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ペリーが黒船で来航したときの敏腕外交官の林復斎の交渉術に学ぶ

得手勝手(えてかって)
→ 他人のことを考えず自分勝手に振る舞うこと。

他人のことを考えないことが自分勝手だということは理解できる。

でも、自分勝手の解釈にもいろいろな形があるように思う。

まだそんな考え方で自分勝手を押し付けるのかとガッカリさせられるのは、メディアのライターに多い。

とりわけ、企業買収や資金調達といった経済系のニュースの場面で、それを感じるのである。

企業買収が未だにネガティブに捉えられる現状

先日、下記のニュースが大きく報道された。

米PayPalが日本のペイディを3000億円で買収、アジアで「BNPL」後払い市場に参入

(出典:TechCrunch Japan)

TechCrunch Japanの記事を引用させてもらったのには、理由がある。

それは、最もネガティブな内容が少ない記事だったからである。

というよりは、メディアにとっては本来当たり前である中立の立場から事実のみがツラツラと書かれている。

ここにライターの無駄な感情や意見など必要ない。

ところが、多くのメディアはPVを稼ごうとするが故にタイトルがいわゆる釣りであったり、ネガティブな内容を載せようとする。

今回のPaidy(ペイディ)買収についても、ネガティブな記事が散見された。

その内容の多くは、日本の数少ないユニコーン企業が外国の企業に吸収されたというものだ。

嘉永6年(1853年)のマシュー・ペリー来航の史実

未だに1853年に浦賀沖にペリーが来航したときのようなドメスティックな対応をしていることに驚きを隠せない。

余談だが、みなさんの黒船来航の記憶はどんなものだろうか。

ペリーというアメリカ人が鎖国している日本に来て開国するように迫り、日本はビビってすぐに開国したと思っている人が多いのではないだろうか。

私の感覚では、この事件がきっかけで、徳川家が率いた江戸幕府が265年の歴史に幕を閉じたと思っている人が多い印象なのだが、史実は少々異なる。

ペリーが来航したときにその外交を託された林復斎という人物がいる。

実はこの人物が、ペリーに対してとった行動が日本にとって大きくインセンティブをもたらしている。


ペリーが日本にやってきた理由は、開国させること。

開国とは、国と国が交易を開始することで、このペリーの要求を江戸幕府は断固拒否しているのである。

詳細を述べると、ペリーは圧倒的な軍事力を武器に日本を恫喝して開国させてやろうと意気込んでいた。

日本近海に軍艦を50隻、さらにカリフォルニアにもう50隻、これら100隻の軍艦が20日以内に日本に到着する。

もし、幕府がこちらの要求を飲まなければ、武力をもって制圧するという内容だ。

この交渉の場にアサインされたのが、外交官の林復斎だ。

ペリーは交渉の席で、ボンボンを大砲を打ってくるような行動をする。

想像してみて欲しいが、こんな人物に対して、通常ならビビって開国をせざるを得ないと思ってしまうのではないだろうか。

ところが、林復斎は全く動じなかった。

林復斎(はやしふくさい)という人物の巧みな交渉術とは?

そんな林復斎の態度に苛立つペリーは、江戸幕府がいかに外国人に不当な扱いをしたかを非難する。

ところが、林復斎は淡々とペリーの主張を論破するのである。

例えば、ペリーが非を唱える外国船打ち払い令は1842年に廃止されていること、1848年に起こったラゴダ号事件で外国人を牢に入れたのは、狼藉を働いたからという正当な理由があることを説く。

