戦国時代に建てられた城の現在の価値
日本の戦国時代。
この時代のファンは多く、かくいう私もその1人だということは何度か述べていると思う。
そんな戦国時代に欠かせないというか、現在でも最も接近できる場所が城ではないだろうか。
もちろん、完全に当時のままではなく、修復工事や再編されているのが事実だが、現存している日本最古の城として知られている犬山城は約500年の時を経ている。
そんな日本の城についてまとめていこう。
日本最古の城
上述したとおり、日本最古の城は現在の愛知県犬山市にある犬山城だと言われている。
犬山城は、室町時代の1537年(天文6年)に織田信康によって築城された。
また、犬山城の天守は四層五階の望楼型天守で、現存する12天守の中で最も古いものでもある。
そんな犬山城はその美しい姿から、天下第一の美城とも称されている。
1952年に国宝に指定され、2006年には世界文化遺産の古都京都とその周辺の構成資産にも登録されている。
犬山城の建設費は、当時の物価で約50万石だった。
犬山城は木造で築かれた城で石垣もほとんどないため、建設費は比較的低かったと考えらている。
とはいえ、50万石は当時の農村人口の約1万人を支えることができる量の米で、現在の価値に換算すると、約100億円になると言われている。
一方で、上述したとおり、犬山城はその美しい姿から、天下第一の美城とも称されており、その価値は計り知れないという見方もできる。
石高という概念
江戸時代をイメージするとわかりやすいと思うが、100万石の領地などと言われたりする。
いわゆる、石高(こくだか)という概念だが、詳しく触れておく。
石高とは、江戸時代の日本において、藩や領地の経済力や社会的地位を示すために使用された概念だ。
石高は領地が年間に生産する米の量を基準に計測され、その数量によって領主の地位や年貢の徴収額などが決められた。
そんな石高は、1つの石(こく)と呼ばれる単位が示す米の生産量を基準にしている。
そして、1つの石は、約180リットルの米に相当する。
例えば、ある領地が1,000石の石高を持っている場合、その領地の年間の米の生産量は約180,000リットルとなるわけだ。
ちなみに、1石の約180リットルは、米の重さで換算すると約140~150kgになるので、1,000石だと140,000kgなので140万トンとなる。
それから、ダンプカーの積載量は一般的に約30トンなので、140万トンをダンプカーで運ぶには46,667回、つまり47回 = 47台分が必要になる計算だ。
いずれにせよ、石高は領地の経済力や富の指標として重要視された。
当然、石高が多ければ、領主や藩の社会的地位や権力が高いとされ、年貢の徴収額も増える。
また、領地の石高は藩主や領主の支配力や軍事力の目安となり、統治の基盤となる重要な要素だった。
石高の大小によって、領地の分類や領主の地位が決められることもあった。
特に幕府直轄領や大名領など、高い石高を持つ領地は高位の大名や重要な役職を担当することが多くみられた。
ただし、石高はあくまで経済力や社会的地位の指標であり、実際の収入や富の全てを反映するものではないという点も留意しておきたい。
領地の条件や気候、農業技術などの要素も生産量に影響を与えたため、石高だけで経済力を完全に評価することはできないからである。
なお、石高は江戸時代の終焉とともに廃れ、現代の経済システムでは使用されていないのは周知の事実だ。
端的にまとめると、当時の日本の社会制度や領地制度を理解する上で重要な概念であり、石高によって領地の経済力や社会的地位が決まった歴史的な背景を持っているということになる。
戦国時代に築かれた城の建て方
ということで、テーマを城に戻すが、戦国時代にどうやって城が築かれたのか興味が湧かないだろうか。
現代よりも技術力がない中で、あんなに大きな建造物をどうやって築城されていったのか。
日本の戦国時代に建てられた城は、石垣や木造の建物、堀などで構築されていた。
そして、一般的な城の建設方法は下記のとおりだ。
城は戦略的に重要な場所に建てられることが多く、山や丘の上、川のほとりなど自然の要素を利用した場所が選ばれた。
城の基礎となる石垣は、石を積み上げて築いた。
まず、地面を整地し、石の敷地を決める。
次に、大きな石を組み合わせて外側から内側に向かって積み上げていく。
石同士を固定するために、しっかりとした技術や知識が必要とされた。
石垣の上には、主に木造の建物が建てられた。
城の本丸や二の丸などの重要なエリアには、天守と呼ばれる多層の塔が建てられることがあった。
木材を組み合わせて建物を構築し、外側には壁や矢狭間(やさま)と呼ばれる矢を放つための窓が設けらるのが一般的だ。
城の周囲には、防御のために堀が掘削されることがあった。
