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研究的なシリーズエッセイ 『学習する社会』#1 シリーズエッセイを始めます

シリーズエッセイを始めるにあたって

日常生活では、ほとんどの物事を「当たり前」として、その「当たり前」を強固だと思っている。しかし、「当たり前」は意外にあやふやで、局所的である。当たり前としての「常」は最初から「常」ではない。最初は「異」であったものが「常」に変化し、「常」が「常」である範囲も変化する。

例えば、半世紀近く前の1979年に発売されたウォークマンは、いつでもどこでも私だけでテープに記録した音楽を楽しむ環境を始めて提供した。その後、記録媒体はテープからMD、 HD/メモリーへと変化し、音楽の入手方法も購入・録音、レンタル・変換、購入・ダウンロードと変化し、音楽を楽しむためのウォークマンのような専用機利用からスマホのような汎用機利用へと変化してきた。「異」⇒「常」⇒「異」⇒「常」・・・が繰り返されてきたのである。

このように「異」が「常」に変化し、「常」が広域化することは、流行・普及による社会変化であり、イノベーションと言えよう。イノベーションとは本質的に社会的な営みであり、知識を生み出し、知識を社会の中に広げ、社会において知識を活用する営みである。このようなイノベーション観に立脚すれば、イノベーションは社会的な知識が変化する学習過程と言うこともできよう。

学習の議論はまず個人の学習を起点として議論が展開されてきた。認知心理学において、学習は「生活体の内部の知識構造、すなわち、スキーマの経験による変容」とみなされている。個人の学習のアナロジーとして組織の学習に関する議論も展開されてきた。そして「組織の学習」の議論には、組織「」学習する(学習主体が組織)のか、組織に所属する個人「」学習する(学習主体が個人)のかという学習の主体についての議論がつきまとってきた。私は純粋に個人だけが学習することはないと考えている。

誰かの学習は、それを前提とする他者の学習を引き起こす。それは集団や組織にも波及し、引いては、社会にも影響していく。ある組織の学習は、関係する他の組織の学習を引き起こし、組織間関係の水準の学習も進行する。個人も組織も学習する上に、社会も学習すると考えてみてはどうだろう。この「学習する社会」という見方は、社会の中の多階層の知識変化が相互作用しながら各階層で学習が進展する考える見方であり、マルチレベルで学習を分析する見方でもある。

このシリーズエッセイでは、「学習する社会」に関連する私の考えを少しずつ書いていきたい。最初に、個人の学習理論から出発して、システム一般の学習過程論に話題を移し、その上で、マルチレベルの知識変化をあつかうための「社会知」の概念を紹介したい。次に、社会知の変化をテキストマイニングで観察する手法を紹介し、その手法で観察される変化と事例研究や統計で見いだされる変化と対応させ、社会知の変化とイノベーションとの関係を述べていきたい。最後に、「学習する社会」という枠組みで現代社会を理解する応用的議論を紹介したい。

2024年5月26日

アップ済みのシリーズエッセイ

#2   イノベーションから学習へ ~「当たり前」について~
#3   イノベーションから学習へ ~イノベーションについて~
#4   イノベーションから学習へ ~社会変動について~
#5   イノベーションから学習へ ~学習する社会という視座について
#6   イノベーションから学習へ ~「研究的」という立ち位置~


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