見出し画像

潔さよりも諦めずしつこくやり続ける力

駿足長阪(しゅんそくちょうはん)
→ 優れた人が、苦難を恐れず自分の才能を試してみたいと思うこと。

駿足長阪の意味がよくわからなかったので、Bardに聞いてみたら、才能のある優秀な人物が、困難に立ち向かって自分の能力を試そうとすることだと教えてくれた。

駿足は脚力の優れた駿馬のことで、名馬は険しい長い坂道を前にすると、これを速く走って越えようとする。

このことから、駿足長阪は、困難な課題に直面しても、自分の能力を発揮して乗り越えようとする人を表す四字熟語となったそうだ。

この言葉の意味から私が連想したことは、成功者と呼ばれている人は潔くなどないということだ。

しつこさを持つことの大切さ

くり返しになるが、私が成功者と思える人は潔さを持ち合わせていない。

とにかく、しつこくねちっこく、なんとかなるまでやり続けようとする。

これをダサいとかカッコ悪いと切り捨てる人が多いが、完全に間違っていると主張したい。

潔く辞めるといえば、一見スマートに聞こえるかもしれないが、それは錯覚だと言い切りたい。

潔く辞める癖がついている人は大成しないと思っている。

というのも、耐性がないから、その裏返しはすぐに諦めるという癖がついてしまっているということだ。

かつての私が学んだことの1つに、3回はやってみるというマインドがある。

これは非常に重要なマインドだと思っていて、なぜなら最初から上手くいくことなどないからだ。

とはいえ、向き不向きはあるので、できないことをずっとやり続けることは時間の無駄でしかない。

となると、自分や続けるのか辞めるのか、そこの見極めが大切になるわけだが、そこにはしつこさが求められると思っている。

そして、もう1つ大切なことは、しつこくやってみる場合に本気でやらなければ意味がないということだ。

本気で3回ほどやってみると、見えてくることがある。

そこから、さらにしつこくやるのかどうかを判断するというマインドが、今の私を支えてる。

なぜなら、そういった人たちが成功者として私の先をいっているからである。

才能がある人と才能がない人の差

世の中には圧倒的な才能を持っている人がいる。

いわゆる天才というカテゴリの人なのだが、ハッキリ言ってそのカテゴリにいる人たちは、かなり希少だ。

つまり、人口比率からすると圧倒的に少ない人たちで、かつ再現性が著しく低い人たちだ。

そういう人たちに憧れを抱いたり、崇拝することは決して悪いことではないし、目標とすることも1つの生きがいになるかもしれない。

けれども、残酷なことを言うが、そういう人たちを追いかけたとしても、生涯追いつくことはできないし、背中を見ることすら不可能だろう。

それほど、才能というものは残酷にも人の能力としての差を生むものだ。

だからといって悲観することはない。

世の中の大半は才能がない、凡人たちだ。

かくいう私も、当然凡人で、突出した才能など持ち合わせていない。

ただ、天才たちに少しでも追いつきたいとか、勝ちたいというマインドがあれば、勝てる場面が出てくる。

それを世間一般には努力とか継続という言葉に置き換えるのだろう。

才能がない側の人間にできることは、何度も何度もしつこく試す、つまりトライアルを続けるしかないのである。

試すことができる人とできない人

上述したが、最初から上手くいくことなどまずない。

であれば、どうすれば上手くいくのか。

答えは至極単純で、試すしかない。

仮説を立てて、それがどういった結果になるのかを試すしかない。

自分の思ったとおりの答えがでることは稀で、意外な結果が返ってくることが常だ。

でも、それをくり返すことで、自分なりの答えが見つかってくる。

逆説的な表現になってしまうが、才能があると思われている人たちの多くは、困難に立ち向かって自分の能力を何度も試したことの結果だと考えている。

天才が一定数いることはまさにそのとおりなのだが、天才と才能があることは必ずしも一致しない。

後天的に勝手に世間が天才と呼んでいる人たちの方が多いとすら思っている。

試し続けた先に見つかる才能

私が多くする主張の1つに、自分の価値を上げていくことがある。

当然だが、自分の価値をアピールするためには、自分自身を俯瞰で捉えなければいけない。

