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炎上~呟きに収まらない独り言~

 noteデビューすることになった岡村隆史のオールナイトニッポンの炎上からそろそろ一年が見えてきた。気が早すぎるだろうか? つまりは一年近くnoteを放置していたうえに使うのは二回目ということになる。
 

 さて、何で私がまたこういった形で文章を書こうと思ったのか。理由はおぎやはぎ小木さんが燃えているのがチラッとTwitterで見えたから。だけど前回みたいに事細かく事態を追っかけて書き起こして、自分なりに説明する気にはなれなかった。何故なら前回のように説明しようにも、今からClubhouseのやりとりを聞くのは無理そうだし、問題視されているラジオの放送内容の一つがそもそも現在視聴することがほぼ不可能だから。その小木さんの発言が掘り起こされたのは2019年の放送回。ざっくり二年くらい前。まだオリンピックが2020年に開催されると思っていたし、コロナなんて想像もしていなかった頃。radikoのタイムフリーの期限なんてとっくに切れている
 
 あの回に関しての問題は、これを本人が嫌と思うかどうかだと思う。
 仮にこれを聞いて「嫌だ! こんな話しないで!」と言ったとしよう。だとすれば、その後そういう話を小木さんがしない、それで終わり。
 もし本人が嫌がるような内容だった場合、また掘り起こされて拡散させられるなんて。本人たちの間で触れないことにしたことに注目を集められて家の外から言われるのは良い気持ちがしないのではないだろうか。
 もちろん、「おしゃれイズム」でくりぃむしちゅー上田さんが娘さんとのお風呂の話をした時のように、本人に了承を得ているどころか、お父さんは気を遣ってカットを頼んだのに、その話を聞いた娘さんがウケるんだから使えと言う場合もあるわけで。
 家庭環境を心配するのはともかく、深夜ラジオという空間すら踏み越えて他人の家に土足で上がり込んで荒らすような真似の方にこそ配慮がないんじゃないかと思うのだ。

 ちょうどこれを書いている今、オリンピック・パラリンピック組織委員会の森元会長の後任が橋本さんになる流れになっている。橋本さんの過去のセクハラ疑惑のキス写真アップしている人にも同じことを思う。
 誰かがセクハラを受けている証拠として、その瞬間のはっきり写っている写真を拡散させる行為は、彼らが加害者だと言っている人を追い詰めること以上に、被害者だと思っている人を更に追い詰めることにならないだろうか? 
 
 加害者の罪を責めたいが為に守るべき被害者を忘れているように見えるその姿勢に、この人たちは本当は被害者のことなんてどうでもよくて、ただ怒りに任せて誰かを叩きたいだけか、もしくは嫌いな人の悪口を正義という形で言えることで盛り上がっているだけなんじゃないか、と炎上が起きる度にどこか冷めた目で見てしまう私がいる。センシティブな内容の割に扱われ方が雑だ。
 

 これは岡村さんの件の時にも感じたことに似ている。あの時、岡村さんの発言を責める言葉の中に、風俗で働いている人たちの存在を忘れているかのような、配慮に欠けていると感じるものが多くあった。
 もちろん、私が前回書いた記事の言葉も、完璧に配慮が出来ていたかと思えばそうではないだろうから強くは言えない。それに、私が彼らの配慮の無さを指摘できるのも、彼ら自身がまず一つの配慮を求める声を上げたという行動があってのことなのだろう。
 

 あと正直に言うと疲れるんだな。仕事でもないのに何回もラジオを聴き直し、ネット記事を読み直し、交互にやって自分なりの言葉で説明するのは時間もかかるし、疲れる。きっと炎上目的や対立煽りで他人の発言をあげつらうのよりずっと。

 じゃあ何を書くのか? なんで再びnoteを広げる気になったのか? それは誰かが炎上して袋叩きにされる度に、浮かんでは沈ませていた言葉がそろそろパンクしそうだからだ。私にはもう具体的な言葉にしていなかった思考を自分の中で抱え続けられる余裕がない。もはや何が正しいことなのかわからない。自分を慰める為の言葉も、浮かんだ疑問も、悲しい感情もTwitterでは間に合わないのでここに吐き出してしまおう。
 

 だからこれは、誰の為でもない私の為に書くnoteだ。
 

 ちなみにお察しの通り、タイトルは最近購読したくりぃむしちゅー上田晋也氏の著書「経験 この10年くらいのこと」の影響を受けている。


※注意 この広いnote界のパラパラ漫画領域に辿り着いてしまった読者様へ

①この記事にはいろんな人の過去の発言が出てきますが、この記事で初めて発言を知った人は本人様を叩かないようにお願いします。各自、番組や著書を合法的に確認してください。

②この記事では見識の狭い若輩者が適当な推測で仮説を並べています。某水曜番組(「どうでしょう」ではない方)の、検証VTRが流れる前の説と同じく、全く立証されていませんのでご了承ください。

③前述した通り、これは私による私の為の独り言です。どの分野においてもど素人の若造が知ったようなことを書き連ねていますが、
 ・イタイ人間の言動が見ていられないほど受け付けない方
 ・もしくは、そういった自分の黒歴史に心当たりがある方
 は不快になる恐れがありますのでここでブラウザバックすることを推奨します。

両者の溝、深まるばかり

 さて、吐き出すとは書いたものの、ここに書く以上はある程度順序よくいかなければなるまい。どこから書いたものか。
 
 岡村さんの場合も小木さんの場合も、炎上が起こる度に対立しているのは冗談を言う場を好む人たちと、現実にある問題の解決策を議論する場にいる人たちのように見える。そして双方その場所から動かずに言葉を投げかけているのだとすれば、噛み合うわけがない。《ふざけてクソみたいな発言することだって仕事の一つである人たち》を楽しんでいる人と、《どれだけ些細に見える問題でもクソ真面目に考えるのが仕事である人たち》を支援している人。同じ話をしていたところで見ようとしている方向が、話題に入る角度が違うんだからアンジャッシュするに決まってる。
 
 そもそも互いが支持している人たちに対する信用度が違う。自分が信用している人のことなんて誰しも、良い人である、とまではいかずとも発言にある程度の理解を示せる。もしくは理解しようと歩み寄ろうとする。
 そして反対に、その主義主張や思想と対立する存在を信じようとはしない。というか大概の場合、信用するに足るほど相手のことを知らないんじゃないかと思ういや、知っているからこそ毛嫌いしている人もいるだろうけれど。
 

 しかもおふざけと真面目では、互いに対して不信感を抱いて当然レベルで相性が悪いように見える。多分、信仰が違う
 問題に対して真面目に考え、追及していくこと。それはきっと正しいし、逆に言えばそれに対してふざけることこそ間違っているように見える。
 だけど、世の中には敢えてクソくだらないことを実践するなり発言するなりして、それを笑い飛ばさせることによって誰かを鼓舞できる人がいる。それが芸人なんじゃないだろうか。
 物事をシリアスに考え、真摯に受け止める人の存在が救いになる場合もあれば、
 現実や人間をくだらない、滑稽だと笑い飛ばすことが救いになる場合もある
という、違いに過ぎないんじゃないだろうか。
 

 そして何より、発言者の言葉に対する慣れに明確な差がある。その人がどういった意図でその言葉を発したのか掴み取るためには、まずその人の言葉の使い方に慣れなければいけないと思う。深夜ラジオにも、フェミニストのコミュニティにも、それぞれで共有してきた時間がある。時間と考えを共有してきた人たちが使っている言葉には、他とは少し違う癖がつくように思う。英語を単語ごとに訳しても、文法や婉曲的な表現がわからなければ文章の意味がいまいちわからないのと同じように。私は今でもマジ卍の意味を掴み切れているのか自信がない。
 
 今回の場合は「お笑い」という一種の専門分野に特化した人たちと、「フェミニズム」という専門分野に特化した人たちの衝突だ。だから言葉の使い方の癖に違いがあって、伝わるニュアンスにズレがあってもおかしくない。しかもこの二つの分野の関係性は以前noteで触れた岡村隆史のオールナイトニッポンの件があるから良くはないように思う。
 本来であれば揉め事すら笑い話として消化するのが、お笑い好きとして正しい在り方なのかもしれないけれど、一つの番組を消しかねない力を持った相手であれば、過剰に反応するのも無理はないように思う。

フェミニズムとお笑いの違い

 では最初に、もしかするといるかもしれないここを覗きにこられたフェミニストの方に言っておこう。私の性別は女で間違いないけれど、フェミニズムに関する知識はほぼ無い。
 まず出せる名前が平塚らいてうと与謝野晶子で止まっている。しかもその二人に関しても、歴史の教科書に出てきたな程度の記憶で止まっている。女性参政権の話で止まっているので、私は女性だけども女性の権利や社会的立場、その歴史について無自覚、不勉強だ。かつてその人たちが頑張ったから、そして今も頑張っている人がいるからこそ、私含む女性が生きやすくなっていくのであろうと思っている。なのでここでまず先に、感謝を述べておきたい。ありがとうございます。誰かが言わなきゃ伝わらないことを世の中に伝えていただいて。表現の自由と同様に、女性の自由も誰かが戦った末に得た物なのだろう。
 
 とはいえ冒頭に書いてある文章から、何より前回のオールナイトニッポンの記事から私がお笑い好きであることは明確なので、フェミニストが目にすれば敵視される対象なんだろうなと薄々感じてはいる。だけど私はフェミニストに限らず、誰かが不慣れな笑いを見た時に不快感を覚える感覚を否定したいわけではない。慣れもあるだろうし、そもそもその感覚がわからないわけでもないし。とはいえ、あれらを見聞きして笑える感性を完全否定してほしくないなぁ、という狭間にいる。
 
 念のため書いておくと、私はお笑いが好きではあるけれど、ヲタクと言えるほど熱中しているわけではない。お笑いに関しても、ジャニーズも、アニメや漫画も、ゲームも、全てのジャンルで中途半端に好きなものがあるだけだ。
 
 社会で真っ当な人として頑張っていると時に、常識を置き去りにして馬鹿になりたい時がやってくる。深夜ラジオで本音や裏側をぶっちゃけている人の話を聞いて馬鹿笑いしたい夜があって、笑った結果、問題は解決していないけれど気が楽になることもある。
 
 確かにお笑いの世界は、時として性別やルックスを始めとしてコンプレックスを持つ人に優しくない笑いが提供されていることがある。けれど芸人はは自分たちの性を自虐的に表現することもあれば、自分たちの見た目を自嘲することで笑いに持っていくこともあるのでアンフェアかといわれるとそうでもない気がする。他人だろうが自分のであろうがコンプレックスすら武器にして笑いを取るのがお笑い芸人だと勝手に思っている。
 ちょっと前に燃えた岡村さんだって、長いこと身長が低くて、ハゲで、独身のオッサンというイジリを受けて、時に心を削って笑いをとってきたわけで。余計な事を言われてきただろうし、殺害予告だってされたことがあるし。
 
