見出し画像

雨の日に傘も差さずに少しだけ歩いてみる。


もうすぐ本格的な梅雨がやってくる。

基本的には梅雨は嫌いだ。それになんだか毎年梅雨の期間が長くなっているような気がする。関東の梅雨はいつまでもじめじめしていて本当に気が滅入るのだ。

でもときどき、細かい雨が霧のように降り注いで、道端の紫陽花の紫の花びらをそっと包み込むことがある。風も穏やかで、月明かりのようにあたりもうっすらと明るい。

そんな雨は人を少しだけ優しくしてくれる。たぶんそれは「慈雨」のひとつなんだろうと思う。

雨だれ

子どもの頃の思い出。

九州の雨は容赦ない。降るときは徹底して降る。

遠い夏の日。台風が接近してくると早々に雨戸を閉め、家族四人でそそくさと夕ご飯を済ませた。夜になって雨風が強まると狭いひとつ屋根の下に身を寄せた。

やがてお決まりのように停電が始まる。

大きな蠟燭に火をつける。なにもすることがないので、父親が坂本九の歌を小声で歌う。それでもすることがなくなると布団を敷いてはやばやと眠った。

外は暴風雨が吹き荒れ、雨戸がきしみ小さな家が揺れる。でも僕は父親と母親に挟まれながら眠るこの台風の夜が、ほかのなにものにもまして楽しみだった。

子守歌

雨の日はショパンが似合う。

「雨だれ」は《24の前奏曲》の第15番変二長調。1839年にマジョルカ島で作曲されたとき、ショパンの体調は最悪だった。冷たい雨が続き、いやな咳がずっと止まらなかった。やまない雨を眺めつつ、その先にかすかな希望を見出すような音楽を書いたのは、ここから逃げ出したいと願ったからなのだろうか。中間部の叫びはまるでこれまでの人生を回顧する遠い夢のようだ。

「子守歌」変二長調も好きな曲。左手はずっと同じ音型を刻み、右手が夢の世界をなぞるように自由にはばたく。きっと両親に挟まれて眠る子どもの頃の僕はこんな心持ちだったにちがいない。

同じ雨でも武満徹になるともっと幻想的で思索的になる。「雨の樹」はふたつのマリンバとひとつのビブラフォンのための作品。一つひとつの雨の雫がさまざまな光を浴びて無数の輝き(それもかすかな)を放っているようなイメージを感じる。耳を傾けているとどんどん心が無になっていく。それが思いのほか心地いい。

雨の樹

そしてもう一曲。この時期にこっそり一度は聴いているのが荒井由実の「雨の街を」。デビューアルバム「ひこうき雲」に収録されている曲で、思春期のメランコリックな心情をドンピシャに表現している名曲だ。聴いていると、なんだか自分が十代の女の子になったような気分になる。

ひこうき雲

雨の音や水の音はときに人の心に柔らかく寄り添ってくれる。

深夜、自分ではどうしようもない感情に揺れるとき、頭を空っぽにしてそんな音に身を委ねてみるのもいいかもしれない。

やがて少しずつ自分の中でずれていた歯車が整い始めるだろう。

人間も大いなる自然の一部なのだから。

自然界の持つ不思議な治癒力を、いまは静かに信じてみよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?