水を溜めるためのものや、深さを利用して敵の侵入を困難にするためのものなど、目的に応じてさまざまな形状の堀が掘られた。
城の防御を強化するため、石垣や木造建築物の他にも、櫓(やぐら)や門、橋などの防御施設が設置された。
これらの施設は、攻撃や侵入を阻止する役割を果たすのが目的だ。
城の守りを強化するため、石垣や堀だけでなく、様々な防御手段が取られた。
城壁や防御塔、門の上には鉄砲や弓矢を放つための狭間が設けられ、敵の攻撃に備えた。
また、城内には監視用の高い櫓が設けられ、周囲の状況を確認する役割を果たした。
城は所有者や時代の変化に応じて改修や拡張が行われることがあった。
新たな防御施設や建物の追加、城壁の強化などが行われ、戦国時代の城は常に進化し続けたのである。
端的にまとめると、戦国時代の城の建設には、広範な専門知識と技術が必要だった。
石垣や木造建築、堀の掘削など、建築技術のみならず、防御のための戦略や工兵技術も要求されたのである。
また、大勢の労働者が城の建設に携わり、多くの労力と時間を要する作業だったのは言うまでもないだろう。
戦国時代に建てられた城の数
それでは、どれくらいの数の城が戦国時代に築城されたのか。
戦国時代に建てられた城は、日本全国に約10,000あったといわれている。
ところが、そのうち現在も残っている城は約100程度だ。
その中でも、特に有名な城は下記のとおりだ。
姫路城(兵庫県姫路市)
彦根城(滋賀県彦根市)
松本城(長野県松本市)
犬山城(愛知県犬山市)
高遠城(長野県伊那市)
松江城(島根県松江市)
熊本城(熊本県熊本市)
小田原城(神奈川県小田原市)
名古屋城(愛知県名古屋市)
大阪城(大阪府大阪市)
これらの城は、いずれも戦国時代に築城された城で、もちろん改修は行われているが、現在もその当時の姿を残している。
また、いずれの城も国指定の特別史跡に指定されており、多くの観光客が訪れている。
戦国時代に建てられた豪華な城
戦国時代に建てられた最も豪華な城だといわれているのが、織田信長が築いた安土城だ。
安土城は現在の滋賀県近江八幡市に位置し、1576年に着工、1583年に完成した。
当時としては最先端の技術を駆使して建てられ、その規模と豪華さは、当時の人々を驚かせたと語り継がれている。
また、安土城は天守閣、櫓、城郭などから構成されており、天守閣は5層、高さは約50メートルあった。
そして、安土城には、金銀財宝や美術品で飾られており、その贅沢さは、当時の武将の権力を象徴するものだったという。
ただ、安土城は1603年に豊臣秀吉によって焼失している。
当時の姿を残す資料から、その豪華さは現在でも知られているというわけだ。
豪華な城として知られているもう1つの城は、大坂城だ。
豊臣秀吉が築いた大坂城(現在の大阪城)は、1583年に大坂城の築城を開始し、約8年の歳月をかけて完成した。
そんな、大坂城は豊臣秀吉の政治的・文化的な力を象徴する豪華な城として知られている。
石垣や堀、多層の天守閣、豪華な装飾など、当時の最先端の建築技術や美意識を取り入れて築城された。
特に、五層の天守閣はその壮麗な姿で知られており、当時の最高峰の建築物とされている。
城内には広大な庭園や美しい橋、豪華な装飾が施された建物などが配置され、秀吉の威厳と富豪の豪華さを示していた。
また、豊臣秀吉の没後、大坂城は豊臣家の本拠地となり、その後も改修や拡張が行われ、豪華さが増していった。
ただ、現在の大坂城は、豊臣秀吉の築いた当時の姿を保っているわけではないので要注意だ。
大坂城は何度も火災や戦乱で被害を受け、天守閣などの建物は現代に再建されているからである。
それでも、大坂城は戦国時代の豊臣秀吉の栄光を伝える豪華な城として、多くの観光客が訪れる人気の観光地となっている。
まとめ
戦国時代に建てられた城の予算は、その城の大きさや複雑さによって異なるが、一般的には数万石から数十万石程度だといわれている。
例えば、姫路城の建設費は約10万石、彦根城の建設費は約20万石、松本城の建設費は約30万石といった具合いだ。
また、小田原城の建設費は約50万石といわれており、これは当時の武将の年収の約100倍に相当する金額という説がある。
現在の価格で換算すると、数十億円から数百億円程度と考えられられる。
その理由は、当時の石高を現在の貨幣価値に換算すると、1石あたり約100〜300万円程度になるからである。
豪華な城として紹介した大坂城を再現するとなると、現在価格で800億円になるという試算もある。
少しでも戦国時代に建てられた城に興味を持った人は、紹介した城を是非巡ってみてほしい。
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