨日のような雲は空にひとつもありません。ただ、まるで筆で書いた波みたいに、くるっとはねるようなすじの雲がたくさん浮かんでいました。おじいちゃんはコナラの木の下から、東側に見える山々と、その麓にあるいくつかの集落の方を眺めながら、静かにタバコをくゆらせていて、どういうわけか嬉しそうでした。
徐々に空一面が赤みがかって、波のような形の雲が少しずつ広がり始めた頃、ナツメは急に潮の香りを感じました。少し離れた場所にいたドングリも同じように感じたみたいで、ラッタンに会えなくて落ち込みかけているコノハのそばで、
「海が来るよ!」
と言って、コノハに声をかけました。最初はふてくされて聞く耳を持たなかったコノハですが、充満していく潮の香りに気づいて、目をパチパチさせながら、あたりを見回し始めました。おじいちゃんは相変わらず、コナラの木に寄りかかってしゃがみ込んだままです。短くなったタバコを地面にこすりつけるように消して、もう一本を取り出そうとしたときに、嗅ぎなれない潮の香りに気づいたのか、おじいちゃんはライターを握ったまま、ナツメたちに目を配りました。
すると突然、北風がぴゅうっと吹きました。潮の香りがたっぷりと混じった風でした。ふと、ナツメは風上の方に目をやると、灰色と青の色味を含んだ黒っぽい何かが、公園にいるナツメたちの方に向かってゆっくりとやってくるのが見えました。空中を泳ぐように移動するその何かにいち早く反応したのはドングリでした。
「ラッタンだ!」
しかし、それはドングリから聞いていた大きさよりも、ずっとずっと大きいものでした。近づくにつれて、渦を描くようにして向かってきていることがナツメにはわかりました。おじいちゃんのおんぼろ軽トラックよりも何倍も大きいものでした。おじいちゃんはコナラの木からすくっと立ち上がると、子どもたちをひとところに集めて、両手で覆いかぶさるように抱え込んだまま、その巨大な黒い物体を見続けました。
ナツメやドングリ、コノハもまた、おじいちゃんに抱えられる中で、その黒い物体を見ていましたが、それが巨大なクジラであることに気がついたのは、ちょうどその物体が公園のそばまでやってきた時のことでした。
「クジラ?」
おじいちゃんがぽつりとそう言うと、巨大なクジラの胸びれのあたりから、小さなクジラがひょっこりと現れました。ナツメやコノハが「あっ!」と声を出した時、巨大クジラの姿にすっかり足がすくんでしまったドングリが、か細い声で「ラッタンだ」と言いました。
ラッタンは、おじいちゃんよりもひとまわり大きいくらいで、ドングリの話を聞いた時のイメージよりも小さいクジラでした。小さな胸びれをふりふりしながら、子どもたちやおじいちゃんのいるそばまでやって来ました。
ラッタンは昨日会った人間の子ども以外にも何人かの人間がいることに少し驚きましたが、近くにパパタンがいるおかげでちっとも怖くありませんでした。ラッタンはパパタンの方を振り向くと、パパタンの頭上にある鼻の近くにチョウチンアンコウが泳いでいることに気づきました。
「父さん、あの子が昨日遊んだドングリだよ」
パパタンは、公園の大きさとほとんど同じくらいの大きさだったので、公園の真上を旋回するように泳ぎながら、人間の近くを泳ぐラッタンの声を聞きました。
「みんなが怖がらないように、ちゃんとあいさつをするんだよ」
そう言って、パパタンはラッタンの様子を見守りながら、コナラの木の上に止まるようにして、その大きなカラダをコナラに預けました。
「ここは海流みたいにあたたかくて気持ちがいい」
そんなパパタンの様子を見上げながら、子どもたちを覆うように両手を広げていたおじいちゃんが、コナラの木の下までゆっくりと戻って来ました。おじいちゃんはライターをポケットにしまって、コナラの木にもたれかかるようにしてしゃがみこむと、
「ほんとうだ。こりゃ、おっかあに抱いてもらってた時みてえだな」
と言いました。
ラッタンは、ドングリのそばにいる、ナツメやコノハにそっと触れるようにして、子どもたちの周りをぐるりと泳ぎました。ナツメやコノハとも遊びたいと伝えたかったのです。コノハは黄色い声を上げて喜んで、ラッタンの尾びれに抱きつくと、そのままラッタンと一緒に空中をゆらゆらと泳ぎ始めました。