 いや、そもそも性別や、見た目の優劣を基準にして笑いがとれるという思考や、取ろうという判断がおかしいし、考え方が古い。と言われたとしよう。でもそんな綺麗ごとを言ったところで、人間っていうのはやはりどこか、何かを判断基準にして社会や人間を見て生きている。例え性別や見た目じゃなかったとしても、何かを基準にして、相手から個性を見つけ出し、区別する。特定の一人を覚える時に、名前と、その人の個性を結びつけて覚えるように。
 
 誰しもが経験や、物事を見る角度から偏った基準を抱えていると思う。例え、差別という行動をしなくても、いや、してはいけないと思えば思うほどに自分の中の偏見や、何かを敵視してしまう意識や、特定のものに対する悪意や嫌悪感を自覚してしまうのではないだろうか。例え正義を基準にしたところで、悪を敵視することが決まってしまうのと同じように。
 もし、物事全てをあらゆる角度から捉え、全ての存在を心の底から肯定して生きていくことが強要されるのであれば、私は自分という人間の醜さを嫌と言うほど理解し、生きていくことを諦めるだろう。
 
 なんとなく、フェミニストの「人間、そして社会はこうあるべき」という考え方は建前の話で、芸人の冗談は「だけど、どう頑張っても人間ってこういう愚かなところがあるよね」っていう本音がベースになっている気がする。本音は当然、聞いた人が良い気分になるものとは限らないので、建前に比べれば批判が集まりやすいし、取り扱いにも気をつけなければいけないのだろう。
 

 失礼な暴言も関係性があるから言えることがある。仮に相手を「ブス」と罵ったとしても、見た目が悪い人全員を馬鹿にしているのではなく、特定個人を罵りたいという目的があって言っていることがある。
 また言葉というものは辞典に載っている意味とは別に特定の間柄やコミュニティで意味や捉えかたが変わるものだ。
 例えば時として、「ポジティブ」はNON STYLE井上さん、「天狗」はピース綾部さん、「破天荒」は平成ノブシコブシ吉村さんを示す代名詞になる。「おしゃべりクソ野郎」と言えば品川庄司品川さんのことだし、「メガネ大根」は演技をしている時の上田さんのことを言うし、「大嶋さん」は児嶋さんだし。必要以上に好きなもので例えをブッコみまくるのは私の悪い癖です。
 
 ボケた側が罵りツッコミ待ちをしている場合もあるの。その場合、相手の事を気遣って「ブス」「バカ」などと言わない選択をとると、ボケが空中浮遊して、その人は「ブス」や「バカ」であること以上に芸人として恥ずかしいことになる可能性もあるわけで。自分のコンプレックスに触れてほしくない人もいれば、いっそ、そういう仕事をして笑って欲しい人もいるわけで。

 芸人の笑わせようと思っての発言が炎上して、ファンの方がその発言の意図と面白さを説明した結果、
「その手の冗談を言う人間相手に無理して笑わなきゃいけない身にもなってくれ」
 という内容の言葉が返ってくることがあるけれど、それは芸人の真似をしてあなたを傷つけている本人に直接苦言を呈してくれよ、と思わないこともない。芸人は番組の流れがあって、相手との関係があって、番組視聴者の為の仕事で言っているわけだし、そもそも芸人の冗談と素人の真似を同列に並べるって失礼じゃね?
 「しゃべくり007」でバカリズム升野さんが芸人を真似た絡みや返しをしてくる素人に対して怖いほど低いトーンで説教をした後に「偉そうに上辺だけで芸人用語を使うな!」と怒っていたことを思い出す。自分が芸人レベルで面白いと勘違いしている人、もしくはお笑いの何たるかがわかったような気になっている人の存在には芸人側もうんざりしているんじゃなかろうか。古坂大魔王さんに学祭で「つまらない」と言ってしまった人の話とか、モンスターエンジン西森さんの「河内センスえぐれ」の話とか。・・・・・・あの手の話は調子乗ってTwitterやってる時の私にも刺さるんだよな。

 他に言えることがあるとすれば、お笑いが好きな人は笑いにも慣れている反面、スベッた場面にも人より慣れていると思う。スベり芸なんて言葉があるのだから。一周回ればますだおかだ岡田さんの「ワオ!」で笑えるようになる。いや、干支ギャグ含めてあれはもう縁起物に近いような。
 
 話のオチが弱かった、もしくは見つけられなかった時のあの空気が不安定になる感覚に慣れている。もしくはその場の流れで出した受け狙いの発言が慌てる余り言葉を選び損ねたり、使い方を間違ったりした時にミスとして受け入れることや、スルーできるところがあるように思う。感覚的にはフィギュアスケートの選手が回転ジャンプをミスするようなものと似ているかもしれない。だってどれだけ面白い芸人であっても、それを言うまでウケるかどうかなんて本当にわかんないものだから。だけど後からその時言った言葉だけを見た人が怒る。

 また体調や自分が置かれた状況によって笑えるものは変わる。なので確かに笑えるものとして提供はされているのだけれども、全部が笑えないからと言って消そうとしないでよと思う。私が芸人という存在を肯定したいから、だいぶそっち側に寄った考えであることはわかっているけれど。

フェミニズムという一つの思想

 フェミニズムの観点から見た時に配慮がなされていないネタや冗談がこの世にはきっと多いことだろう。けれどフェミニズムという一つの基準によって番組や芸人が完全否定されることにはどうしても疑問が残る。フェミニストたちはフェミニズムという思想を基準にした時に、一般社会より先に行っているのだ。誰よりもフェミニズムという専門分野でセンサーが敏感なのだ。
 
 ファッション業界に置き換えよう。流行に敏感でお洒落すぎる人は、そうではない人から見るともはやよくわからない服装であることが多い。パリコレとか、高級ブランドが出すデザインが奇抜すぎるアイテムとか、ちょっと私生活に取り入れ辛いものがある。
 その一方で、私服をいじられるあまりグループメンバーから誕生日プレゼントとして迷彩柄のものばかりもらう国民的アイドルもいれば、ミリタリー系のジャケットと迷彩の帽子を買ってその格好で家に帰るや否や、未来の奥さんに敬礼されるメディア王だっている。彼らはファッションセンスがあるかわからない人たちからも、究極的にダサい人として笑われる。
 
 とにかく、先頭集団に追いつくのはどこの世界でも難しい。センス、感覚の問題となれば特に。社会全体がもっとこうなってほしい、というのはわかるのだけれどフェミニストは現状、社会全体よりずっと先にいるので、というか先導している立場なので、追いつけない人たちに怒号を飛ばしても、後ろにいる方からすれば「一緒に走ろうね」と言っておきながらどんどん先に行ってしまうマラソン大会の時の友達だ。いやそんなやつはその時に限って言えば友達なんかじゃない。・・・・・・嫌なことを思い出した。時を戻そう。
「なんでこの程度のことにも気づかないの?」
「そんな笑いは女性を不愉快にさせるだけだ」
 フェミニズムの先頭集団から見ればそんなことを言いたくなるくらい、世の中の進みの遅さにイライラするのかもしれない。だけどこの世の中にはフェミニズム以外にもいろんな思想がある。
 
 会社で受けたビジネスマナー講座の講師が家にまでついてきて私生活のことまで指摘してきたとしよう。確かに正しいことを言っている。けれどその人たちは何年もマナーについて考えてきたからマナーという観点からの正しさが身についているのであって、自堕落な生活をしていた私には私生活から全部を一気に正しくするのはものすごいストレスで脱毛症になりかねないくらいの負担なのだ。一気に大量に、しかも強引に摂取させられれば正しさだって致死量に達すると思う。
 
 職場のパワハラやブラック企業の言うことだって表面だけ見りゃ正しいと思えるような言葉を使うから、受けた側が「自分が間違っているかもしれない」と思って追い込まれることもあるわけで。
 フェミニストだって私生活のお金の使い方を全部経済学者に指摘されたら嫌になるだろうし、カラオケに行って音楽の先生に合唱コンクールで優勝を目指すレベルの指導を受け続けながら歌ったら楽しくないと思う。
 
 何が言いたいかというと、フェミニズムの歴史や知識、思考の癖がついている人の考えに追いつけない人がいるのは当然で、そしてそれはその人が無知で軽薄であるということではなく、他の何かに精通している人である可能性もあるということ。だから、突然番組に割って入って発言だけ拾い上げて怒り散らすのはやめてほしい。現実の世界で言うならば、飲食店に入って店員の対応に問題があったからと言って暴れ回られては、やはり周囲の他のお客様の迷惑になるし、土下座を求めて動画を録るところまでやれば某コンビニ事件のようになる。


 どこの分野でも過激な方が目立ってしまうのだろうけれど、誰かを批判しまくっているフェミニストの発言を見ていると、ネトゲの準廃理論を思い出す。中途半端に上達している人ほど新規の実況プレイに指示しまくって放送している動画のコメ欄が荒れるし、エンジョイ勢には厳しいからチャットが殺伐とする。ところがガチ廃人とまでなるともはや下しかいないから他人に興味がないし、自分がどこまで突き詰められるかの戦いになってくるので、攻撃性が低い、と言われている。いや、これはフェミニストに限らず笑い好きにも、そして他の分野の人にも言えることなのだろう。というか自分に言えることなんですけどね。

 ネットにはいろんな思想や学問を専門にしている人がいる。そして各々の発言に感化され最近その道に目覚めた人ほど無関心な周囲を馬鹿にしやすいのかもしれない。何かの良さに気づいたなら、それに気づかない人を馬鹿だと思うかもしれない。

 私だって、コンサートを見たこともないような人がアイドルを馬鹿にしているのを見るとイラっとする。だけどその一方で過激なファンの行動を見ていると、どれだけ本人たちのことを想っての行動でも、本人たち以外に全く配慮がない行動は邪魔にしかならないよな、と感じることも多い。他人に理解を求める声をあげるなら、理解が遅い人や受け入れられない人を責め立てない配慮をするべきなのかもしれない。
 
 ネットのアカウント同士が繋がってできたコミュニティによる同調圧力もあると思う。これを悪とみなせないのなら仲間ではない、みたいな。それは笑いに置き換えれば、この笑いを理解できなければセンスがないとみなされる、時にシュールな笑いに感じる圧力にも似ているかもしれない。

お笑いを見慣れている人

 今まで散々フェミニスト側のことを考えて言葉を連ねてきたけれど、考えてみればまんまお笑い側にも言えることが多々ある気がする。
 芸人の数が増え、進出する場が増えたことによってお笑い的考えが世に浸透して受け入れられていると思い込みがちかもしれない。意外と世の中、笑いに疎い人がいるというのに。