それをやるためには、とにかくいろいろと試すしかないとなるわけだが、その先に才能というものが見つかる場合が多いと考えている。

というのも、人生において自分のやりたいことが早々に見つかる人の方が圧倒的に少なく、ほとんどの人は夢や希望を持っていない。

ただただ、なにも考えずに生きているという人が多い。

そんな中、幸運にも夢や希望が見つかった場合にはどうすればいいのか。

何度も同じことを書くが、とにかく実現するために試すしかないというわけだ。

私は夢や希望は叶うなどという精神論は語らない。

叶うこともあれば叶わないこともあるのが、夢や希望だ。

ただ、叶えるために共通していえることは、しつこくねちっこく試し続けた結果であるということだ。

そして、叶ったときに自分の才能として身についているということになる。

才能は枯渇しないという考え方

最近、とても納得した考え方がある。

それは、才能は枯渇しないというものだ。

才能は後天的というか、しつこくねちっこく試し続けた結果、身につく場合がほとんどだと書いたが、そこにも繋がる考え方だ。

なにが言いたいのかというと、そこまでしつこくねちっこく試し続けた才能が、そう簡単に枯れるはずがないということだ。

それでは、なぜ年齢を重ねていくと、自分自身の才能が落ちてきたと感じたり、あの人の才能が落ちてきているとか言われてしまうのだろうか。

その答えは、単純に体力が落ちているからだと言われて、妙に腑に落ちたのである。

要するに、自分の才能を活かすためには体力がいるということだ。

これは、本当にそうだと思うのだが、風邪でもなんでもいいので、体調が悪いときのことをイメージしてもらいたい。

身体の節々が痛くて、ベッドや布団から立ち上がれない状況で、自分の才能を活かすことなどできるだろうか。

それどころではないというのが本音だろう。

極端だが、まさにそういうことで、疲れたとか眠たいという肉体的な障害が才能を超えてしまうと、才能がいくらあっても活かせる場が圧倒的に減るということだ。

それでは、才能を枯渇させないためにどうすればいいのか。

これも至極当然の話にはなるが、体力をつけるしかない。

仕事のパフォーマンスを上げるという意識

自己肯定するわけではないが、私はずっと仕事のパフォーマンスを上げることを30代中盤くらいから、特に意識している。

具体的にはパーソナルトレーナーをつけて、週に1回のストレッチ、週に1回のトレーニングをするように心がけている。

その結果、少なく見積もっても5年以上は体調を崩すという経験がない。

自慢でもなんでもないが、一般的な人よりも圧倒的に移動も多いという自負はあるが、体調不良で病院に行ったことはないし、寝込んだこともない。

それは、体調が悪いときにいいパフォーマンスができないことを知っているからである。

そんなこと誰でもわかっていると批判されるかもしれないが、それではいいパフォーマンスを続けるためにやっていることがあるだろうか。

身体を動かすこと、食事に対して少しでも身体にいいものを取り入れようとすることを徹底している部分があるだろうか。

耳が痛い人もいるだろう。

渡しの場合、基本的に食べたいものを食べたい私は食事制限こそ徹底してやってはいないが、確実に続けていることがあると断言できる。

その意識がある人とない人では、やはり成し遂げることに差が出てしまうと確信し始めている。

まとめ

才能のある優秀な人物が、困難に立ち向かって自分の能力を試そうとするためには、体力がいる。

体力をつけるためには、運動をしたり、できるだけ身体に悪いとされるエビデンスのあるものを遠ざける必要が出てくる。

なにもそこまでストイックに続ける必要はないが、才能と体力は切り離せない関係にあることを理解してもらいたい。

なぜなら、体力を維持することで、才能を開花できる人が増えることは世の中にとってプラスでしかないからだ。


【Twitterのフォローをお願いします】

植田 振一郎 Twitter

株式会社stakは機能拡張・モジュール型IoTデバイス「stak(すたっく)」の企画開発・販売・運営をしている会社。 そのCEOである植田 振一郎のハッタリと嘘の狭間にある本音を届けます。