「いいなあ!」と叫ぶドングリのそばで、ナツメは思うように声が出なくなってしまいました。嬉しいけれど、言葉を話すクジラを前にして、どうしたらいいかわからなくなったのかもしれません。ナツメがおずおずしているうちに、ドングリはラッタンの背中に飛び乗って、ちょうどナツメの目線の高さのところで、コノハと一緒に空中を泳いでいました。
ナツメもラッタンのどこかに捕まりたかったのですが、ラッタンの大きさではドングリとコノハしか乗れなそうでした。そんなナツメの様子を見ていたチョウチンアンコウは、頭の上でまたたく星をチカチカさせながら、ナツメのそばまで来るとこう言いました。
「キミは、パパタンの背中に乗ればいい」
チョウチンアンコウは一見怖そうな顔をしていますが、性根はとても優しい生きものです。ナツメはすぐにチョウチンアンコウの言葉を信じました。チョウチンアンコウがパパタンの方に向かって泳いでいくと、ナツメは夏休みによく遊んだ川のことを思い出しました。チョウチンアンコウの泳ぐ道すじが、ゆるやかな川の流れにそっくりだったのです。
ナツメはその流れに飛び込むました。ふわふわ。するする。コナラの木の上に寝そべるパパタンに向かって、ナツメのカラダは運ばれて行きました。チョウチンアンコウがつくる流れに乗って、空中を泳いでいくナツメを見上げたおじいちゃんはとっても楽しそうでした。
「あんま、無理すんじゃねえぞ? ナッちゃんが怪我したら、じいじがばあちゃんに怒られちまうからな!」
じいじは、ほんとうにばあばのことが好きなんだなと、ナツメは思わず笑みがこぼれました。チョウチンアンコウの流れに乗ってナツメがパパタンの近くまでたどり着くと、パパタンは大きな瞳を細めて、ナツメを見ました。ラッタンがドングリに対して感じた好意を、パパタンもまたナツメに対して感じたのかもしれません。
すると突然、パパタンは大きな胸びれを使って、ナツメを自分の背中の真ん中までポンッとはね上げました。急なことでナツメは驚きましたが、パパタンは自分のことを受け入れてくれたのかもしれないと、幼いナツメでもすぐに気がつきました。それくらい、パパタンの胸びれの感触がていねいで優しかったのです。
ナツメがパパタンの背中に飛び乗ると、そこに見たこともない女性が座っていました。お月さまを眺めているような錯覚を起こすほどに、穏やかで静かな佇まいでした。ナツメが思わず頭を下げると、女性はにっこりと笑って、隣に来るように手招きしました。
「はじめまして。私は、マーニです」
パパタンはナツメが背中に座るのを確かめると、コナラの木のてっぺんを離れて泳ぎ始めました。コナラの木がまるでパパタンやナツメたちを見送るかのように、ゆらゆらと揺れています。コナラの木を登るようにして、ドングリとコノハを乗せたラッタンが泳いできました。小さなカラダで二人も乗せているのに、軽やかな泳ぎっぷりでした。
ちょうどナツメとマーニと同じ高さのところまでやってきて、ドングリとコノハをパパタンの背に下ろすと、ラッタンはそのままパパタンのお腹の方に滑りこんで、パパタンの胸びれを手繰り寄せつつ、口からぷくぷくと泡を出して笑いました。
「ここが一番安心なんだ」
ナツメたちはパパタンの背中から身を乗り出すようにして、あちこちを見渡しました。あっという間に空高くまで浮かび上がったパパタンの背中からは、自分たちの住む集落や町だけでなく、車で何十分もかかるような大きな街などが一望できました。ナツメたちにとって、今までに見たことのない視点でした。
「鳥になったみたい!」
嬉々として声を出すコノハの横で、マーニは優しく微笑みました。ドングリとナツメは、おじいちゃんのいる公園を探すことにしました。どういうわけかドングリもナツメも、雲と同じぐらい高いところにいるのに、町全体が見通せるほどに視野が広くなって、家の瓦屋根がひとつひとつ見えるほどに目が良くなっていて、公園を見つけるのはあっという間でした。手を振るおじいちゃんとくたびれた軽トラックだけじゃなく、そこにはチョウチンアンコウがいることもわかりました。
次に、ナツメたちは頭上を見上げました。さっきまで遠くに見えた波のような形をした雲がすぐ目の前にあって、もう少し浮かび上がったら手が届きそうなくらいでした。高い山々のてっぺんから見下ろすような広大な景色をのぞんでいると、耳をすまさないと聞こえないくらいにかすかな音が、町の方から聞こえてきました。すると、ドングリが慌てた顔でナツメとコノハを見ました。
「5時のチャイムだ!」