 吉本興業が闇営業問題で揺れていた時。家族の中では一番ジャニーズとお笑いが好きな私に、母親が質問してきた。

「ダウンタウンって吉本なの?」

 
 嘘じゃない。マジである。誇張無し。この記事の為にこさえた作り話なんかではない。寧ろ嘘だろと言ったのは私の方だ。
 私の母親はあの、ダウンタウンの所属事務所を知らなかったのだ。いや、ダウンタウンは知っていたし、吉本興業も知ってはいただろうけど、ダウンタウンが吉本に所属していることは知らなかったのだ。マジかよ。
 
 もしかするとお笑いが好きじゃない人には伝わらないかもしれないし、もしかすると私の個人的な感覚かもしれないけれど、お笑い界における吉本興業、そしてダウンタウンの影響力は計り知れず、お笑いが好きなら知らない人はほぼいないじゃないだろうかと思われる。
 「VS嵐」によゐこが出演した際に聞いた、有野さんが橋本環奈さんのマネージャーに吉本興業所属だと思われていた話とか、なすなかにしが街で声を掛けられて別れ際に「これからも吉本をよろしくな」と言われた話とかを始めとする松竹芸能あるあるとはちょっと違ってくるだろうし、お笑いに疎い人は関西弁を喋っている芸人さんを見れば大概吉本だと判断しがちだろうけれど、逆に言えばそんな人でも吉本は知っているわけで。
 でもこの母親の質問を受けて思った。テレビを見ているは普通、出ているタレントの事務所なんて知らないし気にしないのだと。 

 私は見慣れているから、本来は酷い言葉であってもある程度は受け入れられるけれど、どれほどテレビやネットが普及したとはいえ、お笑いも一つの専門分野、趣味趣向の中の一つのジャンルであることを忘れていたのかもしれない。テレビをなんとなくで見ているだけの層だっている。そこまで好きなタレントがいないので、そもそもテレビは好き嫌いではなくあまり見ない人もいる。なので理解できずに怒る人がいてもしかたないし、無理に理解を求めてもいけないのだろう。お笑い好きの思考も一般社会から見ればちょっと逸脱しているのだ、きっと。普通の会話で聞いたら結構強烈なワードを使っていることもあることもあるし。
 
 あと本音に触れるということはそれだけ心に切り込むわけで、笑いへの貪欲さ故に思考が尖り過ぎて人の心を抉る危険性もある。激辛料理への耐性が人それぞれであるように、笑いに対する許容範囲も人それぞれだ。
 
 テレビを始めとする芸能界において、もはやお笑い芸人という肩書の人が多数派に見えるので芸人の考えがテレビを見る、作るうえでベースになってきているところもあるのかもしれない。ちゃんとしたデータが無いのでわからないけれど、番組一つ見ても芸人が多い番組が多く、他の分野の人から見れば多数派であり、裏での実際の扱われ方はともかくとして、強者に映るのかもしれない。

 メディアにつまらない人が出ていてもいいはずなのに、面白い人至上主義みたいなものが幅を利かせすぎているところはある気がする。くりぃむしちゅー上田さんがえなりかずきさんに「普通のことを言う勇気をもとう」という言葉を演者として与えたのなら、お笑いに慣れた視聴者側も「普通のことをプロぶってつまらないと批判しないこと」を求められるのかもしれない。いや、考え過ぎだろうか。

 とにかく、笑いを求める熱量に差がある人たちの間に、ある程度の反発、隔たりや違いがあっても致し方ないのは確かだと思うわけで。

衝突する真逆の思想

 ここまで、本来であれば真逆に思える二つの思想について考えてきた。遠いはずの二つが衝突する場所 おふざけと真面目。
 本来遠くにいるはずの両者がどうして「もののけ姫」の森とタタラ場みたいに衝突しているのか。
 
 SNSによっていろんなものを好む人たち、いろんな目的で情報を発信する人たちが混在し共有する場ができたこと。そしてどこかで問題が起きる度に情報の拡散が行われること。
 繋がりを求めて始まったはずの場所だからこそ、相対する人たちとの距離も近くなる。更にお笑い界隈で言えば、ワイドショーに芸人が出演していることもあるかもしれない。

 ワイドショーというのは実際にあった事件や話題になっているニュースを取り扱う番組、のはず。つまりは現実の問題を話す場でもある。そこに本来ふざけるのが仕事であるはずの芸人が選ばれている。根底には笑いをとらなければいけない、というところがあるだろうからややこしい。だってそれが生業なんだから。

 ここまでクソ真面目に書いたけど、一旦小木さんの炎上に立ち返ってぶっちゃけよう。小木さんの「ピラニア」発言に関してはある程度までのバッシングは自業自得だと思う。でも当時知りもしなかった過去の発言の一部(他人が書いた書き起こしや、発言が抜粋されたネット記事)を掘り起こして批判を発展させた上に、人間として否定することを集団的にやることに疑問を抱かずにはいられない。
 
 そもそも問題の発言があった「バイキング」って度々過激な発言が話題になっている坂上忍さんを、番組開始時は月曜限りの曜日MCだったのに総合MCにして炎上ウエルカム状態に思える。何回も燃えているのに続いている。逆に言うと燃えるから続いているんだよね? ていうか燃やす人も結局見ちゃってるわけだよね? え? 見ていない? ネット記事だけ? でも話題を呼んでいることに変わりはない。感動の涙や笑いを提供する番組があるのなら、怒りという感情を提供する番組も成り立つのかもしれない。問題提起の場として存在している面もあるだろうし。だから番組の趣旨に沿って小木さんは燃えに行ったのかもしれないし、もしかしたら番組辞めたくて言った、なんて邪推までできる。


 確かに感想は受け手の自由なんだけど、こういう炎上が起こる度にテレビの見方が変わってきたんじゃないだろうか、と感じる。以前「逃走中」でドランクドラゴン鈴木さんのTwitterが燃やされた時にラジオで有吉さんが、バラエティ番組でもスポーツ番組のように真剣に見る人が増えた、というようなことを言っていたのを思い出す。私は鈴木さんのような行動をとる人がいるからこそあの番組が盛り上がるのになと思う。

 ちなみにその「逃走中」で鈴木さんとは対照的な行動をとっていたように思えるよゐこ濱口さんは現在鈴木さんと一緒に番組をやっているし、ラジオ番組でも共演しているので「逃走中」だけを見ていたら意外な組み合わせに見えるかもしれない。

テレビという半分フィクションと、タレントという擬似人格

 番組は作り物だ。見せたいものがあって、見てもらいたい客層だって想定されているのだろう。出演者には役割というものがあって、目的に合ったキャスティングがあって、出演者は作り手の意図を汲むか無視をして動いて、編集があって。私たちの目に届く前にいろんなことがあるだと思う。それが仮に生放送だったとしても、事前に話し合いがあったり、本番中に使う台本が用意されていたり、準備がされているわけで。

 どれだけリアルを見せようとしても、そもそも見られることが前提のやりとりが自然なわけがなく、ドッキリであったとしてもやっぱり編集が入っている。演者が仕掛けに気づいている可能性も、もしかするとやらせの可能性すらある。
 
 とにかく、そこで話される言葉は、笑わせるなり、楽しませるなり、感動させるなり、怒りを煽るなり、視聴者に何かを提供するためにある。だから視聴者が自分が求めているものに合致する趣旨の番組を探すべきで、「嫌なら見るな」は、本来見てもらう人が言うことではないのだけれど合ってはいるんだと思う。
 
 だとすればそれはタレントにも同じことが言えるんじゃないだろうか。仕事の為に自分と離れたキャラクターを作り上げている。キャラクターとまではいかないにしろスイッチを入れる。メディアに出ているから、普段言わないようなことを言うということだってある。

 また話が戻るけど、小木さんがラジオで娘や奥さんのことをボロカスに言おうが、それは芸人おぎやはぎ小木という、おかしい人という前提があるキャラクターを楽しんでいる人(つまり小木さんが言っていることは最低で間違っているという理解があった上でそんなヤバさを笑っている人たち)へのリップサービスであるとして、家では家族を溺愛していたって何らおかしくない。この件に関しては奥様である奈歩さんがツイートしている。


 小木博明は、芸人という仕事でおぎやはぎ小木をしている。と書くとややこしい。「YAZAWAがなんて言うかな?」みたいなことだと思ってほしい。ツッコミ役の人だって日常的に何でもかんでも、誰彼構わずツッコんでるわけじゃないだろうし。
 
 個人的に小木さんに関しては小木夫妻と児嶋夫妻で食事をしていたところを週刊誌の記者に撮られて合コンだと勘違いされた、というエピソードを持っている人で、その話をラジオでした際に、嫁をいつも口説いている、結婚とはそういうものでしょ、的なことを言ってさらっと惚気ていたので家族に対する愛情がある人だと私は思っている。でも、これもメディアでの発言だから外野に説得力が無いだろう。私もそこまでおぎやはぎについて知っているわけじゃないし、私がそう思いたいだけって言われたら、まあうん否定は出来んよ。

場所によって変わる人物像

 芸人だってアイドルだって、生きていく為に少なからずキャラクターを作るか、もしくは見られ続けた結果周囲にキャラクターを作り上げられる。そしてTPOを踏まえて多少そのキャラクターってやつは求められる形に変化する。いや、変化させなければいけない。だって番組の趣旨を理解して振られた役割をこなすのが仕事だろうから。
 
 例えば櫻井キャスターが「NEWS ZERO」直後の番組で嵐のメンバーとして乳首穴あきTシャツを着ていたり、政治家から真面目な顔で話を聞いていたくりぃむしちゅー上田さんが別の番組ではAKBみたいな格好をしてスカートからパンツを見せないように陸上競技をやっていたりする。どう考えても深夜番組で見ていた嵐と、「紅白歌合戦」で見る嵐はモードが違うだろうし、「ヒルナンデス」とラジオの有吉さんだって違っただろうし、そんなこと言い出したら「めちゃイケ」と「スッキリ」の加藤さんだって多分スイッチが違うわけで。

 また小木さんの話に戻るけれど、「いいや違う。小木さんは深夜ラジオの発言、過去の番組での発言から最低な夫、最低な父親に違いない」ってどうして断言できるだろう? (そもそもそれを判断していいのはお子さんや奥さんといった家族のみなんじゃないか?)そんな風に、視聴者に番組の出演者として見せている姿の全てで家庭内のことまで判断できるだろうか? 
 
