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『学習する社会』#10 2.知ること 2.2 知るための媒体 2.2(1)媒体としての身体 (研究的なシリーズエッセイ)

2.知ること

2.2 知るための媒体

『学習する社会』#7~9では、ポラニー(1966)の暗黙知の議論(主として自律的に知る議論)とギブソン(1979)のアフォーダンスの議論(主として他律的に知る議論)に基づいて、「自律と他律の相互作用によって我々が知る」、ということの論考を進めてきた。今回からは、自律と他律の相互作用の焦点にある「知るための媒体」へと議論を展開しよう。

ギブソン(1979)が提示したアフォーダンスの概念を用いて佐伯(1990)は知ることの議論をさらに展開している。例えば、壁から釘が出ていてそこに服を引っかけて破いた人は、その釘から服を引っかけて破くというアフォーダンスを引き出す。そのアフォーダンスが次からはその釘を避けて通るという行為を触発する。佐伯は環境は行為を触発するという意味で行為的アフォーダンスの集合であるとする。行為的アフォーダンスの概念は環境⇒行為という行為の他律性を説明している。

同時に、そうした環境を我々は道具を用いて変えることができる。そこに金槌があれば我々は服を引っかけて破くというアフォータンスを消滅させるための道具として金槌を使用し、釘を壁に打ち込むことができる。金槌がなくとも、石ころでも文鎮でも、服を引っかけて破くという釘のアフォーダンスを消滅させる道具として使えるものであれば、それを使用して我々は釘を壁に打ち込む。道具によって環境のアフォーダンスを変えることができる。このとき、我々は石ころや文鎮から釘を打ち込むための道具として使えるという道具的アフォーダンスを引き出している、と佐伯は主張する。道具的アフォーダンスの概念は、道具を使う行為によって環境を改変するという意味で行為⇒環境という行為の自律性を説明している。

環境の要素Aの存在/状態(釘がでている壁)がそれを認知する主体の行為(壁の釘を避ける動き)を誘発するとき、環境の要素B(こぶし大の石)を用いて要素Aを改変(釘がでていない壁)すれば、以前誘発されていた行為(壁の釘を避ける動き)は誘発されなくなる。要素Bを用いた要素Aの改変行為によって、我々は要素Aの当初の性質(服を破く)の可変性について知ることができる。環境の要素Bの道具的アフォーダンスを引き出すことによって、環境の要素Aについて知っている内容を拡大/修正できる。このとき、環境の要素Bは環境の要素Aを知るための媒体となっている。

(1)媒体としての身体

暗黙知の中核的主張の一つである知の獲得に関連して、ポラニー(1966)は個人的な知識の基礎である身体について次のように述べ、身体を知るための究極の媒体と位置づけている。

知的であろうと実践的であろうと、外界についての我々のすべての知識にとって、その究極的な装置は我々の身体である。我々が目覚めているとき、外界の事物に注目するためには、いつも我々はその外界の事物と我々の身体との接触について我々が持っている感知に依拠している。我々が普通は決して対象として経験することはなくても、いつも我々が発する注目の出発点をなしているもの、また注目が向けられている外界という形をとって間断なく我々が経験しているもの、それはこの世界の中で我々の身体をおいて他にありえない。我々が自分の身体を外界の事物としてではなく、我々の身体と感じるのは、このように身体を知的な活動の装置として用いることによるのである。

ポラニー(1966)、訳書p.32。

我々は知る対象【環境】と知る主体【内的世界】(個々人の意識世界)をつなぐ媒体として常に身体を必要とするが、我々は日常的にはその身体を意識していない。環境を知るための究極の媒体である身体は日常的には境界化している(図表の左図)。

図表 媒体としての身体と知る対象としての身体

知る対象としての身体

他方、我々の身体は我々が知ろうとする対象でもある。例えば怪我をして身体が思うように動かないとき、我々は怪我をした身体を意識する(図表の右図)。人差し指を突き指して指が腫れ上がり曲がらない状態で箸を使おうとするとき、曲がらない人差し指はもちろん他の指や手のひらなどにも意識を集中する。身体そのものを意識することで、自分の身体は知る対象として環境の側に置かれる。そうして、箸を使う際の曲がらない人差し指の動かし方や人差し指に変わる中指・薬指の動かし方を知ることになる。

身体へ意識を戻すことによって、我々は注目した身体の新たなアフォーダンスを引き出すことができる。例えば、中指の「曲がらない人差し指を代替する性質」を引き出すことができる。あるいは、人差し指の「曲げなくても箸を支えられる性質」引き出すことができる。身体の新たなアフォーダンスを引き出せば、我々は新たな身体(人差し指を突き指した身体)は再び境界化され、新たな身体が環境を知るための媒体となる。乳児の意味のないような身体の動きは、身体を知るための相互作用でもあり、それによって身体が境界化されていく。

身体の拡張と道具の拡張

我々にとっての最初の知る対象は自身の身体であり、それを知る過程の中で身体は境界化し、透明化していく。そうして、身体は知るための最初の道具となり、我々は透明化した身体を通してその環境を知ることができるようになる。我々は、より身近な知る対象を境界【道具:知る媒体】として、その向こうにある環境について知る。道具を通した向こう側にある環境の事物から道具的アフォーダンスを引き出すとき、我々はその事物に頼り、その事物の向こう側について知ることになる。我々が日常的に道具と呼んでいるものは身体を通して感知した、道具的アフォーダンスを持つ環境要素である。我々は、身体の外にある道具を使うことで身体だけの場合よりも行為の幅を広げ、知を広げることが可能となる。道具の使用が知の拡大を可能にする。

暗黙知の議論は、知ることにおいて内的世界と外的世界の境界に位置する身体の重要性に光を当てている。同時に、その身体が日常的には意識されておらず、知るための媒体である【身体(道具)】が境界化されていることをも示している。我々は【道具】を境界化して環境について知り、道具的アフォーダンスを引き出せた環境要素を新たな【道具】として意識し、それを境界化していくことで自身からより離れた事物を知ることになる。

今回の文献リスト(掲出順)

  1. Gibson, James J. (1979) The Ecological Approach to Visual Perception, Houghton Mifflin. (古崎敬/古崎愛子/辻敬一郎/村瀬旻訳 (1985) 『生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』サイエンス社)

  2. 佐伯胖/佐々木正人編 (1990)『アクティブ・マインド-人間は動きの中で考える-』東京大学出版会。

  3. Polanyi, Michael (1966) The Tacid Dimension, Routledge & Kegan Paul. (佐藤敬三訳 (1980) 『暗黙知の次元:言語から非言語へ』紀伊國屋書店)

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