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誰かのお世話になるということ。


いとこのO兄ちゃんご夫婦にご挨拶に行ってきた。

ちょうど一回り上のO兄ちゃんは僕の東京の身元引受人みたいな人。初めて東京に出てきた大学1年のときは、ほぼ週一の割合で自宅にお邪魔して晩御飯を食べさせてもらったものだ。

おふたりは僕が東京を離れる事情を説明しても、眉ひとつ動かさなかった。
「札幌はいいところだ。冬は寒いけど、家の中は暖かいぞ」と彼は言い、ムフフと笑い飛ばした。彼女のほうは深くうなずくと、すぐに僕の両親の思い出話に花を咲かせた。

このあっけないほどの受け止め方は何なんだろう。

「お前の話なんざあ、さして興味はない」ということなのか。

いや、そうじゃない。少なくとも僕には、親族を代表して「いいよいいよ、好きにしなさい」と言ってくれているような気がした。
 
そもそもこのO兄ちゃん、高校時代は吹奏楽部でクラリネットを吹いていた。

かなりの腕前だったらしく、本人は音大に進むことも考えたが、親の反対にあい、しぶしぶ地元の国立大学へ。高校の同級生だった彼女は東北大学の歯学部に進み、遠距離恋愛を続けていた。ところが今度は彼女の親から「娘と釣り合う大学でなければ交際は認めない」と言われ、一念発起して東北大学の大学院に入学した。

要するに彼女を追って仙台まで行った、強者なのだ。
 
僕は子どもの頃、このO 兄ちゃんに強烈に憧れていた。

前にも書いたけど、小倉の音楽喫茶に連れて行ってくれたのも彼だし、まだ小学生の僕にマーラーの「巨人」の第4楽章の出だしを「クラシックの曲の中で、最も胸が躍る箇所のひとつ」と言って聴かせたり、ブリテンの「戦争レクイエム」の初演版のレコードを「これがいまの私の宝物」と恭しく掲げてみたり。よく鼻歌を歌いながらそこらじゅうを歩き回っていたことも含め、何十年たっても忘れられない思い出だ。
 
池袋の喫茶店を出るとき、O兄ちゃんは盛んに「あなたの母親には本当にお世話になったからね」と言った。

僕の母親は自分の実家を継いだこの甥のことをとてもかわいがっていた。僕の知らない様々な場面で、できる限りのことをしていたのだろう。彼女にもなにかとお菓子を送り、文通をしていたという。そんなことは初めて聞いた。

縁とは不思議だ。知らないところでそれは複雑に絡み合い、見えない形でそっと後押しをしてくれる。

自分が受けたものを、今度は僕が誰かにバトンタッチをしなければならない。

そんな思いを胸に、六月の重い東京の雲の下を歩いて帰ってきた。
 
次のレポートは、札幌のすがすがしい空の下からお届けします。

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