 だって視聴者は彼らタレントのキャラクターからイメージを膨らませ、見えないところまで作り上げてしまう。そうやってイメージは簡単に本人から離れていく。本人が完璧に自分のことをセルフプロデュースできていた場合、視聴者は騙されたとも言える。そう、世間ってやつは簡単に騙される。勝手に期待したとも言えるけど。
 
 そして世間はその経験をしてからまだ一年と経っていないというのに。ちょうど燃えた小木さんのすぐ近くに。同じ事務所に。求められていたキャラクターとプライベートの差が激しかった人がいたというのに。メディアや世間が持ち上げていたのに、プライベートを覗き見た瞬間、みんなその手を離すどころか地に叩きつけたじゃないか。
 
 ということは、世間の目なんてその程度なのだ。誰かが問題を起こすたびに「まさかあの人が」なんて新鮮なリアクションをとれる世間が、果たしてその程度の目で本当の小木さんの姿をわかるとどうして言えるのだろう。

 ここまで書いて去年の「伊集院光とらじおと」の劇団ひとりさんが出ていた回で、深夜とゴールデンタイムの番組との違いを話されていたのを思い出した。伊集院さん曰く、深夜のラジオが本物でゴールデンのテレビが偽者みたいな言い方をされると、両極端過ぎて、ある意味どっちも偽者である、と。深夜ラジオだと変に悪くなっちゃうし、ゴールデンタイムだと変にいい人になってしまう的なことを言っていた。
 
 演者自身、場所によって求められることが違うことでキャラクターがブレざるを得ない大変さや苦労があるのだと思う。そして場面や相手によって自分が他人に見せる顔が違うことは、何も芸能人に限らず一般社会でもあるはずだ。そして場面による違いまで見えてしまうと、見せる側面としてある程度作られているはずのキャラクターにそこそこの現実味や説得力みたいなものが出来てしまって、身近な存在として錯覚するのかもしれない

非日常が日常に寄ってきたデメリット

 テレビ番組で見る芸能人は確かに現実に存在しているけれど、視聴者に見せているのはやっぱり見せる為に演出された場面であって、それは私にとっては非現実的な場面であることが多かった。なんというか、主にスケール的に。
 平成ノブシコブシの吉村さんが車ぶっ壊したり、嵐がやたら変な素材で船作って沈没させてたり、あとは、「ロンドンハーツ」はドッキリの為に家を建てたんだっけっか? なんとなくスケールと書いたはいいものの具体的な例がそこまで出てこなかった……。でもそういう世界だったから、そこにいる人たちの行為を常識に当てはめて考えるようなことを、今日ほどしなかったように思う。芸能界が遠いように芸能人も遠かった。だから、今日ほど芸能人の不倫に本気で怒るような世の中でもなかったような。
 
 遠いはずの非日常が日常に寄ってきている気がする。養成所というシステムが出来上がり、更にはネットによって有名になる人も増えた。ついには芸能人もネットに存在し始めている。
 互いの距離が近くなったように感じ始めて、芸能人を一般人の常識で考えるようになっていった。好感度と親近感がやたら持ち上げられる世の中になった気がする。そう思いたいだけで、全く近くないというのに。そう錯覚しているだけで、誰とも近くなっていないかもしれないのに。

 
 上手く言葉にできないけれど、事件やクレームを経て、そして不景気を受けて、テレビが刺激的な非日常ではなく、低刺激で日常的なものに変わっていったのだとすれば。
 芸能人がネットで私生活を垣間見せたり、本当にやりたいことをし始めた結果、メディアの番組に出ることは仕事、というイメージが着き過ぎてしまったのかもしれない。
 テレビに出ることが視聴者には遊びに見えるくらいが、ふざける側にとってはちょうどよかったんじゃないだろうか。テレビの事情や番組の裏側が見え易くなり、出演者側の苦悩や愚痴も垣間見えるようになって、一般社会と社会人に置き換えやすくなった分、非日常的な行為は受け入れらなくなっていったんじゃないだろうか。
 
 いや、それ以上に社会に、誰かのおふざけを受け入れる余裕が無くなっているのかもしれない。今まで見落としてきた個性や、異常、現実的な問題がネットによって簡単に見つけやすくなっている気がするから。

知らなかったが通り辛い世の中

 TwitterやYouTubeを始め、ネットでは今まで社会で見過ごされてきた問題や過去の疑惑などが毎日取り上げられては議論が繰り広げられている。タレントの過去の疑惑から環境問題、政治的な問題まで様々だ。解決しなければいけない具体的な問題から、新しい切り口によって見つかった問題など。後回しにしている問題から、現在解決に動いている問題まで。
 
 ネットを見ていて思う。世の中は問題だらけだ。人間社会は決して完全ではないし、そこで生きている人間も当然完璧ではない。やらなければいけないことは山積みで、だけどその前に地球が滅びるんじゃないかと思えるほど解決への足取りは遅いように感じる。けれど手順をすっ飛ばせば誰かが理不尽に割を食う。どちらかをとるしかなく、永遠に完全な解決は不可能そうな問題だってある。

 ここでウーマンラッシュアワー村本さんの名前を出したらどれくらいの人が読むのを止めるだろうか。正直私は村本さんのTwitterアカウントをフォローしていないし、(漫才は好きなんだけど、Twitterで文字だけの喧嘩は、仕事の後で見るのにしんどい)今どんなことをしているのか詳しくは知らない。カジサックチャンネルにノブコブ吉村さんが出ていた時に、会うと意外といいやつだけどSNSになると変な悪いやつになっちゃうと言われていたので、喧嘩のイメージが強いけれど会って話せる距離まで行けばいい人に見えるんだろうなとは思っている。
 
 ちなみに「ドリームマッチ」で村本さんと吉村さんがやっていた漫才を今でも覚えている。志村けんさんまで巻き込んで口喧嘩している様子に爆笑した。ああいう喧嘩は好きなんだけどな。
 
 そんな村本さんが本を出したことを知ったのはフォローしていた三拍子高倉さんのリツイートだった、はず。飛び込んできたのは本の表紙。んーと、これはどっちがタイトルだ? 「おれは無関心なあなたを傷つけたい」の方なのか「見て見ぬふりをするすべての日本人へ」なのか。どうやら前者らしい。
 コロナ禍の中、飲食店で働いていることもあって、社会の中での自分という在り方に、もともとの自己肯定感の無さも相まってやるせなさを抱えていた時にこの本の存在を知った。そして傷ついた、タイトルだけで。

 その通りだとは思う。――けれど、そんな言い方はないんじゃないかと、江本はやや理不尽に、彼のことを恨みさえした。

西尾維新「零崎人識の人間関係 戯言遣いとの関係」において江本智恵が戯言遣いからあの言葉を偶々聞いてしまった時の気持ちはこんな感じだったんだろうな。過去に読んだ作品の架空の人物の言葉を借りて自分とシンクロさせて現実逃避をするレベルで傷ついた。だから本は買っていないし読んでいない。タイトルで傷ついているようなクソ雑魚一般社会人には受け止められそうにないからだ。(だけど何故か村本さんが過去に出した著書、「村本論」の方は持ってるんだな)
 
 だけど、言い訳かもしれないけど村本さんが無関心だと思っている人たちだってそれぞれ戦っている日常があるはずで、精一杯に今を生きてるんじゃないの? それぞれに戦っている現実があるんじゃないの? そして他人にそこまで気を遣えないほどに疲弊しているんじゃないの? だからこそ、みんなもう充分傷ついているんじゃないだろうか。いやもうそう思って日常を肯定しなければ、私みたいな限界ギリギリ屑社会人には救いがない。
 
 ちなみにこれと似たような感情をロザンのYouTubeを見ていても思う時がある。あの二人はどこまでも正しくあろうとしているように見える。けど、自分の中で正しくないかもしれないけれど譲れない何かが見えた時、自己矛盾に苛まれることはないんだろうか。いや、私が逃げているだけなんだろうな。現実と正しさから。

見つけやすくなった個性と異常、それを取り巻く諸問題

「いや、本を読み慣れていないだけだよ。推理小説は特にね。だから、ああいう話を、どういう風に読んだらいいのか、わからないんだ」
「本を読み慣れている人でも、同じような迷い道に入ることはありますよ。私だって例外ではありません――でもね、鯨井さん。本を読んで、教訓を得ようとか、学ぼうとか、この先に生かそうとか、そんな風に構えることはないんですよ。国語の授業じゃないんですから」
 と、今日子さんは鯨井に向け、指を立てる。それこそ国語の先生のような仕草だったが、口にするのは、聖職者にはあるまじき発言だった。
「面白いことを考える人がいるなーって、ただそう思って本を閉じればいいんですよ」

(西尾維新 「掟上今日子の挑戦状」 )

 問題が見つかりやすくなった。その上タレントを身近なものに感じるようになった。だとすれば、芸人のボケが、ボケじゃなくて現実にある問題と重なって見えることが増えたんじゃないだろうか。どれだけ芸人だからと特異性のあるキャラクターを付与したところで、現実にその個性を持つ故に苦労している人がいる場合がある。もしくは、ボケでもなんでもなく、問題や事件を起こしている可能性がある。そしてそのことが、本人たちだけが抱えているものではなく、周知されて社会の問題として扱われることが増えたのだとすれば。
 
 一時期バカッターとか、Twitterは馬鹿発見器みたいなこと言われていた記憶がある。そういうヤバイ人が見つかりやすくなったのは確かだと思う。
「そんなことするやついるわけないじゃん」
 というボケとか
「そんなヤバイやついないよ」
 というキャラクターが現実味を帯び始める。そしてその流れの続きには何を見ても「待てよ。笑ってるけど本当にいるかもしれないぞ?」というところまで考える思考回路があって。というか、問題を見過ぎたせいで何もかもを現実的に考える方向に脳が行きやすくなっているのかもしれない
 
 だから、見せ方と見る人によっては笑えないボケとかキャラクターが増えたとか。いや全然、的外れかもしれないですけど。これ、ネタ作ってる人たちがもし、万が一見ればこんなクソ素人がわかったように適当書いているの読むに堪えんだろうな。いやあの、私はお笑い好きですしゲラです。許してください。
 ただ、強烈な個性を持っているキャラクターを前にしたときに、多様性に関する問題が脳裏に過って、ボケて欲しくて出てきたはずのキャラクターを笑いづらくないっているのはある気がするんですよ。
 
 問題意識が強くなりすぎて神経質になっているところはあると思うわけで。そして情報から距離を置いている人と、考え続ける人との感覚のズレが大きくなっていく。

小木さんじゃなくても感じる違和感と恐怖

 前述した通り、小木さんのピラニア発言に対するある程度までのリアクションは自業自得だと思っている。でも小木さんが言いたいことも、女性だからこそわかること部分もある。
 
 そもそも小木さんというか、おぎやはぎの芸風って、建前を踏まえた上で、みんな本当は内心こう思ってるでしょ?っていうところを半笑いで擽る悪魔みたいなものだと勝手に解釈しているので、煽られて怒っちゃったら図星ですと言っているようなものだと思う。怒ったら負け、っていうのもムカつく、悪魔みたいに感じる一因なんですけど。案の定、小木さんの発言に怒った人は小木さんが言った通りピラニアみたいに食いついているわけで、外野から見たらやっぱり本当じゃん、っていう。
 
