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凡人が週末に想う、これからの世の中のあり方:末人と超人

渋谷や原宿に出掛けると、長い行列ができているシーンをしばしば見る。
一体何があるのかと不思議に思っていたが、聞けば大抵はいま流行りのデザインハウスによる限定コラボ商品を買い求める列だったりする。
若人に早朝から行儀良く列に並ばせるパワーは、希少価値のある商品を所有することの優越感や、希少商品転売利益による充足感なのだろうか。
コラボ商品の所有や転売利益確保という行為を単に否定するつもりはない。
行列を作る若人だけでなく、スマホを通して商品を手に入れたい若人のモノや名声に頼る価値観を刺激するために、ヒットを産む仕掛けを販売者が巧みに仕組んでいる結果に違いないのだから。

ニーチェの著書「ツァラトゥストラはかく語りき」に、“末人(まつじん)”という言葉がある。哲学者の竹田青嗣氏によれば、末人とは憧れを持たず傲慢とルサンチマン*に身を委ねて生きる人間のことで、ニーチェはこの本で「人間は人生が上手くいかないと普通はほとんど末人になってしまう」と言っているそうだ。
末人の反対が“超人”で、超人はルサンチマンに囚われたままだと自分の人生を台無しにして人生を肯定できないことを自覚して、世間的な道徳のルールや反感の中で生きる末人から抜け出て生きるために自分の生きる価値を作ろうとする人のことだと言う。

社会学者の宮台真司氏は、世の中にクズ、言い換えると末人が増えていて、なんでも損得勘定で考える、とラディカルに語る。
一方で宮台氏は「立派な人間とは、損得勘定を超える利他性の公共性が内側から沸き上がってくるような人間」だと語っていて、この立派な人を目指すことが、ニーチェの言う末人の反対にある「超人」へ到達するためのひとつの例えなのかもしれない。

わたしは行列に並ぶ若人たちをクズだとも末人だとも定義しないが、所有や損得という刹那的な満足を求めて行列に並び資金を注ぎ込むという行為を、自分が人生を終える時に生きた価値として肯定できるだろうかと考えると、虚しさを感じる。

カタチあるモノや名声などが客観的な幸福の尺度になっているいま、クズや末人という言葉で損得勘定の合理性や勝ち組志向を否定することは時代錯誤的な大衆批判ではないかという人も居るかも知れない。
だが、わたし自身は宮台氏の考えに近く、否定派の人たちの多くは自分の生を自分自身の価値感によって肯定あるいは評価できず、客観的つまり他人や世間の眼による肯定あるいは評価に委ねることしかできないのではないかと、考える。

わが国において貧困や経済格差が顕在化した原因が「失われた20年」における政府の無策にある、と言われることが多い。確かに、この国はあらゆることにおいて旧態然として変化を嫌う。
戦後ひいては維新後となんら変わらない政治や行政の体制は、外交や経済上あるいは大事件や大事故などで経験した様々な災いから学びを得て新たな戦略を考察することは一切せず、昔からのやり方を延々と繰り返すことが得意だ。コロナ対策はまさにその一つの証左だろう。
旧態然とした体制には巨大な既得権益が存在しているのかも知れない。
そして変化が考えられない体制であれば余計に、自分が甘い汁をお裾分けしてもらって勝ち組に仲間入りしよう、と志向する人が増えるのも当然だろう。

ただ、あまりにも何事も損得勘定に行き過ぎていると感じることも多い。
昔は電車の中や街中の自分には関係ないゴミを拾う人など、街のそこここに他人を想う「立派な大人」がいたし、宮台氏の言う「立派な大人」が増えれば、もっと住みやすい世の中になるのではと考える。
いま世の中をよくするために政治を変えることも大事だ。
でもそれだけでは変わらないのでは、と思うのは私だけだろうか。
本当に世の中を良くするためには、ひとりひとりが今までのモノや名声に対する憧憬と言う価値観を葬り去り、自分なりのオリジナルな価値観を持つ事が必要なのではないだろうか。
仮にそうなれば、商品を実質価値以上に高く売りたい企業の心地よい商品メッセージに惑わされず、ソーシャルメディア上に溢れるデマゴーグや誹謗中傷に傷つかない自分になることができるのではないか。
サムライは美意識を重視したというが、言い換えれば、自分なりの美意識を育む努力が自分の価値観を持つことであり、この国のカタチを変えてゆく方策なのではないか、などと夢想する週末だ。

*ルサンチマン:弱者が強者に対して抱く嫉妬心、怨念


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