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【無意識に痩せる】ミスコンと私のカラダ


ミスコンに出るということが、私のこころとカラダにどんな影響をもたらしたのか。そして、ミスコンという文化が、周りの人にどんな影響があるのか。これについて私の見解をお話ししていきます。


この記事は、同じくミスコンについて書いた前回の記事とセットです!前記事では、友達がほぼいなかった私がなぜ、優勝することができたか。どんなマインドでミスコンに挑んだのかをお話ししています。


それでは、本題にレッツゴー♪



1.「私は見た目で戦わない」という主張



前回の記事も少し触れましたが、このミスコンで私は、「可愛さで自分を売らないこと」「人と見た目を比べないこと」を意識していました。

その主張を暗に示すため、文化祭当日のお披露目ステージで私は、幽霊に扮して布をかぶって登場しました。

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メイクも、緑系の化粧下地に白いベビーパウダーをはたき、血色を極限まで消していました。

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言葉にしないまでも、「私は見た目で戦わない」というメッセージをステージに込めたことが、私の小さな “ルッキズムへの反抗” でした。

ルッキズムとは、平たく言うと、外見の良し悪しで人を判断することをさします。もしくは、外見に良し悪しがあると考えていること自体。かもしれません。

それになぜ反抗しようと思ったかというと、「なんとなくよくない気がしたから」です。その直感が合っていたかどうかは、次章以降を読んでぜひ読者の方が判断していただければと思います。



2.でも、気づいたら6キロ痩せていた



人を見た目で判断するルッキズムに反抗していた私のこころとは裏腹に、私のカラダには思いもしなかった反応がありました。ミスコンの1か月前くらいから、自然に体重が落ちたのです。

ミスコン期間中の私の写真がこちら。

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頬の肉が落ちて、こんなに顎が尖ることは私としてはあまりないことです。痩せるとしゃくれるのか?私は(笑)

私は、中学校2年生のときに身長が止まってから体重も増減がほぼありませんでした。どんなに食べても食べなくても、体重がプラスマイナス2キロの範囲から逸れることはなかったのです。

しかし、ミスコンに出場するというプレッシャーからか体重がどんどん減っていきました


私は、痩せていることが美しいと思ったことはありません。どんな人にもその人に合った体重があり、体重の増減で美しさを語ることはできないからです。

・人は見た目で比べていいものではない
・痩せていることが必ずしも美しいとは限らない

こうした信念を持っている私であっても、「ミスコンに出る」「人から外見をジャッジされる」ということから来る、抑えられない自意識によって、体重が減ってしまったのです。




3.“抑えられない自意識” がミスコンが悪である可能性



ミスコンはよく、ルッキズムを助長する悪しき風習だと言われます。日本の大学でも、ICUなどはミスコンを禁止しています。

では、なぜミスコンは悪者扱いされるのでしょうか。

その理由を、私の「自然に体重が減った」という現象とともに見ていきましょう。


私は、ミスコン期間中、自分では意識していないのにも関わらず、「人から外見をジャッジされる」という無意識のプレッシャーを感じ、自分のカラダを変えていってしまいました。数年間変わらなかった適正体重の範囲を超えてしまうほど、痩せてしまいました。


実際に、他人が私をそれほど見ていたかどうかはわかりません。
私の体重の変化に気づくひとは誰一人いませんでした。


それでも私は、「人から見られている」という抑えられない自意識によって、自分の健康的な体を否定し、自分ではない誰かが求める “もっと美しいカラダ” になろうとしてしまったのです。


私が悪いのでしょうか?


誰かが悪いのでしょうか?