 もし、小木さんのピラニア発言に怒っている方で、でもお笑いも好きだし、あとほんの少しだけ歩み寄れるっていう心の受け皿が広い方、いらっしゃいましたら去年、2020年の「THE MANZAI」のおぎやはぎを見てください。発言を見聞きした後だと笑えないかもしれないけど、小木さんが言いたかったことが笑い交えて上手くまとまってるのってこのネタなんじゃないだろうか。そして芸人としてコンプライアンスを考え続けてきた流れがあってのあの発言だったのかもしれない。

 女性の私でも「なんでそれ燃えた!?」みたいなことが結構ある。例えばちょっと前にあったマルちゃん正麺のPR漫画。

 この漫画が燃えた理由、知りたい人は各自リプ欄の地獄を見て欲しい。これでもだいぶクレームのツイート消した人がいるみたいですけどね。
 あ、togetterのリンク貼った方が早かったかな。けどいっぱいまとめられてるな。興味ある人は各自、マルちゃん正麺スペース炎上と検索かければ出てきますよ。
 
 私が疑問に思ったのはこのケース、炎上含めて男女逆の事が起こっていた場合、それはそれで女性が怒るだろうと思ったから。つまり、この漫画の男女が逆で、《奥さんが、旦那さんが帰ってくるまで洗い物を放置していること》を世の男性が怒った場合、世の女性は滅茶苦茶怒ると思う。というか、私自身怒る自信がある。子どもの面倒見るのは大変なんだ、とか、洗い物くらい手伝ってくれてもいいじゃない、とか。
 本来この手の流れって、
「女性だけの負担になっているものっておかしくない?」
「家事は奥さんがやって当然みたいな風潮おかしい」
 的な、当然になっていた女性像、もしくは男性が求める、あるいは女性自身が目指さなければいけないと思っていた女性像からの脱却、みたいなところから始まったんだろうなと遠くから見ていた。共働きの家庭が珍しくなくなっていき、家事や育児は協力してやるべきもので、多少の手抜きや雑さにも寛容になるべき、みたいな流れなんだろうなと見ていた。

 ところがどっこい、上記の炎上って家にいて子供の相手をしていた夫が家事をしろよと暗に言っている、よね? 「休みで家にいた嫁が育児も家事もするべき」なんて言ったら絶対燃えると思うのに。なので私はこの炎上を見て混乱した。あれれー? 家事分担の話どこいったー? 無理しなくていい話どこいったー? いやまあ、確かに昼飯の食器そのまんまに文句言いたくなる気持ちはわかる。でも、そんな寄って集って叩かなきゃいけないことだとは思えない。
 
 あとPR用の8コマ漫画として見た時に、終わりの一コマを何で終わらせるかは重要になる。最後のコマが夫婦そろって食器の片づけって綺麗な終わり方だ。終わりのコマをこれにしたいから、母親が帰ってくるまで洗わせられない、みたいな作者側のメタ的な事情の可能性だってある。夫婦揃って仲良く家事をしている図が、雰囲気の良い家庭を象徴する。
 
 これは広告だ。広告っていうのは商品に良いイメージを持たせることが大事なのであって、そんな細かいところまで考えろというのなら「うしろシティ星のギガボディ」みたいに「アクサダイレクト」のCMで天体観測してる岡田将生と子どもの関係性はなんのか、みたいな広告の趣旨と全く関係ない明確に表現されていないところまで、本当にボケなしで真面目に考察しなくちゃいけない世の中になる。ラーメンは簡単で美味しいし、車を夜中に傷つけても大丈夫なことが伝わればそれで充分なはずなのに。
 
 そうじゃなくても亭主関白も許されない雰囲気なのに恐妻家の存在は笑うんですねー、へー(棒)とか、※過去の発言を掘り出して切り取っていいというのであれば、蓮舫さんの「男が泣くな」とか高嶋ちさ子さんの番組での子どもに対する発言とか。あの辺の女性側の言葉だって意図があったにせよ、選んだ言葉という意味ではどうなのよ、と。最近の男性の言葉に対する敏感さに比べるとバランス悪くない? つーかそろそろいい加減、男の苦痛みたいなものも取り上げられていい気がするんだけど、だけど中々どうして、逆の運動はあんま目にならないんだな。男が泣き言言うのはみっともない、という呪縛でもあるのだろうか。

そもそも男だったら生きやすい世の中、というわけでもないのでは?

 男女平等を考えた時、私は逆のケースを考える。社会で働きたい女性がいるのなら、社会から遠ざかりたい男性だっているはずだ。日本の男は自分が履いている下駄の高さを知らないと誰かが言ってたけど、好感度と同じで、勝手に高い所に上げられた方だって怖いと思う。
 
 女が女らしさを捨てるより、男が男らしさを捨てづらいバランスが存在している気がする。世の女性をもっと自由にと声高に叫ぶ声が散見される一方で、男の弱さや被害を認める姿勢はあまり見受けられない。もちろんこれも私個人の視点では、だけれども。女性が強く出るほど男性だって身を守る為に、物を投げつけられた時のように身を丸めてそこから動けなくなってしまう気がする。だってそこから一歩でも譲れば、後はもう容赦なく引きずり降ろされて、踏みつけられるところまで想像できるから。

 社会での在り方とは別に性的被害の話をする時。痴漢の話をまるで女性だけが受ける犯罪であるかのように話している言葉をよく見るけれど、男だって痴漢の被害に遭うわけで。痴漢冤罪のことも考えると、そもそも性的被害=女性という偏った考えやイメージから脱却しないと公平じゃないのではと思う。誰もが、どの性別相手にも被害者になり得るのに。

 性的搾取についても女性ばかりが問題視されているように感じるけど、じゃあ腐女子はどうなんですかね、と前から思っている。例えば男性のロリコン趣味ばかり危険視されて、漫画やアニメの幼い(幼く見えるだけ)のキャラクターが好きなことを否定する流れがある。でも腐女子だって年齢制限のあるショタの薄い本読むじゃんか。いやマジで。〇ixivとかD〇Siteとか〇antiaとかにあるじゃないですか。ロリコンは駄目でショタコンがOKな理由がわからないよ。 
 BLに限らず女性向けにそういうシーンのある、そういう趣旨のCDがあることをもしかするとご存知ない?
 「太田上田」のBL回だって、本人にその気がなくとも受けだとか、攻めだとか、SとかMとか。誰かの性的指向を否定するのは良くないと思うけれど、本人にない性的指向を押し付けるのだって問題ないとは言えないじゃん。占いの番組に出てた芸人さんが女性経験の無さを言い当てられ、「ほぼ女を知らない手相」と言われてたけど、あれだって男女逆だったら絶対問題になってたよなと、ちょっとモヤるわけで。
 
 ジャニーズという主に女性向けとされるコンテンツを見ているからこそ思う。彼らはファンが喜ぶからこそ、ちょっとどころじゃないエッチな曲を歌ったり、コンサートの途中で衣装をはだけさせたり、「anan」に出たりするけれどそれだって、性的搾取ですぜと言われたら? 櫻井翔の上半身裸の写真を見ながら、否定できないよなと自嘲気味に思うのだ。表紙の真ん中に「オトコノカラダ」ってでっかく書かれているし。大野くんだって「魔王」のシャワーシーンはファンにとってはサービスシーンかもしれないけど本人は嫌がっていたし。彼らの男らしさに女性たちは熱狂の歓声をあげるわけで。
 男性が出ている女性向けコンテンツを見ていると、女性だって男性に男性らしくあることを求めることだってあるのにと思う。

 正直この辺は私の知識不足が否めない。前述した通り私はフェミニズムに対して不勉強だ。だから書き連ねた疑問の数々にツッコミどころがあるのだろうけれど、それでもネットで垣間見えるのは女性の犠牲を訴える極端な言葉ばかりが目に入って、どうして男性ばかりが責められるのか、女性の無遠慮さは許されるのか、このアンバランスさに対する答えがわからない。性別に関わらず性的暴行は許されないし、性的搾取だって両方の観点から見ないといけないと思うのだけれども。 

 行き過ぎた反差別運動がいじめに見える時があって、それが嫌なのは反対側にだって時代や空気の被害者がいたはずだと思うから。だから、どっちかだけじゃなくてどっちのフォローも必要なんだと思うし、一か所だけに悪役を押し付けるような世の中では、みんなが求めるような平和は訪れないと思う。

古い価値観は悪い物なのか

 最近よく、アップデートという言葉を目にする。簡単にアップデートできるなら苦労は無い。例えば学校で習う歴史だって私の時と内容が変わっているらしい。今さら違うかもと言われましても、私はあの肖像画で西郷隆盛を覚えたわけで。歴史の授業一つとっても古い世代と新しい世代で常識が違う。

 だけど、不確かな情報を教えられて育った古い世代の存在って悪だろうか? 古い価値観を悪だと断定し追いやるのは簡単だ。だけど、古い世代は古い世代で、時代の常識が違うからそういう価値観を飲み込んで生きてくしかなかったのかもしれない。そして、その古い常識を持っていた人たちが作り出した社会を基盤にして私たちが生きている。そこで一度形に出来た社会があるから、そこで誰かが失敗したから、私たちは新しいことを考えることができる。次に進むことができる。どれだけ悪く見えるルールでも、理由があって作られて、そしてそのルールが何かを守ったことだってあっただろうし。
 
 最近はアップデートをしてくださいという要請がいろんなところから出ているから大変だ。手前を見れば性別問題、遠くを見れば人種問題、後ろを見ればなんか急に仮想通貨が出てきたし、かと思えば環境問題でビニール袋が有料になるし。そしてこれらは学校の授業のように先生が説明してくれるわけでもないし。


 もちろんこれは、本当に追いやられている人からすれば綺麗事や言い訳に見えるだろう。何かへの対抗心、敵愾心を糧に前に進む人だっている。だけど私がいまいち最近の、そういった過去の何かを批判する世論の流れに乗れないのは、その流れも既に誰かを取りこぼしていて、もしくは追いやっていて、いつかその誰かたちが同じように怒り始めるのが目に見えるようだからだ。変わらないといけないことに焦りすぎて流れに従って、急ぐあまりに見落とした小さな声が大きな声になって返ってきたのが今なのだろうから。

新しい価値観が正義なのだろうか

 世論ってものは後出しじゃんけんに弱いと思う。いや、大概誰かが行動した後に意見を述べているのだから、世論が基本、後出しじゃんけんをしているのだと思う。本来対等に並べて考えるべきAとBという考えがあった時、今までAしか見つけられなかっだけなのに、後から出てきたBの斬新さに食いついてAを時代遅れだと非難する。それって結局、新しい時代が来たらBも捨て去るということだ。
 
