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#1宗教編 "創価学会"日本最大の宗教団体として果たすべき社会的責任と使命とは①

 まず始めに自己紹介をさせて頂くと、私は創価学会員4世の30歳前後、創価一貫教育を受けた人間だ。 そして、これから書く内容は創価学会を責め立てる為に書いているわけではない。むしろ、創価学会の今後を真剣に考える一人の意見と捉えて頂けたら嬉しい。(困難な事は知っている)

 ここまで大きくなった組織に対し、1人の会員が組織全体に対する意見を幹部に伝えたところで何一つ影響しない。しかし、この記事に共感される方が多ければ、きっとそれは組織の確かな問題点なのだ。つまりこれは一つの実験でもある。賛同、批判に関わらずコメントを残してほしい。

 組織を思うがゆえに組織を真剣に批判する。それを分かって頂きたい。学会は同調圧力が強い。これは宗教団体としては当たり前なのかも知れない。しかし、それは創価の思想ではない筈だと信じるのは私が夢想家だからなのだろうか。

現在、創価学会が抱えている問題は何?

 今、創価学会員だけでなくアンチ創価学会の方にとっても注目されているのは間違いなく池田大作名誉会長が亡き後の創価学会についてだ。
創価学会という日本最大の宗教集団である創価学会が池田大作氏の死によって崩壊するだろうか、と。
(もっと週刊誌的ノリであれば死亡説か)

 私自身は池田氏が亡くなった後、急激に学会が崩壊するとは思っていない。既に組織力・求心力が弱ってきているとはいえ、創価三代の会長が作り上げた組織(コミュニティ)は圧倒的な影響力と人数を抱えており、未だに選挙となれば皆さんがご存じの力を発揮する。

 只、私は創価学会の職員でもない為、創価学会が嫌いな方からすれば嬉しくてよだれが出そうな後継者問題の情報は入って来ないし、内側で揉めているなんて事があっても一切分からない。私としてはそのような事が宗教団体で起きて欲しくはないと願うばかりだ。

 さて、前振りはさて置き、 会員である私自身が今思う1番の問題はもちろんゴジップ的後継者問題ではないし、興味も無い。

端的に言えば"組織に魅力が無い"事だ。

今、地方の少子高齢化が社会問題として取り上げられているが、創価学会にとってもかなりシビアな問題だ。男子部・女子部と呼ばれる比較的若い世代の会員がおらず、活動家となるともっといない。都内でさえ会合に参加するのは役職を持った人間とほんの僅かな会員しかいない。幹部に聞けば地域の男子部員は30人くらいはいるというが参加しているのは3人だったりする。

 これは何故なのだろうか?単純に人がいないだけなのだろうか?人がいないから仕方がないのか。壮年の会員達が語る熱気があった雰囲気はどこに行ってしまったのか。

 私は改めて魅力とは何かを問い直したい。凄く曖昧な言葉だか、魅力ある人間・組織は人を引き寄せる。それは世界一の宗教と哲学と豪語するのであれば備えている筈のものだろう。

私の考える宗教の役割と魅力

 宗教団体においての魅力とは何かと考えると、私は人生で向き合う悩みに対して哲学的、思想的な"答え"を提示できる事だと考える。そして、その"答え"の内容と、答えを体現する人間に惹かれて宗教は人を惹きつけるのだと。

  これは様々な宗教の起こりから考えてもそうだ。キリスト教・イスラム教・仏教、それぞれがその時代と文化的背景、そして目の前の人々の悩みに合わせて教えをとき、心の苦しみから開放してきた。

ここで一つダライ・ラマ14世の言葉を引用したい 、

どの宗教にも「幸せになりたい」「よく生きたい」「苦しみから逃れたい」という共通の願いがあります。この願いをどうやって実現させるか、それを説くのが宗教の本質的な役割であり存在意義なのです。
ただ、ひとくちに幸せといっても、国や文化、両親や家族、またその人自身の性格や関心によって様々です。人によって幸福の定義が違う以上、それを説く宗教も色々な種類があって当然です。そしてそれぞれが自分に最もあった宗教を選ぶことが大切です。
(中略)
宗教は誰かの心を平和にしたり、誰かの助けになっていたりすれば、それだけで価値があるものなのです。

 引用:傷ついた日本人へ (新潮新書)

 私は創価学会員だが、この考えに深く賛同している。もちろん宗教は古くからどちらの教義が正しいかと争ってきたし、教えの深い浅いはあると私も思う。(教義優先で人間を傷つけるは糞だ)
また、科学的にズレが証明できてしまうような教義は現代では力を失ってしまうからだ。しかし、いくら宗教の教義の差を証明しようが実際に”私が何をするか”であり、各宗教の信者がどう行動するかが問われるべきであり、助けた内容の質と人数ではないだろうか。

 いつか宗教が定性的・定量的に分析し、比較される時代が来るかもしれない。そう遠くないうちに。

 宗教の魅力がいかに人の悩みを解決してきたかとして考えよう。
創価学会がこれまで成長する事が出来たのは、何故か。

 高度経済成長期前から『貧乏人と病人の集まり』と言われる人達の悩みの受け皿となり、創価学会は低所得者に寄り添ってきた。
※創価学会の拡大期における時代背景や、拡大できた理由を社会学的視点でタサヤマさんという方が詳しく述べている。是非こちらを一読して欲しい。 

 創価学会は来月どころか明日の生活も見えない人に答えを提示し、100発100中とまで言わなくとも人生が変わる人達を見せてきた。
創価学会には創価班や牙城会という創価学会所有である会館の警備を通して行う人材育成システムがあるが、そこでは挨拶や清掃、責任者として注意すべき事など社会人として基本的なマナー等が詰まっている。
当時、個人事業主や中小企業にそんな教育制度はあまり無かったのかもしれない。しかし、創価学会は低所得者層に行ってきた。日々創価学会員が唱えるお題目が凄い凄くないに関わらず、教育は人を変える。幹部に悩み相談すると”指導”と名がついたものが返ってきたのだ。時代に沿っていた。

 宗教が時代に沿って変化することは、その時代の悩みに寄り添うという意味であり、決して悪い事ではない。

 しかし、今これまでのやり方では通じなくなってきていると私は感じる。
社会と時代が変われば人々の悩みも変わる。悩みが変われば指導方法も変わる。
そして、社会の変化スピードはどんどん加速する一方だ。テクノロジーの進化に人々がついていけてないように、宗教も社会についていけなくなるのだろうか。
続き(8/4投稿)

多様化する悩み。果たすべき役割

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