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言葉を失ったラヴェルの最期。


おかげさまで、林田直樹さんのトークイベントは盛況のうちに終了した。

バーンスタインの魅力について、音源や映像を交え、まったく原稿を見ることなく熱く語っていただいた。まったく見事と言うしかない。バーンスタインだけでなく、林田直樹という人そのものの再発見につながったのではないかと思っている。

さて、次はいよいよクリークホールの建設が始まる。8月のお盆明けに発寒神社の神主さんをお呼びして「工事安全祈願」を行い、翌日に着工。完成は12月末の予定だ。内部のデザインはほぼ固まり、これから備品の選定に移る。ホームページの準備も着々と進んでいる。
 
並行して、僕は9月から地元の生涯学習施設で「ご近所先生」という5回講座を行うことになっている。題して「大作曲家、最期の日々」。モーツァルト、シューマン、ショパン、ラヴェル、ヤナーチェクの最後の一年にスポットを当て、彼らの「最後の作品」を聴きながらその芸術の本質に迫ろうというもの。もちろん、そんなことをするのは初めてだから、果たして林田さんのようにうまくやれるのか(やれるわけがない!)、ドキドキしながら準備を進めているところだ。

取り上げる5人のうち、シューマンやヤナーチェクはこのコラムですでに触れた。今回はラヴェルの奇妙な晩年について考えてみたい。



 
1932年10月、57歳のラヴェルはパリで交通事故に遭う。それを契機に、それまでも兆候を見せていた記憶障害や失語症の症状が一気に悪化する。頻繁にスペルミスをし、動作が緩慢になり、一日なにもせずただ庭を見ているだけの日が続く。そして、ついに自分の名前も書けなくなる。

最晩年にオペラ「ジャンヌ・ダルク」を構想していた。しかし「頭の中では完成してるしその音を聴くこともできるのに、いまの僕にはそれを書き留めることができないんだ」と涙ながらに語ったという。

1937年12月17日、ラヴェルは高名な脳神経外科医の開頭手術を受ける。予想された腫瘍や出血は認められず、医者は生理食塩水を注入しただけで切り開いた頭を縫合する。術後、一時的に症状は改善されたように見えたが、すぐに昏睡状態に陥り、手術から11日後にラヴェルはその生涯を閉じた。

タクシー事故に遭って亡くなるまでの5年間にラヴェルが残した作品は「ドゥルシネア姫に思いを寄せるドン・キホーテ」ただ一曲のみ。これは悲劇以外の何物でもない。

病気の進行が交通事故を契機にしていたことはラヴェルの現代性を象徴しているし、まるで医療事故のような亡くなり方は、眼の手術の失敗が原因だったバッハのそれを彷彿とさせる。

シューマンとラヴェルの晩年は、その才能の成熟を示すことができなかった点で、とても似ていると感じる。最後の作品「ドゥルシネア姫に思いを寄せるドン・キホーテ」は、シャリアピン主演の映画のために作られたせいか、とても親しみやすいバス・バリトンのための3曲の連作歌曲だ。そのどこか悲しげな風情が、ラヴェルの悲惨な最期を暗示しているように思えてならない。

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