 多様性だなんだと言いながらその実、後から来た思想や海外から来た常識を手放しで褒め、今まであった考えを蔑ろにして馬鹿にしている人を見かけると、多様性ってつまり選択肢が増えるってことで、早い遅いの話じゃなくて横並びの話だったんじゃないの? と疑問に思う時がある。そうやって何か一つの考えを基準に他の選択を馬鹿にする空気があったからこそ、多様性ってものを求めたんじゃなかったのだろうか、と。
 
 例えばテレビや新聞の話。オールドメディアのやり方は確かに時代遅れなところや傲慢なところがあるように思える。だけどネットで得た一つの情報を鵜呑みにしてそれらを叩いている人を見ると、テレビやラジオで得た知識を鵜呑みにしている人たちと何ら変わらないように思える。テレビ番組にも編集が掛かるように、ネットだってテレビやラジオを切りとって批判している。テレビが真実とは限らないように、ネットが真実とも限らないのに。
 
 週刊誌がなくなったって似たようなことをしているYouTuberを見るとやはり、人は変わらないんだなと思う。場所が紙からテレビへ、テレビからネットに変わったところでやることは変わらない。起こる問題も変わらないのだろう。だから、テレビとか、ネットとか、国とか、立場とか、関係なく、人間の問題なんだろうな、根本的には。

 性別の話まで戻る。例えばこのまま昔を忌避する形で、女性が女性らしさに、男性が男性らしさに縛られない世の中になったとしよう。それでも誰に強要するでもなく、かつて女の子らしいと言われた格好をしている女子や、男という性別に誇りを持って家庭や仕事を背負おうとしている人たちの選択が笑われるのはどうなのだろうか。一つの選択肢を完全に間違いだとする多様性は、果たして本当に多様性と言っていいのだろうか。

有名人に降りかかる数の暴力

「他人の剣を振りかざそうとするやつに、舞い降りる翼は無い」
(新・光神話パルテナの鏡 ブラックピットのセリフより)

 森元会長が炎上した一連を眺めていて、ちょっと前に話題になった「水曜日のダウンタウン」の坂東英二さんの一件が被って見えないこともないなと思い出した。

 ネットでは日常的に炎上が起こっているけれど、その流れで見た言葉で、本人の意図をどれくらいまで正確に把握できるのだろう。というか、喋った言葉を文字として目にしている時点で誰かの手が加わっている情報を得ているわけで、そしてやはり番組だったら編集があるわけで、感想はともかく、会ってもいない相手に本気で怒って説教みたいな言葉をネットに並べるのはおかしいんじゃないかと、冷静に考えると思うのだ。
 
 社会的な影響力と言う点では明らかに有名人一人の方が、一般人一人よりより上だろう。じゃあ私含めて名も無き一般人サイドが持っているものはなんだろう。
 例えば数。ぶつけられる言葉の数。例え一桁だろうがネット上で6人くらいに囲まれて罵詈雑言をぶつけられたら、普通の人ならあっという間に心は折れる気がする。
 
 自分の発言の反響は自分の責任。それは正しい言葉かもしれない。私は芸能人という職業は自分、もしくは自分が作ったものを誰かに見てもらうことで、誰かに影響を与えることで成り立っていると考えている。だからその影響の責任は負うべき。この言葉は当然のように感じる。
 
 だけど、前述した通り私には芸能人と一般人の距離は近づいているように思える。TwitterやInstagram、YouTubeで一般人の有象無象のアカウントの中に芸能人が公然と出現するようになった結果、直接言葉を投げかけることが簡単になりすぎてしまった

 昔なら事務所に応援の手紙を送るなり、テレビ局にクレームの電話を入れるなりしていたのだと思う。それはつまり、本人に直接大量の言葉が投げつけられる前に事務所やテレビ局がクッションになっていたということだろう。過激な人は家まで追っかけて行ったんだろうけど。
 
 送りつける側にとっては楽になった。手紙を書くとなると身構えてしまうし、電話となると向こう側にいる相手と直接言葉を交わすので緊張感もある。同じ内容を伝えるだけならスマホで打って送る方が随分と簡単だろう。
 ネット上の悪口だって自分から見に行かなければ触れることなんてなかった。けどそのネット上に自分のアカウントを作ればそうもいかない。ちょっと下にスワイプすれば見えてしまう言葉たちがある。
 
 影響力があるから普通の人より頑丈に見えてしまう。そしてその人に比べれば、私なんかはずっと弱い、踏みつけたことにすら気づかない蟻みたいな存在だ。
 だけど、頑丈に見えるのは事務所のブランド、仕事をしているテレビ局の存在、その人が成し遂げたことや積み上げてきたことのおかげであって、それだってその人一人でやっているわけじゃない。嵐だってあの規模のコンサートをするのに五人だけでやっているわけじゃないし、誰よりも本人たちがコンサートの時と、その後自分の家で風呂掃除をしている時のギャップを感じている。

 前述した通り、番組は作り物だ。キャスティングにだって意図がある。演者はその意図を把握して動くことが求められている。だから時には悪役であることが求められる。悪役がいるから面白くなる。
 みんなが大好きな「ドラえもん」や「アンパンマン」だって、ジャイアンみたいな乱暴者のガキ大将や、ばいきんまんみたいな敵役がいるから面白い話が出来上がる。見ている側は純粋にそういう役どころを嫌な奴だと思って見るものなんだろう。そうやって番組を楽しむべきなんだろう。逆に言えば、その役の存在で番組が楽しめないのなら見るべきじゃないんじゃなかろうか。
 
 前述した坂本忍さんと高嶋ちさ子さんだってよくネットで叩かれているけれど、あの人たちはもう、そういうキャラだし、そういう役回りなんだと思うよ。私はあの二人見るのには体力が要るし、好んで見ることはないけれど坂上さんに関しては見慣れてきたし(耐性がついたとも言える)この記事を書くにあたって過去の発言を調べた高嶋さんに関してはなんか、受け入れられそうになってきたよ、うん。ちょっと言葉が強くてキャラが濃い母ちゃんなんだろうね。ただ、私は任天堂のゲームが好きだし、癇癪持ちの父親がキレると物に当たって壊す人だったこともあって(ファミコンを二台も潰したため、実家にはもうプレイできないゲームカセットだけが大量に残っていた)、ゲームぶち壊す行動だけはキャパオーバーだけれども。
 
 とにかく、娯楽の世界には悪役も必要だ。番組の演出であろうが、本人の作ったキャラクターであろうが、そういう役回りの人は必要なんだろう。ところがさっきも書いた通り、バラエティ番組も真剣に見る人が増えてきたのならば、そして芸能界、テレビというものが一般社会との距離が近づいていて重なって見えるようになっているのならば。現実の悪い奴と悪役が重なり、しかも本人はネット上の手が届くところに存在している。更には自分の姿、素性は見えないという、人を叩くには有利過ぎる状況がある。普段なら面倒だし、揉めたら怖いからと注意しないようなことも、ネットなら簡単に伝えられてしまう。
 
 許せないから叩く人。悪に対しては何をしても自分が正しくいられる優越感から叩く人。理由はどうあれその人に直接言わなければ気が済まない人たちが、互いの姿は見ないまま標的に向かって暴言という石を投げつける地獄が簡単に出現する。
 
 で、その人が死ねば、今度は番組のせいだとテレビに石を投げる。さすがに滅茶苦茶じゃない? タレントや政治家には発言の責任を求めるのに一般人には無いのだろうか。番組に責任が無いとは言わない。だけど番組も視聴者も反省して人の死を悼むんだろうなと思っていたところ、ネットを覗けば見えた、番組を責める声。某テレビ局が嫌いな人も乗っかって、地獄。
 
 誰かを責めて責任の押し付け合いをする前に、誰かの死を自分の嫌いなものを批判する道具にする前に、人の死を悲しめないのだろうか? というか、言葉で責められていた人が死んだ現実を見ているはずなのに、番組スタッフを責めれば何人もいる番組関係者の中で心優しい人が同じように命を絶つ可能性を考えないのだろうか? もういいや、黙ろう。気安く言葉をかけ過ぎた結果なのだから、本人はこれ以上言葉を求めないだろうし。噴出した言葉の数々も、きっと死を受け止めきれなかった人たちのどうしようもない怒りや嘆きなのだろう。せめてそう思いたい。
 
 例えどれほど偉い人であっても、私たち一般人が寄って集れば殺すところまでやれてしまうことは歴史が証明している。そして、公開処刑が娯楽になる人間の残忍さも忘れるべきではないように思う。正義側、批判側にも責任はあるし、正義側が過激になりやすいからこそ枷が必要な気がする
 今社会は多様性やマイノリティの問題に直面しているけれど、有名人に比べれば圧倒的に一般人の方が多数派だ。だから両サイドが距離を見誤らないように気をつけないといけないのかもしれない。

弱者という許可証めいた立場

(西尾維新 『零崎人識の人間関係 戯言遣いとの関係』)

 彼らは最弱と言っていいほどに弱く、逸脱せず、成長せず、変化せず、仮に逸脱し、たとえ成長し、いやしくも変化したところで、そんなものはすぐに元に戻り、反省も後悔もその場しのぎで、とても簡単に徒党を組み、そうかと思うと簡単に裏切り、何が起きても何事もなかったことにし、すぐに忘れ、とっさに意見を翻し、信条を持たず、怯えては逃げ、狂い、非常に適当で、約束を守らず、ルールを無視し、高いばかりのプライドを簡単に捨て、努力もなしで成果を求める、欲深の、しかし慈悲深い、善良でありながら悪逆で、感情移入とそれに伴う飽きを矛盾なく実現する、深く考え過ぎる割には何も考えておらず、行動力がない割には結果だけは出す、感情的な癖に中途半端に頭のいい、愛すべき群体としての個体。
 ありったけの敬意となけなしの軽蔑を込めて――人は彼らを『一般人』と呼ぶ。

 有名人に比べて基本的に一般人の言葉は軽く扱われる。見られることが少ないからだろうか。逆に言えば一般人でも何かのはずみでその言葉に対する注目度が高くなればいきなり発言の責任を求められたりするわけで、この辺のバランスって難しいよな、と思う。
 
 影響力で考えればやはり有名人の方が強いのは当然で、そこに比べれば一般人の発言なんてどうでもいいものに感じてしまうけれど、実際はどうでもいいものだし、相手にしていたらきりがないからお目こぼしされているだけの存在。
 