きっと、誰も悪くありません。悪いとすれば、「もっと美しくなくてはいけない」という圧力が悪いのです。

美しさへの圧力は、ミスコンの周りだけではなく日常生活に溢れています。

日常会話、テレビ番組、映画、音楽、本、雑誌、化粧品や脱毛の宣伝・広告、SNS、顔写真付きの履歴書、学校や会社の身だしなみに関するルール、、、。

こうしたものが多くの人にとってストレスになっていることがわかっている中、いまだに人の外見に対して、固定化した美しさを押し付けるミスコンは悪だとされるのは当たり前なのかもしれません。



4.人の外見に触れることすべてがタブーなのか



こうしたルッキズムの話をしていると、「じゃあ、もう一生私たちは人の外見について話すことができないの?」「外見の良し悪しを気にしてしまうことは事実じゃん」という心の声がどこかから聞こえてきます。

私個人としては、人をけなすことは嫌いですが、褒めることは大好きなので外見について一切触れないことがよいとは思いません。

「そのTシャツかわいいね」「メイク変えた?アイライン可愛いね」「髪型素敵だね」「今日もかっこいいね〜」と言葉をかけ、その人の一日がちょっとハッピーになる世界が素敵だと思うからです。


\\ じゃあ、もうどうすればいいんだ!!!!//


ミスコンに出た直後、ルッキズムと自分との関わり方がわからなくなりました。あの時、出場してしまったミスコンはやはり完全な悪であったのか。


1年くらい考え続けた私は一つの答えを見つけました。


それが「そのひとが土俵に上がっているかどうかで判断しよう」です。


土俵とは、場所なり、行事なり、業界なり、その人が外見を判断される覚悟をもって入る何かのことをさしています。


ミスコンは、かなり土俵であると思います。それは、出場する人が自分の外見をランク付けされる覚悟でそこに上がるから。


反対に、日常生活は土俵ではありません。朝起きた瞬間のベッドは、もちろん土俵度0%。飲食店のバイトは、最低限の清潔感が求められるから20%?とかね。


芸能界はどうでしょうか。「芸能人になるからには、外見で判断されるのは当たり前だ」という人がいます。

しかし、モデル・女優の水原希子さんは、「美しい顔ランキング」なるものにランクインしたことに対して「とても失礼だね」と発言しています。

水原希子さんは、土俵に上がったつもりがなかったのにも関わらず、「美しい顔ランキング」という土俵に勝手に入らされたのです。

そう考えると、芸能界を土俵と考えるのは、単純すぎるのかもしれませんね。


土俵に上がっているかどうか。いつもこれが明確にわかるわけではありません。また、土俵に上がっていれば攻撃していいわけでも全くありません。


しかし、その人が土俵に上がっているのかどうかそれがどのくらいの度合いなのかを考えることは、ルッキズムという見えない圧力と闘い続けるための現実的な答えなのではないかと思うのです。


私たちは、「人から見られている」という抑えられない自意識をもっています。それが人間です。

そんな自意識過剰な私たち人間なのだから、お互いにお互いが、自分らしくいられるように気を配れるとよいのではないでしょうか。

そして、あなたがそんな気分じゃないときに、勝手に誰かに外見を判断されたときには、心の中で「え?わい土俵入りしてないんだが、、、?」とでも思っておきましょう。



次回予告



次回は、私のおうちと、ホームパーティー・ライフについて書いてみたいと思います。

というのも、このnoteが実は「大学受験失敗しても、大学生活を桜花するには」というテーマで、「私が充実した大学生活を送るためにやったこと」を書くものだったみたいです。なので、イベントばかりではなく、日常的なことも書いたほうがいいかなと思いまして。

ちなみに、このnoteでは、私の大学生活を時系列順にしてお話を進めています。

2018年04月 入学
       11月 ミスコン優勝   ◀今ココ!
2019年09月 映画祭           
2020年02月 フランス留学
2021年01月 映画館で作品公開&舞台挨拶
           02月 論文大会で入賞 
      :

こんなかんじー。で、イベントの合間合間に、大学生ライフ的なコンテンツを入れていくよー♪


このnoteは、

◎大学生活を楽しみたいあなた
◎チームで活動することが大変なあなた
◎自主映画制作してみたいあなた
◎コロナ明けに留学してみたいあなた

にピッタリです。

(ただ、私のファンとして読んでくれてもいいんですよ~)

っじゃ。

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