外交官にとって肝心なことは情報量である。

林復斎は鎖国された状態の江戸時代でも、一部開放されていたオランダなどから豊富な国際情勢の知識を仕入れていた。

つまり、当時の世界の実情を誰よりもよく知っていたのである。


そんな林復斎にペリーは開港地を最低でも7〜8ヶ所を要求してきた。

当時のアメリカは捕鯨に力を入れており、太平洋でクジラ漁をするには日本で燃料(薪)や水を補給する必要があったからである。

そんな要求に対して、林復斎は捕鯨の寄港地ならば多くは必要ないとして、下田と函館の2ヶ所の開港しか認めなかった。

しかも、開港地での交易を断固認めず、あくまでも燃料(薪)と水の補給のみに限定した。

交易は鎖国政策にとって非常に重要な施策であり、勝手にビジネスを始められることは許されなかったからである。

その一方で、燃料(薪)と水だけであれば、ペリー来航前の1842年に薪水給与令というのが存在していた。

実際、長崎では外国船への薪と水の給与が認められていたこともあり、下田と函館を加えることはそれほどの難題ではなかった。

むしろ、意気込んでやってきたペリーを手ぶらで帰すわけにはいかないので、きちんと花を持たせたのである。


他にも、ペリーは開港地における外国人の行動範囲を10里まで要求している。

ところが、この要求に対しても林復斎は7里に限定するとした。

その理由は、下田港から7里の範囲には天城山脈あり、外国人が無闇に行動するのを防げると考えたからである。

ちなみに函館は5里しか認めていない。

地理的な事情を把握していなかったペリーは林復斎の案に従わざるを得ないという状況にしたのである。

このように、ペリー来航時の日米交渉は、林復斎がイニシアチブをとって進んでいる。

一度はペリーを追い返しているし、主導権を握ることはできず、ペリーは譲歩に次ぐ譲歩を強いられた。

最終的には、目標であった日本の開国すら果たせなかったのである。

林復斎の交渉術はそれほどまでに素晴らしいものだったのに、ほとんど知られていない。


この交渉の場が美しいのは、ペリーは約1ヶ月にの渡る長い交渉期間のうちに、林復斎に対して好意を抱くようになっているということだ。

ペリーは帰り際にこう言ったとされている。

もし、イギリスやフランスが攻めてきたら、アメリカは軍艦を率いて日本を助ける。

アメリカ側の資料では、林復斎を厳粛で控えめな人物と評しているが、芯の強さが交渉の場で明確に出ているのは、ペリーの次の発言からも読み取ることができる。

将来、日本は強力なライバルとなるだろう。

林復斎に触れたペリーは、日本人の勤勉さや教養の高さに驚いたとされているのだ。

こうして、1854年日米和親条約が締結された。

下田、函館の開港をもって開国とされるが、厳密には交易を禁じている点で、この2港は単なる補給港に過ぎない。

とはいえ、1842年に制定された薪水給与令では燃料(薪)と水の給与は難破船に限定していたところから、日米和親条約によって拡大されたのは事実だ。

その後、日本が本格的に開国するのは、1858年の日米修好通商条約においてであると記憶しておくといいだろう。

まとめ

史実を深堀りすると、こういった少なからず興味を持ってくれる人がいるようなものが出てくる。

冒頭に述べた企業買収の話もそうで、勝手に日本企業が外国企業に買われて日本国がどんどん弱くなっていくといったような意味不明な方向へ誘導することはやめて欲しいのである。

Paidy(ペイディ)についても、27億ドル(約3,000億円)という巨額でPayPal(ペイパル)というこれまた巨大なフィンテック企業だ。

PayPalはピーター・ティールとイーロン・マスクという強烈なタッグによって誕生した企業だ。

そんな巨大企業が時を経て、なぜ今日本に進出をしてこようとしているのか、今注目されているBNPL(Buy Now, Pay Later)とはなんなのかなどについて書くべきなのだ。

Paidy(ペイディ)のような企業が生まれて、そこで巨万の富を得る人が増えれば、ユニコーンが生まれやすくもなるし、そういった議論がまともにできる環境が増えるといい。


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植田 振一郎 Twitter

株式会社stakは機能拡張・モジュール型IoTデバイス「stak(すたっく)」の企画開発・販売・運営をしている会社。 そのCEOである植田 振一郎のハッタリと嘘の狭間にある本音を届けます。