 意見と言うのは取り扱われなければ無いものと同じであり、だからこそメディアや企業に問題があった場合、問題を周知させて声を大きくするために最初の人たちが大声を上げることから始まる。一般人の一声なんてメディアや企業の声に比べれば小さい。だけれども、一般人は絶対的な弱者である、という思い込みはあっという間にどんな表現方法でもいい、という傲慢さに繋がる。もう既に、弱者とは言えないほどに人が集まり、本人たちに声が届いている段階になっていたとしても。

 誰かが絶対的な被害者であるように見える、状況がはっきりわかっていない時ほど、私は事の扱いに気をつけなければいけないと思う。そして絶対的な被害者、弱者という立ち位置がずっと続かないことも考えなければいけない。何故なら、その人たちの声に反応して環境は少しずつ変化しているはずだから。
 私がこう考えてしまうのには一つ、絶対的被害者だった人間に私怨があるからだ。

 いじめの被害者というのは絶対的な被害者だ。私は過去に絶対的な被害者だったらしい、別の出身校から入学の際にクラスが一緒になった同級生に言われたことがある。
「私はこう見えていじめられて大変だったんだよ。私に比べれば、SSSちゃんの今までの人生なんて、全然楽だったと思うよ」と。
 
 当時、私の家は親の問題で滅茶苦茶だった。クラスに馴染めなかったこともあり、クラスメイトどころか担任にもそのことを言えずにいたし、担任以外には言わずに卒業した。
 そうでなくても、いろいろあって不登校気味になってしまい両親に心配をかけてしまった時期がある。不幸自慢で張り合いをするつもりもないし、そして別に不幸自慢を私にしてご満悦なお前に打ち明けたい過去でもないから黙っていたけれど、楽だったなどと言われる筋合いは無い。
 絶対的な被害者という立場を一度得たことを話しながら、何故か恍惚とした笑みを浮かべるそいつを見て、殺意を覚えたし、今でもあの醜い笑顔を覚えている。
 
 悲劇のヒロインやヒーローを気取りたい、被害者意識を持ったまま離そうとしない人間は確かに実在する。他人の不幸じゃなく自分の不幸が蜜の味になるタイプの人間。自分が可哀そうなままでいたい奴は、自分以外に可哀そうな人間がいるとは思わない。その思い込みが、誰かを踏みつけているとは知らずに。
 
 あの頃私が覚えたのは、「それでも家族だから」という言葉の無神経さと「あなたに私の何がわかるの?」という言葉が理解を求めている言葉ではなく拒絶するための言葉であったことだ。

 わかってほしいんじゃない。お前なんかには、わかってほしくない。同情されたくない。お前なんかと傷を舐め合いたくない。だから話さなかった。そして見捨てた。お前はこのまま、ずっと、自分が誰よりも不幸で可哀そうだと、己惚れていろ。
 
 岡村さんにあの時、矢部さんは「かわいそうさん」だと言った。かわいそうさんだから、許される幅が広かった岡村さん。いつかあの言葉が、謝った岡村さんに未だ罰を求めている人たちを、下げた頭を踏みつけるような真似をした人たちを刺す。それを見越して、皮肉を込めて矢部さんはあの言葉を使ったのではないか? などと穿った見方をしてしまう自分がいる。

なんで、人間は、揉めるのか?

正義のために。信念のために。真理のために。
 人助けのために。仲間のために。
 友達のために。
 人を殺す。
(中略)
 他の誰かのためだから。
 躊躇なく。迷いなく。
 ほんの微塵もためらうことなく。
 後悔すらも一切せずに。
 他人に恥じることなく自らを顧みることなく。
 人を殺す。
(中略)
 邪魔だから。
 障害だから。厄介だから。迷惑だから。
 鬱陶しいから。不安定だから。不快だから。
 人を殺す。
(中略)
 大事な人のためだから。
 誰だって殺す。
 何人だって殺す。
 何十人だって何百人だって。
 自分だって他人だって。
 親友だって殺す。
(中略)
 勢い余ったわけでも。
 思い余ったわけでもなく。
 まるで呼吸でもするかのように。
 通り魔のように殺人鬼のように。
 欠陥製品のように人間失格のように。
 人を殺す。

(西尾維新 「クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識」 )

  答えはきっと単純だ。人間は喧嘩をしたくなる生き物だから。人間は、他人を殺したくなる生き物だから。
 嫌いな相手を傷つけられるのであれば、自らが多少傷つくことも承知の上で争いを起こして他人を巻き込む生き物だから。
 自分にとって価値の無い存在を、邪魔にしかならない存在を、見るだけで不愉快になる存在を、愚かだと思った存在を、簡単に死んでしまえばいいと切り捨てられる生き物だから。
 
 
 炎上している中に飛び込むと、批判し合っている互いの姿は明確になるけれど、なんで揉めたのかという事実は自分が踏み込まなければわからず、時間が経つほどにボヤけていく。何故ならたった一つの炎上の発端を覆いつくすほど人の意見があるから。ネットだと何で燃えたのか知る前に、他人の意見が目に入るという現象が起きやすい。そして自分が属している思想や立場がどこかと対立した後となっては原因なんてどうでもよくなりがちだ。後から来た外野が見れば、その程度のことでよくここまで騒げたな、と思うことも多々ある。よくその程度のことでここまで酷いこと言えたな、と思うこともあるだろう。
 多分怒りの感情ってやつはできるだけ表明しない方がいいのだ。引っ込みつかなくなるから。

 いろんな問題が羅列され、いろんな考え方で見られる中、誰もが加害者として批難される可能性があるからこそ、自分以外の中にも悪を見出したくなるのかもしれない。
 
 例えば煙草の問題。確かに健康被害を考えると重大な問題だ。だけど喫煙者に投げかけられる言葉があまりにも酷い時がある。そしてそんな言葉を投げつけられた人の中に酒を飲まない人がいれば、同じ嗜好品として酒を楽しんでいる人たちに悪を見出して、自分たちが追いやられるほど追い詰めようとしてもおかしくない。

 そして何より、正しいということには何よりも自分の存在を肯定する。何の取柄も見つからず、自己評価が低い人間でも間違っていなければ、自分の存在に価値を見出せる。そして自分の中に価値を見出す簡単な方法は、自分より下を見ること。だからわざわざやらかした人間のアカウントに本気で怒りの言葉を書き込みに行く。別に好きだったわけでも、応援していたわけでもなくても。きっと、心の中ではどこかで安心している。自分よりも最低なやつがいた、と。自分よりも、いてはいけない人間がいるのだと。

 そうやって、誰もが誰かに責め立てられて、形ばかりの正しさが、思いやりなんかじゃない正しさが誰かを追い詰めていく。そして自由なんかじゃない、みんなで締め付け合う社会の完成だ。誰か一人が悪を担うよりはいいかもしれないけれど、これはこれで、生きていることに積極的になれそうにはない。 

社会を鏡にして見えてきた醜さ

(前略)人間は仲間を欲する。だけどその仲間は誰でもいいんだ。仲間であること、仲間がいることだけが重要なんであって、それがどういう集団なのかは関係ないんだ。意味がない、価値がないと言ってもいいかもね。そういう残酷な事実を知っちゃったら、誰も信用なんてできないよ。

(西尾維新 「クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識」 ) 

 もしここまで読んだ方は察するところがあったかもしれないけれど、私はそもそも人間が嫌いだ。集団に紛れてしまえば自分の意志を主張することが難しい人間だ。何かの集団に飲まれずに、自分の考えを呟きたいからTwitterにアカウントを作った。だからこそ、ネットで集団を作って動くひとたちがあまり理解できない。
 
 私には女性という自覚すらあまり無い。無関係の他人は性別関係無く他人という一つの括りで済ませる。私にとって世界は、自分かそれ以外かでしかない。生まれた時にどちらかを与えられるであろう性別ですら、私の中では個性ではなく、属している意識が薄いから、女性に対する仲間意識もあまりない。だって所詮は二つしかない分類だ。
 
 人間不信を自称すると陳腐すぎて「あー、はいはい。いるよね、そういうこと言って自分は違うと棚に上げて、実際は空気読めない、仕事できない、社会不適合者」みたいな感じでまた切り上げてしまう人がいるだろう。実際その言葉は外れていない。
 
 ちゃんと言葉にできないかもしれない。私は、多分、正しさ側の傲慢さというやつに敏感なのだ。いや、いつだって、そして誰だって正義を語る時は傲慢だ。誰かの間違いより、正しさの間違いが許せない人間なのだ。だからつまり私は、根本的に間違っている人間なのだろう。間違っているから、正しさが許せないのだろう。だから今までクソ長い文章を考えて打ち込んだけれど全部間違っている。私なんかの言葉が、世の中を表せるわけもなく、まして怒っている人を諭せるわけもなく。何にも響かず、誰にも届かない。世の中の問題や人間に対する疑問を一旦飲み込んで理解できると思っていることこそが傲慢そのものだ。何か出来るという思い込みが自分に対する過大評価であり、間違い。そんな自己評価を持つ私には、誰もが正しく、そして強く見える。

 小説を書いている芸人を小馬鹿にしたツイートだった。貶す内容だった。芸人が小説を書いている、そのことを否定する内容で、そこそこの数のいいねがされていた。そのアカウントの(よせばいいのに)他のツイートを見てみれば左翼思想のアカウントで、大層な言葉で政治家達やいわゆるネトウヨと彼らが言っている相手を手厳しい言葉で責めていた。
 
 ああ、きっとこの人は知らないのだ。彼がどれだけ本を好きなのか。一つの物語を創り上げることがどれだけ尊いことか。そして一つの物語をしっかり終わらせられるということがどれだけ凄いことなのか。それをこの人は、原稿用紙1枚にも満たない簡単な言葉で貶した。そして同じアカウントで大層立派な正義の言葉を並べ立てて他人を責めている。私にはそれがどうしても納得できなかった。
 じゃあ右翼が好きか? と言われれば全然。とある政治家とタレントが結婚した時の嘲笑ったらない。過去に問題があったかもしれないし、発言に問題がある人かもしれない。だけど、結婚は思想関係なく慶事のはずなのに。祝えないなら、黙っていればいいのに。
 
 そういう人がお笑いやアイドルが好きな人間を、いや芸人やアイドルそのものを下に見て発言している時にどうしても怒りを覚える。芥川賞をとろうが、日本アカデミー賞をとろうが、何を成し遂げても馬鹿にする人を見てきた。だけど政治系のアカウントだって、偉そうなこと言いながら右と左に分かれてやっていることは結局悪口大会で、ジャニヲタの愚痴アカやアンチがお花畑ファンとやっている喧嘩と同じだ。政治の事を喋っているから、正しさを考えているから、偉くなった気になっているのかもしれないけれど本質は誰かを担ぎ上げてチームを結成して。喧嘩したいだけのヤンキーと変わらないように見える。

