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394明治初期の日欧火葬事情

日本は火葬の面では先進国、ヨーロッパは途上国である。それはなぜか、歴史的な視点で分析する。

A:明治新政府は1973(明治6)年7月18日、太政官告示で火葬を全面的に禁止した。
B:ほぼ同時期の1876年、イタリア、ミラノ記念墓地の一角に近代ヨーロッパ最初の(いわゆる野焼きではない)近代的火葬場が作られた。
これらは奇異な感じをさせるできごとだが、どのように理解すべきだろうか。諸説あるが、正解は次のようなことであったと考えられる。

A:まず日本の事情について。江戸時代の日本では火葬がかなり優勢であった。江戸幕府は宗門改めで全国民に仏教を強制していたが、仏教は火葬を容認する。土葬は葬儀主催者が火葬の燃料を工面できない場合に多かった。
新政府は廃仏毀釈運動を起こし、儒教や神道を推奨しようとした。それら宗教では火葬は好まれない。それが先の火葬禁止令になった。
B:ヨーロッパはキリスト教社会である。復活の観点から遺体を故意に損傷させる行為は忌避される。このためほぼ全数が土葬であった。
こうしたなか古代ギリシア、ローマの人間性復興を求めるルネサンス運動の発展形として火葬復活を求める者が現われるようになった(彼らは火葬をルネサンスの一環と主張している)。火葬には当時の疫病発展を踏まえた医学者が同調した。

その後の状況について。
A:火葬禁止令は唐突であり、また国民感情にも合致せず、まったく受け入れられなかった。火葬を行う寺院等が『火葬便益論』を政府に提出しているが、その要旨は、焼骨であれば死者の郷里への搬送が可能で祖先の墳墓に収めることができるといったことであった。これが国民の意識を代弁している。
世論に押され、1875年5月23日、火葬禁止布告が取り止めになった。政府は火葬場の設置基準の通達を出すなど容認姿勢を鮮明にしており、大都市では土葬の禁止令を出している。例えば同年9月の京都府の指令では「市街区域寺院等にこれある従前存在の墓地、今より埋葬禁止候事。但し火葬遺骸の分に限り埋葬苦しからず候事」(カタカナをひらがなにするなど表記を現代風に改めた)。東西本願寺が1878年に本格火葬場を建造、宗派を問わず受け入れ始めた。
B:ヨーロッパでは、火葬推進者は衛生上の理由を述べる医学者のほかには無神論者や反カトリックの立場の者であり、カトリックの総本山であるバチカンの怒りを買い、1886年以降繰り返し火葬禁令が出された。このためキリスト今日の教義には火葬禁止はないものの火葬はしばらく普及しなかった。バチカンの火葬解禁は1963年まで行われなかった。

日本では火葬がほぼ100%であり、ヨーロッパではさほどではないのは、以上の歴史的理由による。

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