それを聞いたコノハはすぐに、頬をふくらませて、「えー!?」と言いました。この時ばかりは、ナツメもコノハと同感でしたが、5時のチャイムが鳴ったら絶対に家に帰らなくてはなりません。くすくすと笑いながら子どもたちの様子を見ていたマーニは、ひとりひとりの背中に手を当てました。
「だいじょうぶ。帰らなくても、帰れますよ」
ラッタンを含め、子どもたちにはその言葉の意味がわかりませんでした。ゆいいつ、パパタンだけがマーニの言葉を理解して、
「なるほど。そういうことだったんですね」
と言いました。すると、パパタンはカラダをぐるぐると回転させて、渦のような流れをつくると、そのままものすごいスピードで夕日に向かって進み始めました。
回転する視界の中にある光がどんどん膨らんで、そのうちに信じられないくらいに明るくなったかと思うと、ナツメたちは一瞬にして、公園のコナラの木の下でタバコをふかすおじいちゃんの前に立っていました。あたりには、まだ5時のチャイムが響いています。
「ドングリは、歩いて家に帰れるな? コノハは家のすぐ近くまで送ってやるから、ナッちゃんと一緒に仲良く車に乗んな」
おじいちゃんはナツメたちの顔を見てそう言いました。ナツメだけでなく、ドングリやコノハも、この一瞬で何が起きたのかを理解できませんでした。さっきまで雲と同じくらいの高さにいたのに、いったいあの大きなクジラんパパタンやラッタン、マーニはどこに行ってしまったのでしょう。
5時のチャイムが鳴り終わって、ふと我に返ったドングリは急ぎ足で家に帰って、ナツメとコノハはおじいちゃんのおんぼろ軽トラックの助手席でぎゅうぎゅうになりながら、コノハの家の近くまで向かうことになりました。
しばらくして、おじいちゃんが軽トラックを停めると、コノハはナツメに向かって「また明日ね」とだけ言って、軽トラックを降りて家の方に走っていきました。
まだぼんやりしたままのナツメは、どうして今軽トラックに乗っているのか、ドングリやコノハが家に帰ってしまったのかがわかりませんでした。おじいちゃんはそんなナツメをよそに、家に向かって車を出発させました。
少しずつあたりが暗くなる中で、外の景色ばかりを見つめるナツメにおじいちゃんが話しかけました。
「いやぁ、おまわりさんに見つかんなくてほんっとによかったなあ。さっきコノハとナッちゃんを無理やり助手席に乗せてみたけど、あれも悪いことなんだよ。ナッちゃん、頼むからおかあにもおとうにも言わないでな。ばあちゃんなんてもってのほかだ!」
ナツメはおじいちゃんの言葉にこくりと頷くと、少し間をあけておじいちゃんに尋ねました。
「ねえ、じいじ。さっき見た波みたいな雲って、どうしてあんな風に見えたんだろうね?」
おじいちゃんは交差点を左折しようと、あちこちに目を配ってから、ハンドルをくるくる回して言いました。
「さあな」
おじいちゃんはその後すぐにもう一度空を見上げてから、ナツメに問いかけました。
「ナッちゃんはどう思うんだい?」
ナツメは何も答えられませんでした。もしかしたらパパやママなら知っているかもしれない、と思いましたが、ナツメは思い浮かんだことを手当たり次第におじいちゃんに伝えることにしました。
「波みたいに見えたってことは、もしかしたら私たち空よりも高いところから空を見たのかも。昨日は水の中から空を見たけど、今日は空の上から」
「なあるほど」
おじいちゃんがそう返事すると、ナツメは少し声のトーンを落としてこう言いました。
「あと、ラッタンと大きなクジラ、それにマーニも一緒にいたから、きっと海と空と私たちがひとつになったんだ。だから、そんな風に見えたのかも」
すると、おじいちゃんは一度ナツメの方に見てから、目尻にたくさんのシワを寄せて、歯抜けだらけの口元を緩めて、前を向き直るとこう言いました。
「正解!」
急に、ナツメは胸の奥と目の奥からじんわりとあたたかいものが湧いてくるような気持ちになりました。そういえばさっき、空高いところでみんなと一緒にいる時もそうでした。
おじいちゃんはタバコの香りが混じった咳払いを何度かしてから、ナツメの頭をくしゃくしゃに撫でました。
「ナッちゃんの言うことは、じいじにとってぜーんぶ正解なのさ」
今週は、そんなキンボです。
こじょうゆうや
あたたかいサポートのおかげで、のびのびと執筆できております。 よりよい作品を通して、御礼をさせていただきますね。 心からの感謝と愛をぎゅうぎゅう詰めにこめて。