 誰かの為に立ち上がった人がいた。何かの為に担ぎ上げられた人がいた。自分の夢の為に表舞台に立ち続けた人がいた。
 その人が失敗をした。過ちを犯した。罪を重ねた。その人が今までしてきたことも知らず、寄って集ってその人を口汚く罵って、失敗を嘲笑って、批判ですらない誹謗中傷をして、それを正しいとほざきながら同じ口で、女性のため? 社会的弱者のため? 未来のため? 将来の子どもたちのため? 反吐が出るほど汚い正義だな。若者が選挙に行かない? 政治に関心を示さない? でもきっとそんな人たちの中には、若者が選んだ選択を愚かだと偉そうに指摘する人間もいるんでしょうね。

 誰かが何かやらかすたびにその人をかき消すほどの罵詈雑言。人間の醜態を見せつけられて。正しさを凶器にして楽しそうに人を刺す人々を見て。コロナという危機を前にしても協力し合えない人間を見て。この人たちが語る社会の果てに、私が大切にしたいものなどきっと微塵も残っていない。だからいっそ、ゆとりださとりだと馬鹿にされ続けた世代で今の政治を、社会を破綻させてしまえばいいのに。ずっと私たちを嗤い者にしてきた人間が逃げのびる前に。天寿を全うする前に。

 私は正義が嫌いだ。自分が正義だと信じて相手の話を聞かない人が嫌いだ。自分が正義だから相手をどう扱ってもいいと思っている人間が嫌いだ。自分が被害者だったから何を言っても許されると思っている人間が嫌いだ。理由があれば相手を配慮せずどこまでも否定していいと思う人間が嫌いだ。
 
 被害を訴える叫びを、救いを求める言葉を、誰かのための怒りを、明るい未来のための正しさを、あっといまに愉悦に満ちた、快楽を求めるだけの暴虐に様変わりさせてしまう人間が嫌いだ。
 
 だから私は、卑屈で、冷血で、無関心で、独り善がりの、間違っている加害者なのだ。

偶像と道化と物語

憎まれっ子世にはぶられる

夢を持ったら
「現実はそんなに甘くない」
といわれ、

熱くなってみれば
「オタク」
と名づけられ、

世の中をナナメに見れば、
「ゆとり」って
いわれるんでしょ?

知ってる。

(サンリオ 「ぐでたま哲学」 )

 相手の正義に傲慢さや間違いを見つけて感情が捻じ曲がっては、その視線が反射して自分を貫く。相手にそれを見つけることは自分の中に同じものを見つけることと同じことなのだと思う。他人を恨めば恨むほど、私の中にも人間性の醜さが見つかる。それを繰り返しては人間を、そして社会を嫌いになっていく。
 
 価値観の変化にすらもうついていけなくて、簡単に否定され、乱雑に捨て去られようとしている過去をどうしても捨てきれずに拾いながらのろのろと進んでいこうとするのだけれど、それにすらもう疲れてしまった頃。

 アンジャッシュが、というか渡部さんが活動自粛をしてからしばらく経った後、バナナマンが出ている住友生命のCMを目にした。

「人間は迷う。間違える。だから愛おしい」

 そう言う設楽さんの先に、戦友であろうアンジャッシュとその周辺で騒いでいる人たち、騒動全てを見てしまって。いや、絶対違うだろうし、実際設楽さんの視線の先にあるものは日村さんと冷蔵庫に入っているドーナツ、というかカメラがあるだけなのだけれど、それでも戦友は間違いを犯し、人々はコロナ禍で不安になり怒り散らす、この状況の中で、そう言い切って見せる設楽さんを、そのセリフに説得力を持たせられる設楽さんを、かっこいいと思った

「いや、我々はHumanだ」

 このセリフを心底、本当に人間が、人間らしさが面白いのだと言わんばかりに、設楽さんは笑って言う。我々は人間であるのだと得意げに言う。人間が合理的ではないことを笑って肯定する。
 
 私なんかと違う、圧倒的人間肯定力。セリフだけ見たら、そしてラジオリスナーからカイザー(皇帝)と呼ばれる設楽統が言っていることを考えたら、「HELLSING」のワンシーンかなと思ってしまうほどの人間賛歌。何が良いって、設楽さん自身が日村さんや児嶋さんの扱いから強者に見える一方で煙草の不始末で家を燃やしたり、電源に挿しっぱなしのコードを切ってニッパーを溶かしたりと、過去に危ない間違いをしていて完璧な人間じゃないところが良い。
 
 私はこのCMを見て思った。心の底からその言葉を言えて、なおかつ説得力を持たせることができるようになるには一体あとどれくらいの経験と、現実に向き合うことが必要なのか、と。感動を覚える一方で自分の小ささを嘆いた。それでも、と思う。
 
 有名人とは世間に共有される人生だと思う。それは小説や漫画、アニメから物語やキャラクターが周知されるのと似ている。その人がどういう人間でどうやって生きて最期はどうなるのか。私は今までいろんな、知らない人や物語を見てきた。
 
 一度コンビで人気を得て一発屋というレッテルを貼られ一人になってもテレビのど真ん中に復活する芸人を。他人の意志で集められて、個性がまるで違う中、それでも意思疎通を諦めず、成り上がっていったアイドルを。シュール、ゲーム実況にサバイバル、YouTuberと在り方がどんどん変わっていく芸人を。ボケとツッコミを交代して、名前まで変わって、高校の部活の話がファンに語り継がれている芸人を。お笑いを始め音楽にも精通し、一つのキャラクターと音楽を創り上げ世界的に有名になった芸人を。一度不祥事を起こした相方より先に謝りながらもその不祥事で笑いを取り続けた結果相方を再び漫才師として復活させた芸人を。従兄弟でありながら相方でもあり続け、互いが大事であるからこそ解散を受け入れようとした芸人を。自らを怪物と名乗りながら神様や神の手のコントを作った芸人を。魔法のカードと守護者に巻き込まれ、運命に立ち向かいながらも大事なものを諦めなかった少女の物語を。会社に捨てられた日本人が危険地帯の中マフィアの抗争に巻き込まれながら生きていく物語を。人間としての欠陥を自覚している主人公と人類最強が出会う物語を。人類を嘆く敵を描きながらも、それでも人類史を肯定してみせる物語を。吸血鬼の化け物が戦い、争いながらも人間を肯定する物語を。
 
 書ききれないほど、この世界には、それでも前に出続ける人がいる。それでも人間を描く物語がある。例え自分を含めた人間の有様を見るに堪えない瞬間が来ようと、それでもこれらの幻影と虚構は素晴らしい。それを生み出せる人間は素晴らしい。
 
 手の届かないものであろうとも、現実には存在しないものであろうとも、それらを理由に人間を肯定しよう。それらが見えるのならば、生きていてよかったと人生を肯定しよう。
 
 例え私が得ることのない人生と物語であったとしても、人間をそう見せられる、そういう物語を作れるという可能性が、私にとって慰めではなく救いだ。

最後に

 さてようやっと最後だ。書き始めてから2週間近く経ってしまった。この間にFGOも刀剣乱舞もイベントを回り損ねてしまって、途中から早く終わらせたくてだいぶやけくそになっている。大学を卒業した時に書き上げたものより力を入れて書いているんじゃないだろうか。全く、怒りは表明しない方がいいとか書いておきながらその後にキレるとか、本当につくづく私は間違っている
 
 だいたい正義の矛盾に文句を言ったところで私だって「Fate/Zero」雨生龍之介の、神の愛を信じる言葉に感銘を受ける一方で「幼女戦記」ターニャの神を切り刻む宣言に興奮するわけで、相当矛盾している
 
 後半思いの丈をぶっちゃけて過激になっているが、まあ「日本死ね」が許されるどころか流行語大賞になるんだからこの程度では過激とも言えないんじゃないでしょーか?
 
 そもそもどっかで炎上が起きる度に他人の怒りに凹んでいるくらいならTwitterやめろよ、という話だ。何に煽られて筆を執っているんだ。
 前回Twitterでちょくちょく見る有名アカウントさんが「岡村隆史の件で叩いているアカウントにジャニヲタが目立つ。これだからジャニヲタは」みたいなツイートをしているのを見てジャニヲタに対する偏見にブチギレて記事を書くことに踏み切った時から全く変わっていない。全く成長していない。一年近くでこの成長していなさは本当、くりぃむの上田さんといい勝負だ。いや失礼だよ、目上の方に向かって。
 
 このペースだと年一で話題をまとめて記事にしかねない。あほか。爆笑問題じゃないんだぞ。というかそろそろ楽しい方面の記事を書くべきだ。何をシリアスな自分に酔っているんだ、私は。私如きが人間を肯定できなかろうが、恨もうが、人間は生き続けるっつーのに。
 
 間違っている私が書いている文章だから、書き終わった直後から自分の言葉に刺されそうな気がするのだけれど。後ろからブーメランが直撃しそうなのだけれど。そもそもが、「あなたの感想ですよね?」と言われたら否定できない文章ですし。かと言って途中で止めたら自分の中で気持ち悪いからと書き進めたわけで、ちゃんと書き終えたことに意義を見出したいよ、私は。
 
 そろそろ本当に最後にしよう。結局、こんなクソ卑屈間違い人間が現実で社会から道を踏み外して他人様に迷惑をかけないように、ギリギリのところで縛りつけているのが娯楽だ。そしてこんなクソ間違い陰険独り善がり人間が、クソ長自己中怪文書をネットに上げるという間違いを起こし易くするのがネット社会なのだろう。
 
 私の中では最初に好きになったアイドルと漫才師として嵐とNON STYLEという二大巨頭が存在しているのだけれども、大野くんも石田さんも辞めたかった人なんだよなと思うと、私の青春は辞めたかった人が辞めなかった結果形作られたわけで、だいぶ業が深い青春だ。ファンはやっぱり彼らの人生を搾取して生きているんだなと思う。表舞台に立つ人の人生を食い物にしているファンという存在も、やはり加虐性を持っているんじゃないだろうか。
 
 私は大野くんや石田さんみたいに何かをやり遂げたわけでも、大切な存在を守り通したわけでもない。他人の人生を糧に生きているのだから、二人に習って何かを得るまでは、今の場所で頑張ってみようと思う。
 
 では、今後も何か問題に直面しては、揉める人たちを遠巻きに一人で考え、結局間違い続けるであろう自分へ、戒めの言葉を記して終わろう。

「さっき、あなたを責めるようなことを言ったけれど・・・・・・、俺にだって、宇奈木の気持ちが、ちゃんとわかっているわけじゃないんだ。(中略)そのことについて、どんな感想を持てばいいのかわからない。・・・・・・こんな結末も、『面白いことを考える人がいるなー』で、片付けちまって、いいのかな?」
「駄目ですよ。現実ですから」
 ずっと、悩んでいてください。

(西尾維新 「掟上今日子の挑戦状」 より)

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