【行政書士試験失敗記】13話 新しい自分を手に入れよう(無責任)
他人は「新しい自分を手に入れよう!」と言うが、苦労して手に入れた「新しい自分」が成功を掴むとは限らない。
ビジネス書を手に取ってみると、よく「新しい自分に生まれ変わろう」という言葉が紙面を踊る。
新しい自分の作り方、考え方、生活の仕方。
こういう本を読んでいるとなんとなく自分が生まれ変わったような気がするのは気のせいだろうか。
行政書士試験に挑戦していた頃、私は勉強の傍ら、こういうビジネス書を読み漁っていた。
新しい勉強の仕方、インプット、アウトプットのやり方、集中の仕方、勉強の仕方など、自分の知らないやり方を知るいいきかっけになると思ったからだ。
中には今でも使っているものもあるし、読み返してみると「なんじゃこりゃ?」となるものもある。
資格試験という高い壁を登ろうとしている私には、今までの自分では太刀打ちできないと考え、新しい自分を手に入れようと躍起になっていたのを覚えている。
まぁ、新しい自分になったとしても、実際に戦うのは何者でもない自分自身に変わらないのだが。
試験勉強とは時間との戦いである。
試験で合格点を叩き出すために、どれだけの勉強時間が必要なのか。その勉強時間を実現するために最低一日何時間勉強するのがいいのか。一日○○時間勉強するために、どう行動するべきなのかを考えなければならない。
資格勉強をするにあたり、自分でも成長したなと思うことの1つに、この「時間管理」が上手くなったことが挙げられる。
自分が持つ24時間という資源を、どのように効率よく運用するのかを考える力が身についた。
ただ、それゆえに私は自身の大きな問題点である「効率厨」ぶりを加速させることとなるのだがそれは仕方のないことである。
どんな境遇の人間でも等しく与えられたものが「時間」という資源だ。人間はその資源を使ってなにができるのかを常に頭の片隅に置いて行動しなければならない。
かつての私はその資源の使い方があまりにも下手だった。
例えば1日4時間勉強しようと計画を立てようとする。
あなたならばどうしようと考えるだろうか。
私の場合は「空いている時間、常に勉強する!」と考えた。
これではいけない。もう失敗が目に見えているようなものだ。
現代社会において、人間という生物に空いている時間などというものは存在しない。
なぜなら、この空いている時間を「なにかしら」で埋めてしまうのが人間という生き物なのだ。
以前、私がファーストフード店に行った時のことを話そう。
お目当ての料理を手に入れてご満悦状態であった私が「いただきます」と手を合わせた時、周囲の異様な空気に気が付いた。
なんというかあの、食事をしているという高揚感を周りから感じない。いや、そんなことはあり得ないはずだ。
食事とは人間の根源的な楽しみの一つである。温かい料理が目の前にあればそれだけで自然と笑顔になり、気分が上がる……そのはずなのだが、その空気が何処にも存在しない。
なぜだ? と私は気になり、周りを見渡して愕然とした。
周囲の人間の全てが、スマホを見ながらつまらなそうにポテトやバーガーを口に運んでいたのである。
どこにも食事を楽しむといった空気は無く、ただ死んだ目で行われる淡々とした作業がそこにはあった。
私はその光景が目に焼き付いて離れなかった。ここで「食事中にスマホをいじるとは何事か!!」という一時代前の説教をしようという気は無い。
しかし、である。
私事ではあるが、食事という娯楽を最大限に楽しめるように日夜努力を重ねている立場の人間からすると、その光景はやはり異様としか言えなかった。
スマホが提供する娯楽は、人間の根源的な喜びである食事の楽しさを上書きするまできたのか。
その事実に私は膝から崩れ落ちそうになるのを堪えながらバーガーを頬張り、ポテトを齧った。ちょっとしょっぱかった。
この経験を元に私がなにを主張したいのか、それは、
空いている時間というものは、現代社会においてもはや存在しない、ということだ。
仮に空いている時間があったとしても、人はすぐさまその時間を埋めてしまう。埋めることができてしまう。
それをコントロールすることはできない。手元にスマホがあればどんな些細な時間をも埋め尽くしてしまうのだ。
最近はその効果を狙って、スマホを勉強道具の代わりにできるようになってきているが、よっぽどの強い意志が無い限り、その隙間時間に勉強しようとはならないだろう。
もう「空いている時間があったら勉強しよう」という楽観的な時代は遠い過去の話だ。私はそれを理解していなかった。
その結果、「空いている時間があったら常に勉強しよう!」という楽観的な考えの愚か者がどうなったかというと、
1分も勉強しないまま1日が終わるのである。
そして眠くなったからといってベッドに入り、天井を見上げながらこんなことを考える。
「まぁ、今日はバタバタしちゃってたししょうがないか!」
別パターンとして、
