無駄なことなんて何ひとつない
私は結構なジョブホッパーで、履歴書の職歴欄がギリギリ足りないくらいには転職を繰り返している。今の会社に入ってとうとう十年経ってしまったが、この会社の在籍期間が今までの最長記録だ。
今の会社に入る前は不動産の賃貸仲介営業を一年ちょっとやっていた。当時、働かない元彼のことを占い師さんに相談したついでに転職相談もしたところ「木に関わる仕事が向いている。不動産とか」と言われ、事務職に飽き飽きしていた私はすっかりその気になってノリに任せてとある街の不動産屋の面接を受け、見事内定を手に入れた。とんとん拍子に転職先が見つかったことで私はやっぱり不動産業が向いているんだ、運命なんだと思い切り調子に乗った。
そんな浮かれた気分はものの一ヶ月で打ち砕かれた。転職先の不動産屋はバブル期の誰でも何でも売れに売れた時代を自分の実力と勘違いして起業したワンマン社長がサービス残業、セクハラ、パワハラとやりたい放題しているサークルみたいな箱だった。一年ちょっとで逃げ出した。営業成績は酷いものだったし、業界全体に不信感を持ってしまった私は大人しく事務職に戻った。結果、不動産業界も営業職も私の血肉とはならず、一人暮らしを始めたことと、今の夫と付き合うきっかけになったディズニーランドの無料チケットをビンゴで当てたことだけが収穫として私の人生に刻まれた。
あれから十年経った。父親が死んで、実家を売却することになった。他に伝手の無い私は、退職して以来一度もやり取りしたことのない不動産会社の元同僚に、少し躊躇いつつも思い切ってショートメッセージを送った。
実はこれこれこういうわけで。不動産の売却をお願いしたいんだけど、まだ業界にいる?
元同僚からはすぐに返信が来た。業界にはいますけど、今はマンション専門でやっているので知人を紹介するって形でもいいですか?
知り合いの知人か…と気持ちが折れかけつつ、それでも全然知らない人よりはマシだろうと思い直してお願いすることにした。
続けてショートメッセージで実家の住所など短くやり取りしている間に、彼はスルスルと法務局に立ち寄って実家の登記簿謄本を手に入れ、売り方について様々なアドバイスをくれた。ふむふむとありがたく話を伺い、じゃぁ知り合いに声掛けてみるのでちょっと待っててくださいね、と言われてやり取りは終わった。
数日後、元同僚から連絡が来た。お待たせしました、知り合いが査定終わったそうなのでどこかで会えませんか?
紹介してくれる知り合いというのは私の実家から電車で1時間以上離れたお店に勤める不動産屋さんだった。エリアが全然違うのにいいのかな、と元同僚に言ってみるがどこでも行く人だから大丈夫ですよ、と軽く流された。ホントかなぁ。
スタババさんの家の近くまで出向きますよ、と言ってくれたが流石に都内から電車で1時間かかる距離を来てもらうのは申し訳なさすぎるので遠慮して都内集合にした。どこか普段よく使うカフェとかあればそこまで行くから指定して、とお願いすると、じゃぁ僕の会社でもいいですか?と言われた。望むところです。
当日。十年ぶりに会った元同僚は全然変わらなかった。いやぁ〜、十年ぶりだよ。マジっすか。なんて時の流れに感嘆しながらビルの一室にある打ち合わせスペースへと案内された。
元同僚の知人がすでに待機していた。ご挨拶して名刺をいただく。…と、元同僚はじゃぁ僕は仕事があるので終わったら連絡ください。とその場を後にした。元同僚と知人の二人がかりで営業されるのかなと多少身構えていた私は少しだけ拍子抜けした状態で紹介された営業マンとのお話に入った。
営業マンから説明された売り方、費用感、査定価格は、手間をかけて調べないと分からないことが根拠になっていて、なおかつ私の予測や希望とほぼ同じだった。さらに素人ではあまり想像しにくいような部分でかかる費用と手間についても詳しく説明してくれた。
話を進めていく中で、一番気になっていた実家が遠過ぎてコストに見合うような儲けが出ないのではという私の心配をぶつけてみた。営業マンは全く動じることなく、今は管理職の立場なのでそこまで売上にこだわる必要がないこと、こういう縁を大事にすればちゃんとそれが次に繋がって返ってくることを説明された。一番の懸念材料もひらりとかわされた。断る理由が無かった。
弟さんともご相談いただいて、他社さんとも比較いただいて…というスタンスを崩さない営業マンに、もうこの場でお願いしたいと伝え、今後の動きについて打ち合わせてその日はお開きとなった。ちょうど仕事が終わった元同僚に、あと片づけするので僕はここで、とエレベーターまで見送られ、営業マンとも駅までは一緒に歩いたがそれだけで、ではまた、とあっさり別れた。
元同僚のことはいい奴だと思ってたからこそ思い切って声をかけたわけだけれど、それでも十年も前、ほんの一年ぽっち一緒に働いただけのよく分からないおばちゃんに、ここまで親身に、なんの見返りもなく、経験豊富な営業マンを紹介してくれるとは思わなかった。ありがたい。ただただありがたい。ありがたすぎて速攻でお礼のメッセージとスタバのドリンクチケットを送った。
十年前、酔っ払うたび、私の名前を何度も聞き直しては繰り返し呼び捨てにする気持ち悪い社長に耐えたあの一年はこんなところに繋がっていたのだ。人生、本当に無駄なことなんて何一つない。