書評:『創造外科 現代イタリアSF短篇集』(ヴィットリオ・カターニ他、イタリアSF文庫)
日本において、非英語圏の商業SF作品は英語圏のものに比べて入手しづらい状況が続いている。とはいえ、非商業的な同人誌による紹介は着実に行われており、今回取り上げる『創造外科 現代イタリアSF短篇集』もSFファンの同人翻訳による本である。
この本には6人の作家の作品が7作収録されている。この7作について、収録順に紹介する。
最初の作品が、ヴィットリオ・カターニの「外国人」。キリスト教をモチーフとしたごく短い作品で、スケールの違うふたつのものが出会う異質さが読みどころだろうか。正直、ピンとこない作品だったので印象が薄い。ただ、語り口が違うということは感じられた。登場人物の名前がイタリア人の名前なだけで、意外と異国感は立ち上がってくる。
エマヌエラ・ヴァレンティ―ニ「ディーゼル・アルカディア」は、飛行船の飛び交う世界でガール・ミーツ・ガールを、そしてガール・ミーツ・ボーイを描いたスチームパンク的な作品。明確にジブリ作品をなぞったというわけではないのに、なぜか不思議と宮崎駿っぽい雰囲気なのが印象的だ。飛行船の飛び交う空の下で少女と少年が出会うなんて、宮崎駿作品を連想せざるを得ない。異国情緒漂う作品でありながら、どこか日本らしさを感じる部分もあり、イタリアSFがこれまで読んだ英語圏のSFとは全く違うのだということを実感した作品だった。知らない町を歩いていて、故郷の町と似た街並みの中で全く知らない人たちが生活を送っている、そんな感覚がした。
フランチェスコ・ヴェルソ「二つの世界」は遠い未来の世界を断片的なテキストをつなぎ合わせて読んでいく作品。冒頭部から感じられる通り全体的にファンタジー寄りの描写の多い未来世界を描いたテキストを、過去のテキストも併記することで科学的に補佐することでSFとしての厚みをもたせている。未来世界の描写にはオールディス『地球の長い午後』のような広がりを感じたので、個人的にはもうひとひねりあるともっとよかった。隔たった二つの時代を繋ぎ合わせただけに留まってしまったか、というのが正直なところ。
ロレンツォ・クレシェンティーニ「ランナー」はチェルノブイリ原発近くの廃墟となった街、プリピャチが舞台。プリピャチにある”裂け目”からやってくる謎の駆動体”ランナー”を監視し、撃破する任務を負った兵士たちが主人公。話の内容自体に目新しさや示唆的なものは感じられないが、語りの上手さに引き込まれた作品だった。荒廃したプリピャチの街で動くのは人と謎の”ランナー”だけ、生きているものと生きているかどうかも定かでないもの、そのふたつの対比が印象に残っている。
再び登場したヴィットリオ・カターニの「ある人間の物語」は、読むのに苦労した作品。読み通してあとがきを読んだときはじめて状況が飲み込めた。なので正直この作品も印象が薄い。残念ながらこの作家との相性が良くなかったのではないか、という感じがする。
いちばん衝撃的だったのがマッシモ・スマレの「カレーナ」。砂漠を走る船を駆る少女ヤレーとその船<カレーナ>を通じて荒廃した世界を見る無常で詩的な作品。ヤレーが生きた少女を鉤で引き揚げてからの展開が強烈に焼き付いている。一作読み通せば、その展開にならないと作品全体の無常観、超越性が台無しになってしまうことは明白なのだが、それにしてもあそこまで登場人物に割り切った行動をとらせるものなのかとすっかり読みいってしまった。
本作はダリオ・トナーニの連作短編集『モンド9』と世界を同じくする、いわばシェアード・ワールド作品にあたる。『モンド9』は邦訳がシーライトパブリッシング社から刊行されている。
最後を飾るのがクレリア・ファッレスによる表題作「創造外科」。薬物・外科手術によるグロテスクな身体改造がはこびる世界で、これまたグロテスクな”創造外科”を主軸に話が進むのだが、そのグロテスクさが心地よい。グロテスクさが自分自身の存在の強調、ひいては不安に繋がるという構造が利いている。祖先から受け継いだアイデンティティの否定、そしてバイオメカトロニクスによる肯定と、対立構造が強く表れ、互いに強め合って非常に面白かった。
収録作全体を通して感じたのは、イタリアSFは生命に対してストイックというか、それだけに拘泥しないというような姿勢だった。生死に対して大局的な視座をもち、冷酷というよりも冷淡・淡白といった視線で、生死の先にあるものを見つめている感覚があるのではないか。(もしかしたらそういう作品が集められているのかもしれない。イタリアSFには初めて触れたので、私の勝手な考えだ)
書誌情報
『創造外科 現代イタリアSF短篇集』
イタリアSF友の会、イタリアSF文庫(同人誌)、2018/7
ヴィットリオ・カターニ他/久保耕司 編・訳
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