「今日は調子が悪かったからなー!」
天井のシミを数えながらそんな言い訳を並べるわけである。ふざけている。
空いている時間に勉強しようなんて妄言は、楽観的なお調子者の戯言に過ぎない。
私は時間は「空いている」のではなく、「空ける」ものなのだと理解しなければならなかったのだ。
では、時間を空けるというのはどういうことか。それは日常における「なんとなく」を減らすことにある。
あなたは、
なんとなくSNSを眺めていることはないだろうか。
なんとなくYouTubeを眺めていることはないだろうか。
なんとなくネットサーフィンをしていることはないだろうか。
なんとなくゲームをしていることはないだろうか。
その「なんとなく」を減らすことが時間を空けることの第一歩であると私は思う。
「なんとなく」ではなく、全ての行動に目的をもって動くことで生活は改善される。
私の場合だと、勉強がしたいから、朝は5時半に起き、6時までには机に行き勉強を始める。
これにより、朝起きたら「なんとなく」スマホを眺めることもないし、「なんとなく」YouTubeを見始めることも無くなる。
もちろん、そういう時間が大切だという人の気持ちも十分にわかる。朝のまどろみの中でなんとなくスマホをいじる時間は社会人に許された最後の聖域であることも痛いほどわかるし、最近の私もその誘惑に負けて罪悪感を感じながら起きる日もある。
そういう日はなんというか全てが決まらない。だらっとした一日を送ってしまう。
だが、その聖域から一歩出ないことにはなにも始まらない。特に勉強という苦しさが伴うものについてはある程度の我慢が必要だ。
しかし、最初の我慢の先に手に入れたものは何にも代えがたいものになっていることは保証する。
時間を空けることができるようになれば、それだけ他人よりも多くの行動ができるということになるからだ。そうなれば他人の1日よりも自分の1日の方が充実したものにできるかもしれない。
私は自分の生活の「なんとなく」を徹底的に排除することにした。結果、勉強時間の確保に成功したわけである。
あんなに忙しいと思っていた日常も、最終的には仕事をしながらでも平日は3~4時間、休日は8~10時間程度勉強時間を確保できた。
1分も勉強できなかった頃に比べると本当にどうなってんだと自分に聞きたいくらいだ。
この「なんとなく」撤廃運動は私のライフスタイルを大きく変えたと言ってもいい。
私は以前の自分とは違う、「新しい自分」になったのだ。
が、ここでまた問題が出てくる。この成功体験により、私は「効率厨」っぷりを加速させることになる。「効率厨」が加速した結果、また別の失敗を起こすことになるのだが、それは以前記した通りだ(失敗記7話参照)。
時間が無いと嘆くのは簡単である。
だが、日常の「なんとなく」を整理することで時間を空けることはできるようになる。空いた時間を有効活用することで多くの物を手に入れることが可能になった結果、あなたも新しい自分を手に入れることになるだろう。
そうやって世の中はインフルエンサーや起業家が提唱する時間術を勧め、その時間術をまとめてビジネス本にして売り出してお金を稼ぐ。
世の中はよく出来ている。一つの成功体験を、何時間も噛み続けたガムのように使いまわし、どこかにまだ甘い汁が残っていないかと躍起になって駆けずり回る。それが世の中だ。
時間を有効利用することで新しい自分を手に入れることができる。これは間違いない。
新しい自分になった私は、以前のあれだけ勉強できなかった私からは考えられないほどの時間を一人で集中し、机に向かい、参考書を読み、数多くの問題を解くことができた。
私は、手に入れた「新しい自分」の凄さに恐れおののいた。両親からは長時間机に向かう私を見て「気持ち悪い」という、この上ない賞賛の言葉をいただいたものである。
「これで向かうところ敵なしだ。行政書士試験? 楽勝だよ。かかって来いよ!」
それくらい私は変わった。それはもう変わったのである。
しかし、苦労して手に入れた新しい自分が失敗しないとは限らない。このことはどのビジネス書にも書かれていないことだが、残念ながら事実である。
新しい自分になったとしても、行政書士試験に合格できるなんてことは誰も保証していない。
新しい自分になったその年、私は不合格だった。
あれ? 世のインフルエンサーや、起業家や、なんかよくわからない研究をしている研究者の皆さん?
私、新しい自分になったんですけど? 変わったんですけど? 前の自分とは比べ物にならないくらいの自分になれたんですけど?
それでも合格できないんですか? え、なんでみんな目をそらすんですか?
そんな風に聞いても誰も答えてくれないだろう。
なら、この責任の所在はどこにあるのか。新しい自分がやらかした失敗は誰が取るのか。
無論、自分自身。この私である。
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