西洋医学と東洋医学どちらが先立つか

今から話すことは、西洋医学、東洋医学どちらが優れているかを考えたものではない。
包丁は美味しい食べ物を作ってくれる一方、人を殺めることも出来るように万物は使い方、使う人、状況によって裏表がある。西洋医学も東洋医学も、得意不得意があり、それぞれの得意分野を活かして併用、使い分けることが大切である。

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私は東洋医学の考え方が好きです。
なぜなら、自然観、宇宙観に基づいて作られたものだから。
人間も自然界の一部という考えであるため、自然界の法則にのっとれば治療、さらに予防もできるということに大変面白みを感じます。
「宇宙」、「法則」、「自然界の規則性」における理解を深めたり、様々な事象に対して法則を見出すことが私の快感の一つであるため、東洋的な考え方を好きになるのは必然だったのでしょう。

大学生の頃に脳に興味を持ったのは、宇宙と脳の類似性を知ったからです。
その説明は長くなるので省きますが、みなさんご存知の通り自然界のパターンはフラクタル構造(自己相似性=図形の全体の一部を切り取ってもその一部と全体は同じ形をしている。)であり、人間の身体のある部分にも自然界と同じパターンが見られます。
気管支の走行は木の枝の分岐のようですし、乾燥した皮膚のひび割れはまるで干魃した地割れのようです。


フラクタル構造の塊:ロマネスコ
肺の3DCT。下の木と似てる。




自然界がその形状に落ち着くということは、それが最も効率よくエネルギーを循環させる最適な構造だと考えています。
自然界の法則に基づくと、自然と「最適な状態」になるのでしょう。自然だけに。
だからこそ、治療のみならず未病を防ぐこともできるのです。

また、無意識の旅をしていくうちに、「全ては繋がっており一つである」という考え方をもつようになりました。
中医学(東洋医学の中の一つ)の五行学説でも「ある事象そのものを見るのではなく、その事象が起こす、またはその事象が起こされるに至った間接的な影響を見ることが大切である。」「ものの関係性に注目していると、全体を見る癖がつく」と主張しています。

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五行学説:臓器や自然界は、互いに依存し(相生)、互いに抑える(相克)関係で、そのバランスが崩れると病気になるという説。
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フラクタル構造については長くなるので割愛。
最近の悩みは、NOTEを書いていると書きたいことが沢山湧き、尋常ではないくらい長くなることです。
そんな長いものを読む気には、私ならば到底ならないので極力短くしたいところですが、書きたいことがどんどん広がっていってしまいますね。
そして収拾がつかなくなり一旦別のNOTEを書き、全てのNOTEが中途半端になり、「進んでいないこと」「何も出来ていない自分」と対峙し自信をなくす。こういうことありませんか?特にADHD。
完璧に全て書きたいという思いを切り捨てることが結局近道であることは理解しているため、出来るだけ完璧主義を手放していきます。

では最近あった出来事から題名のことを考えるに至った経緯を話します。

東洋医学では病気を見る時、病気の原因の一つとして「こころ」の問題を常に意識しています。
リウマトイド因子や抗CCP抗体といった客観的指標をもつ関節リウマチであろうと、その背後に精神的な影響はないか知ろうとします。
心のあり方が、身体のあり方と考えるからです。

今私は普段より肩が凝っていますが、やらねばらならないことが沢山あるのに先延ばしているせいで「お前は何も出来ない」と人に批判されている気分になり、その自責の念が筋緊張を生んでいます。(肩凝りはしばしば罪悪感と関係していると言われています。)
大丈夫大丈夫と深く呼吸をすると肩凝りは改善しますが、その考えが再び訪れると肩凝りが増強するのを感じます。

中学生の頃からの慢性的な肩こりが最近悪化し、ここ2ヶ月は右前腕の痺れも出現しました。痺れは消失〜減弱〜増悪しますが、それは頚椎を動かしたり手の位置や姿勢によって変化しません。
痺れが出現したり増強する時のタイミングを観察していると、おそらく不安やネガティブな感情を感じた時に凝りの硬結部分がより一層緊張し、神経が圧迫されているという結論に至りました。

