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服と時計と感受性の話

毎年この時期になると何を着ていいかわからない。東京は昨夜の豪雨から打って変わって快晴で、浮かれて無印のリネンシャツを下ろそうとしたけどさすがに寒かった。つまんないなと思いながらも風邪をひきたくなくてユニクロのリブカットソーに着替えて上着を羽織る。何年履いてるかわからない伸びきった黒スキニーは表面が毛羽だっていて黒特有の強さがまるでない。

収納し切れないほど服があるのに着たい服がほとんどない不思議。後先考えず消費の快感で服を買い続けているとこういうことになる。そもそも圧倒的に長袖が少ない。半袖Tシャツとか冬用の厚手のニットは結構な数あるのに、春と秋、特に春に着るトップスがほぼない。

夏になっても在宅は続きそうだし、つまらないと感じるものものは全て手放してしまおうかな。オフィスカジュアル的なジャケットとヒールのあるパンプスはこの間捨てた。直近の新入りは空気階段の踊り場TシャツとユニクロUのメンズのクルーネックTシャツで、仕事用の服をもう買わなくていいと思ったらどんどんラフな服が増えていく。少し前だったら「年相応じゃないな」とどちらかというとネガティブな感情になっていただろうけど、今は好きならもうそれでいいやという明るい諦めがある。ある程度の年になるとカジュアルな方が難しいけど、好きな格好をすることをサボりたくないのでちゃんと考えて買いたいし着たい。

在宅で電話会議が増えてから、急に時計の秒針の音が気になるようになった。自分がではなく、通話相手に聞こえていて耳障りじゃないだろうか?と。

銀色の何の変哲もないツインベルの目覚まし時計は、18で実家を離れる時に母がくれたものだ。調子が悪くなることもなく気付けば10年元気に動いている。記憶違いでなければ幼馴染2人とお揃いで買ってもらったはずだけど、彼女たちの家にはまだあるだろうか。

昨夜、窓に打ちつける雨音の中布団に潜り込んでトーチを聴いていた。

台風の翌日に作ったとライブで話したのが印象に残っていて、多分それで思い出したのだろう。初めて聴いたライブでダラダラと泣いてしまった曲でもあって、未だに聴くと条件反射みたいに涙が出る。感情を認識する前の涙は感受性がガバガバだから起こり得ることで、まぁ悪いことじゃないというか自分のそういう特徴が嫌いじゃなかったんだけど、あれ?なんか違くないか?とふと思った。

感じたことを出来るだけそのまま表したいと思って文章を書いているし、何か作品を見る時も自分を通してしか見られないのは承知の上で出来るだけそのものをまるっと受け取りたい。というか、他の人が見ている世界を知りたくて作品を見ている節があって、だから自分に引き寄せて理解するというよりもその作品が持つ光とか文体をそのまま受け取りたい。

今の私は幾重にも重なったレイヤーの一番上の層に過剰に反応していて、その「過剰さ」を繊細に受け取れた証拠みたいに勘違いしていないだろうか?料理で言うなら本当は苦味だけでなく仄かな甘みや、噛み続けるとその向こう側に隠し味の酸味なんかも潜んでいるのに、ほんの入り口の苦味だけしか感じ取れていない状態なんじゃないだろうか。

だから毎回涙を流してしまうのは感受性が豊かってことではなく、どちらかというと感受性の放棄に近い。じゃあ感受性が豊かってなんだ?と問われればわからないのだけど。

昔に比べると傷つきにくくなってずっと生きやすくなったけどその分感覚は鈍ってきているように感じる。
少し寂しいけど、毎日泣いている訳にもいかないし、何にも感じないよりは(これは本当に怖かった)ずっとマシだと言い聞かせてやっていくしかない。

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