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ピアソラと桜木町と彼女のフルート。


アストル・ピアソラのタンゴを、僕はギドン・クレーメルのヴァイオリンで初めて知った。

1996年発表の『ピアソラへのオマージュ』、翌年の『エル・タンゴ~ピアソラへのオマージュ2』のCDを手に取ったのは、単なる気まぐれだったと思う。クレーメル以外のミュージシャンは誰ひとり知らないのに、そのジャケットのカッコよさに惹かれて衝動買いしてしまったのだ。

ピアソラ1

ピアソラ2

聞いてみて驚いた。それは濃厚な大人の音楽だった。

バンドネオンとヴァイオリンが愛し合う男女のうねりのように絡み合う。それは歓びのため息というより苦悩のささやきに近い。こんな音楽にのせてステップを刻めば、それはもう身体を密着させるしかないだろうと思った。

そのころ、僕はある男性ファッション雑誌の編集部にいた。スタジオにこもって撮影していたとき、なにも言わずにこのCDを流したことがある。流行に敏感なスタイリストも若いモデルの男の子たちもピアソラのことは誰も知らず、でも口々に「なに、これ」「誰がやってんすか」とみんな口々に色めき立った。ヨー・ヨー・マがCMで「リベルタンゴ」を演奏したのはそれから少し後のことだった。

ピアソラ

出版社を辞めた僕は横浜にある音楽ホールに「貸館担当」として転職した。

500席のホールといくつかの練習室を持つその公共ホールは、音響の良さでつとに知られていた。館長以下7人のスタッフと3人の舞台スタッフで年間50本近い主催公演とほぼ連日の貸館公演を切り盛りするのはなかなか大変だったが、身近に触れることのできる音楽の喜びに僕は毎日震えていた。

このホールは、通常外注することの多いレセプショニスト(公演の受付や会場案内を担当する人)を自前で用意していた。何人かのリーダーのもと、統率のとれたレベルの高い仕事を行っていた。

彼女はそのリーダーのひとり。音大でフルートを専攻したミュージシャンでもあった。

年齢は最年少なのにキャリアは最年長だった彼女は、なぜかレセプショニストの中では浮いていた。他人に対してときに厳しく接するからなのかもしれない。あるいは自身の感情がときに爆発するからなのかもしれない。

でも彼女は周囲に守られていたし、愛されてもいた。

ある日、遅番で残っていると、彼女が退屈そうに言った。

「あたし、桜木町のピアノバーで働いてるんだ」
「へえ、お酒でも作ってるの?」
「それもそうだけど、フルート吹いてるの。いろんな曲やるんだよ。よかったら館長と一緒に来て」

一週間後。館長を誘ったら今日は忙しいというので、僕はひとりで行くことにした。

桜木町の駅から十分ほど歩いたビルの中にそのピアノバーはあった。

ママさんがピアノを弾き、ほかのスタッフがそれぞれの得意な楽器を演奏するというスタイル。僕が行ったときはたしか彼女ともうひとり、トロンボーンの子がいたと思う。

しばらくお客は来なかった。それで彼女は練習とばかり、ママさんといろんな曲を合わせだした。

で、ピアソラの「エスクアロ」をやったのだ。「エスクアロ」とは小型の鮫のこと。ピアソラは鮫釣りを趣味にしていた。荒々しい鮫の動きを激しいリズムで刻んだその曲は、ピアソラの中でもエキサイティングな人気曲だった。

一心不乱にフルートを吹く彼女の横顔を僕は暗い店内でじっと見つめた。それでふと思った。彼女はきっと孤独なんだろうと。

孤独である自分を卑下もせず誇張もせず、ありのままにさらけ出せる強さが彼女にはあった。その強さは集団生活の中ではときに浮くかもしれないが、ピアソラの音楽にはなぜか無性にマッチした。

それからほどなくして僕はそのホールを辞めた。もちろん桜木町にも行っていない。入れたばかりのボトルはおそらく放置されているだろう。

彼女はまだあの場所で、夜な夜なピアソラを吹いているのだろうか。

それを教えてくれる人は、僕のまわりにはもう誰もいない。

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