人間は心に傷を受けると、「もう2度と同じ思いはしたくない」と、自分を守るための思い込みや信念を形成します。でもその思い込みは往々にして本当の自分を生きることを諦めさせるため、人生の邪魔になるものでもあります。(例: 僕は何も出来ないという思い込みがあると新しい挑戦をしないので失敗しなくて済む。が、成長できないのでそれは邪魔な思い込みでもある。)
身体の不調は、「その思い込みはあなたのためになっていないよ」というメッセージです。2ヶ月間、この痺れは私にどんな思い込みを変えろと言っているのだろう、と考えながら過ごしていました。

最近瞑想をした直後に、痺れからのメッセージが閃きました。(これはヒプノセラピーで痺れが消えた前のこと)
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メッセージはこうでした。
「痺れに対して、どんな自分の心の状態を表しているのだろうと考えるのもいいけど、西洋医学のことも無視しないで」

もしそのメッセージが正解ならば、病院に行き頚椎症など何か診断されて治療法が見つかる可能性もあります。西洋医学の恩恵を受けた私は、再度西洋医学も大切にし直すことができ、東洋医学と統合することができます。西洋医学も東洋医学も両者同じくらい念頭に置く大切さを学べるだろうと考えました。
(まだ病院に行っていないですし、もうすでに痺れは殆ど感じなくなったので真偽は不明ですが・・・)


ただ、これを閃いたのは瞑想した後です。いつも瞑想中や瞑想後すぐに6個くらい何かに気づいたり閃いたりします。
瞑想は長期的な実践で効果が得られるものであり、人間の身体と心全体が包括的に良くなるものなので、イメージとしては東洋的です。瞑想という東洋的なものによって、この閃きが生まれました。つまり一連の流れを見ると、東洋が先立つのではないかと考えたわけです。

まあ今考えるとよく分からない思考過程ですし、なんでも真理を追求したがる癖が出ていただけのような気もします。

というわけで、本当に東洋が西洋に先立つのかを考えてみました。もちろん冒頭で申した通り、両者ともそれぞれの得意分野を活かすことが大切です。

長すぎてここまで読んでくれている人はもういないだろうなw

そもそも西洋と東洋の定義をはっきりさせていなかったのですが、
西洋とは、「目に見えるもの」
東洋とは、「目に見えないもの」
とここでは定義することにします。

・西洋のデカルトは「我思う故に我あり」と、主体の本質を「我」とし、固定的で普遍なものだといいました。
・東洋のブッダの後輩であるナーガールジュナは、「万物は、固定的で普遍的な「本質」を持っていない。実態がない。この世は「空(=無我)」であるといいました。また、ある事物は、他の事物や状況、時間、空間など様々な要因に依存して存在する=何もかもが相互依存している=縁起の法則=すべては「関係性」であり、相互作用するため固定的で普遍的なものはないと。

以上より、東洋が西洋に先立つとはどういうことを指しているかというと、「見えないものが見えるものに先立つ。」ということかと思います。

では、本当にそうか確認したい所存です。
東洋医学の中の中医学の五行学説では、病気を見る時「全ては繋がっている」という考えのもと、「関係性」に注目します。
目に見えない関係性を考えることで初めて、目に見える身体の病気の治療が出来るのです。まあこれ自体が東洋医学の考え方なのでここに出すのは少し頓珍漢なのですが。

では、他の例をあげます。行動という目に見えるものを変えても、成果が出ないことがありますね。どういう方法でどういう行動を取ればいいのか考え、様々なダイエット方法を試し、痩せても結局リバウンドする。

なぜかというと、変えたのは行動だけだからです。これを食べたら、これは食べない、運動するなど、行動レベルしか変化させていない
行動は、感情や思考の結果です。思考を変化させないと、どれだけ真っ当にダイエットを頑張っても身体は変わらないのです。変わったとてまた戻ります。

マインドフルネス瞑想や自分の無意識について考えるようになってから、食べ物を食べる時に「太るかもしれない」と思いながら食べるのをいつのまにかやめていました。太るかもしれないと思ったら太りそうなのでそんな考えで食べるのは怖いです。「太るかもしれない」と思わなくなったので、自然と減量をしていない状態になりました。食べても太らないと思いこんでいるので頑張って減量する必要性もありません。甘いものも心配ゼロで美味しく食べるようになりました。

