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『学習する社会』#13 2.知ること 2.3 することについて (1)意図的な行為 (2)回顧される行為 (研究的なシリーズエッセイ)

2.知ること

2.3 することについて

ポラニー(1966)の暗黙知の議論においても、ギブソン(1979)のアフォーダンスの議論においても、さらには佐伯(1990)の道具を通して知る議論においても、「知る」ことは常に「する」ことを必要としている。少し迂遠うえんではあるが、すること行為】の吟味を通じて、知ること、学ぶことについての議論を深めたい。

さて、行為という用語は社会学などにおいて専門用語のように用いられてはいるが、特に定義されることは少ない。その上、その内容は分野によって、あるいは論者によって異なっている。哲学や社会学では行為は重要な用語として扱われるが、心理学では行為よりも行動という用語を重用する。経営学や組織論の分野では行為も行動も用いるが、それらの概念にまで遡及そきゅうする議論はあまりなされない。

(1)意図的な行為

生じたことと為したこと

日常的な語としての行為は「人が何かをする」ことである。日常的な用語法では、改まった定義の必要はないだろう。しかし、哲学者のデイヴィドソン(D.Davidson、1980)が指摘するように、日常的用語法では生じたことと為したことの区別は曖昧である。

今朝、私は、誰かのヴァイオリンを練習する音で[目覚めさせられた]。私は少しの間<まどろんで>から、「起きあがり」、「顔を洗い」、「髭を剃り」、服を着て、「階下に降りていき」、通りすがりに玄関の「明かりを消した」。私は自分で「コーヒーを注ぎ」、台所の[敷物の端につまずき]、『ニューヨークタイムス』に手を伸ばしたときに「コーヒーをこぼした」。

デイヴィッドソン(1980)、訳書p.64、
「 」・[ ]・( )はデイヴィッドソンの記述に対応して筆者が加筆。

デイヴィッドソンは彼が為したこととして「 」部分をあげ、彼に生じたこととして[ ]部分をあげ、境界事例として< >部分をあげている。デイヴィッドソンは意図性によって行為を識別していくが、知る・学ぶという「学習する社会」の視点はもちろん欠いている。

投企された行為

今日の社会学の主要な枠組み、社会学としての問題への接近方法・問題の見方、の一つをなしている現象学的社会学では、日常の生活世界の探究が試みられてきている。シュッツ(A.Schutz)が切り開いた現象学的社会学では、生活世界を構成する主要な要素として行為が重要な概念となっている。

シュッツ(1970)、はあらゆる種類の主観的に有意味な自発性の経験を行動と呼ぶ。そこには、習慣的、伝統的、情動的な無意識的ではあるが有意味な経験も含まれている。シュッツの言う「意識的」はどのように行動するか前もって考えられて【投企されて】おり、その前もって考えた投企を意識して行動することを意味している。単に意図があるというより詳細な内容が意識的という表現に込められている。

(2)回顧される行為

生き生きとした経験と有意味な経験

有意味な経験は「生き生きとした経験」とは区別される。生き生きとした経験では今という時が一方向的・不可逆的に進行し、多様性から多様性へ絶え間なく進む。その中で、様々な経験が明白な境界もないまま次々と生じていく。生き生きとした経験はいわば現在進行形の経験である。今この記事を読んでいる状況では、記事を読んでいると同時に、何かしら他のものも見ているし、何かしら音を聞いているし、何かに触れている。五感を通じて入ってくる多様な脈絡の多様な刺激すべてが今という現在進行形の経験を形成している。

それに対し、回顧のまなざしで注意を自らの経験に向けるとき、人は境界のない今に身を置いているのではなく、把握され、識別され、際立たせられ、互いに区別された時間的には過ぎ去った経験を振り返っている。記事を読んでいたときを回顧する際、その時に聞こえていた音、記事意外に見えていたもの、触れていた感覚、等々の多くは捨象され、記事を読んでいたという経験だけが浮かび上がる。「有意味な経験」という概念は、回顧するまなざしにとらえられ、他から区別された経験を指している。有意味な経験は常に現在完了形あるいは過去完了形の経験である。

もちろん、「生き生きとした経験」はすべてが「有意味な経験」に転換されるわけではない。筋肉の緊張・弛緩、苦痛、快楽、喜び、悲しみ、嫌悪など、それらを経験したことは分かっていてもその経験そのものを回顧的に再現できない経験はシュッツのいう「有意味な経験」には転化されない。

行動と行為

シュッツの議論においては、思考は身体を動かさないという意味で内的であるが、それが有意味な経験となる限り行動と呼ばれる。他方、たとえ身体を動かしていても、泥酔時の動作のように記憶に残らず、回顧のまなざしでとらえられない動作、有意味な経験にならない動作は行動とは呼ばれない。

こうした行動の定義に基づいて、前もって頭のなかで考えられた行動、すなわち投企に基づく行動が行為と呼ばれる。投企とは、想像による未来の行動の予期であり、同時に予期される実行の意図によって動機づけられた想像である。正確ではないが、「する」という意志のある計画と読み替えることもできる。また、投企はすでに自分が知っている現実に制約されるものであって、手を羽ばたいて空を飛ぶというような現実を無視できる想像とは区別される。

シュッツにおいては、投企された行動が行為とされ、それには内的なものも外的なものも含まれている。内的行為は白日夢のような想像ではない。筆記用具がない時に、暗算をしたり、子供の質問に答えるために問題を筆記しないで解いたりするような、投企された思考過程が内的行為である。内的行為【投企された内的行動≒思考】にも投企を実現しようとする意図がなければならない。なお、シュッツは外的と内的(動作か思考か)とを区別するために、外的な動作を伴った行為を働きかけと呼んでいる。

シュッツの行為概念

シュッツの議論で行為は、図表に示されるように、目的を達成するために未来についての出来事を想像【投企】して、その想像した内容を実現しようとして【意図】、何か【働きかけ・思考】をすること、である。この考え方に従えば、デイヴィッドソンが為したこととして列挙している「起きあがる」「顔を洗う」「髭を剃る」「階下に降りる」「コーヒーをこぼす」はすべて行動であるが、必ずしも行為とは限らないことになる。

図表 シュッツの行為概念
シュッツ(1970)より筆者作成

今回の文献リスト(掲出順)

  1. Polanyi, Michael (1966) The Tacid Dimension, Routledge & Kegan Paul. (佐藤敬三訳 (1980) 『暗黙知の次元:言語から非言語へ』紀伊國屋書店)

  2. Gibson, James J. (1979) The Ecological Approach to Visual Perception, Houghton Mifflin. (古崎敬/古崎愛子/辻敬一郎/村瀬旻訳 (1985) 『生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』サイエンス社)

  3. 佐伯胖/佐々木正人編 (1990)『アクティブ・マインド-人間は動きの中で考える-』東京大学出版会。

  4. Davidson, Donald (1980) Essays on Actions and Events, Oxford University Press. (服部裕幸/柴田正良訳 (1990) 『行為と出来事』勁草書房)

  5. Schutz, Alfred (1970) On Phenomenology and Social Relations (Edited by Helmut R. Wagner), University of Chicago Press. (森川眞規雄/浜日出夫訳 (1980) 『現象学的社会学』紀伊國屋書店)

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