きっと、「身体が食べたい時に身体が食べたいと言っているものを食べれば脂質と糖質のコンボでも太ることはない」という信念があったからだと思います。
その代わり、脳が報酬系を満たして欲しいだけの時は食べず、身体が本当に欲しがっている時に欲しがっているものだけを食べました。

「お腹がいっぱいでも欲深く食べたり、作業にやる気が出ないからとりあえず食べてその場を凌ぐといった脳の報酬系を満たす食べ方をせず、身体が食べたいものを食べると健康な身体になる」という思い込みによって、それは本当になりました。

このことから、目に見えない思考が先に存在し、それが目に見える形として現実を作るということが言えそうです。
ちなみに肉体は自然界のもので、「痩せなきゃ・太りたくない」という理性(前頭葉)は本来自然界にはないものですから、脳の理性に従うより身体の声に従ったほうが最適化されます。まあいろんな減量方法があるので何が正解かは各個人の経験に基づきますが。

みなさんご存知のように、「過去と他人は変わらない、変えられるのは自分と未来」という言葉がありますね。そして、相手を変えたいならまず自分の行いを変えようとよく言われますね。
ですが、ただ単に自分の行動を変えただけでは相手は変わりません。(そもそも相手を変えること自体が非常に難しいことはさておき。)

なぜなら行動を無理やり変えても、相手に対する意図が変わっていないと同じ結果になるからです。

子供を過剰に心配してガミガミ言ってしまうとしましょう。そして、子供が反発する原因は自分のガミガミの行いであったと反省した。そして自分の行動を変えようと、「子供に何も言わない」ことにしました。

結果は同じです。子供は変わりません。それは、意図を変えなかったからです。
意図は伝わります。意図はエネルギー、波動ではないかと思ってます。いくらガミガミ言わないと決意したとて、態度や言動の節々から過剰に心配しているメッセージが子供に伝わります。それに気づかない親。マインドフルネス瞑想をした方がいいでしょう。自分の言動の魂胆に気づくようになります。あっ!って。

キツイ人でも純粋な愛があれば人気が出る(誰か言ってたな昨日)のと同じように、「心配」という意図・念から生じた行動と、「信用」という意図・念から生じた行動では結果が全く異なってくるのです。

心配は本当に鬱陶しいです。本当にやかましい。コントロールしようとしているのが伝わりますし、自分の選択や考え方に基づいた行動の結果を引き受ける責任能力がないと思われているのかと悲しくなります。特に知りもしないのにテレビで得た知識だけで心配してくる人は自分で経験してから出直して欲しい。世の中で規制されているものを、アホみたいな顔して「規制されているからダメなものはダメなんだ!」と主張するのもこちらからすると大変滑稽で笑えますが、ではなぜ規制されているのか、そもそも本当に悪いものなのか、とあらゆる事象に対して常に疑う姿勢を持つことは、この国の洗脳から解けるために非常に大切なことだと感じます。

どんな意図であれ、それは態度や行動に現れます。意図という目に見えないものを変えない限り、いくら目に見える行動を変えても現実は変化しないのではないかと考えます。

『木を見る西洋人、森を見る東洋人』という本を読むと(読んでない)、アメリカ人と日本人の物を見る視点にも違いがみられます。
人の写真を撮るとき、アメリカ人は一人の顔にクローズアップした写真を撮る。一方、日本人は被写体の周りの環境や背景も含めて撮る。

アメリカ人は、個に対象を合わせる視点=「個、我
日本人は、背景や、背景の対象との関係=「関係性」に注目しています。

最初にお示ししたように、
西洋のデカルトは「我思う故に我あり」と、主体の本質を「」とし、固定的で普遍なものだといいました。
東洋のブッダの後輩であるナーガールジュナは、この世に実体や本質は存在せず「空(=無我)」=全ては相互作用=縁起の法則=関係性といいました。

現代人にもデカルトやナーガールジュナの考え方が引き継がれているとは面白い。

【まとめ】
書きながら分かったことは、東洋=「目に見えないもの」ではなく、そもそも東洋医学の考え方自体が「目に見えないものは目に見えるものに先立つ」ということだけ分かりました。西洋医学に私も救われてきましたが、やっぱり考え方は東洋医学が好きです。物事の本質を知れるのは東洋の方だと思いますし、そのような自然の法則に従って生きたい。

ここまで読んだ方どうもありがとう。

さ、眠剤飲んで寝よ。

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