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ボルタンスキーのこと

昨年東京でクリスチャン・ボルタンスキーの大規模な回顧展があり、その展示を思い返しつつ図録を読んでいる。彼の経歴と作品の変遷を追っていくうちに、自分がこの数年ぼやぼや考えるようになったこととリンクする部分が多くある気がした。突き詰めていけば、育った時代背景の違いからか少し違和感を覚える部分もある。無名の人々の、歴史に埋もれていく死をどう捉えるか。

旅をしていたとき、幅広くヨーロッパ(キリスト教圏)において、顔のイメージを並べたがる傾向があることに気がついた。教会には一般人の小さな顔写真を並べてモザイクで表現された大きなキリストのパネルがあり、新聞のお悔やみ欄には顔写真が掲載され、ベルリンの壁の跡地には錆びた鉄の格子の一つ一つに犠牲者の顔写真がはめ込まれたモニュメントがある。東欧にあるKGBの博物館でも入ってすぐそれだ。とにかく無数の顔がグリッド状に並んでいる。ボルタンスキーが初期の頃あのようにホロコーストを連想させるようなやり方で無名の人々の顔のイメージを並べたのには、そういう文化的な表現の背景があったのだろう。目や口が黒く広がるように滲んだ笑顔とも悲しみともつかないような表情の、幽霊のような子供たち。それから神の指(=クレーン)に軽くつままれては落とされる大量の古着。

歴史という大きな記憶の中に埋もれた小さな記憶を何らかの形で掬い上げたい、という根本的な思いはある程度普遍的なものであり、共感しやすい。ただこの場合の「何らかの形」を一個人が成立させることほど難しいこともない。対象が<死者たち>ではあまりに漠然としすぎている。時期や範囲に制限を設けていったとしても一個人が余すところなく膨大な死者一人一人について取材することは到底できない。ボルタンスキーの方法に実在した個人を尊重しようとする意思があるかといえば、そこはフィクションとの境をあえて曖昧にし、全ての死を抽象化することでパスしているようにもとれる。わずかな顔の特徴を剥ぎ取り、一つ一つ異なる死を定量に還元して見せる。それぞれに物語があったであろうAの死もBの死も彼の手にかかれば等しく古着一枚、顔写真一枚、ブリキの空の箱一つ、電球一つということになる。長い長い歴史の中においてはこの無情ともとれる存在の等価値性こそが実際のところに近いのですよ、ということを神の目線から提示しているかのようだ。定量に還元されたからこその凄みはある。命をそのように扱ったホロコーストに対する痛烈な批判であろう、大量の古着を並べたインスタレーションの圧倒的な量の力には戦慄させられる。
しかしこういった表現の仕方には批判の余地もある、すなわちどのような無名の生も等しく"死んでしまったもの"としてその奮闘に光を当てず、すべてひっくるめて個人的な感傷のたらいに漬け込んでしまう可能性を孕んでいる。ホロコーストで死のうがスイス人として死のうが、そして多分津波や地震で死のうが、この表現世界においては"死んでしまった、弔われるべきもの群"の数字に一を加えるにすぎない。そのような扱いは、過剰に冷たくもあり過剰に感傷的でもある。名前を伏せ顔をぼかすということは、個々の死から固有の重力を奪うということだ。彼の作品内で扱われているのは、死者というより亡霊のように仕立てられた存在といったほうがふさわしい。
一般的に、人は亡霊に社会性を認めていない。亡霊同士がコミュニケーションを取るとは考えない。それらは情念の残滓、エコーのようなものだと見なされている。死者を亡霊のように仕立てる(虚構化する)手続きとは、<重力>すなわち個別性と社会性を剥ぎ取り、代わりに任意の<エコー>を与えることだ。エコーは自らを反復し続ける閉じたものなので、互いに干渉し合わない。それらはでたらめなささやきであり、でたらめなささやきの総体というのはある意味沈黙よりも静かで穏やかなものだと思う。ボルタンスキーの作品は死を扱っていながら、その表現世界に在るのは空虚なエコーを与えられた亡霊であり、かえって個別具体的な死の重力からは自由な面もある。これは勝手な印象だが、ボルタンスキーの作品を好きな日本人は多いように思う。それは彼の作品の一部における死の表現が、魂を蛍になぞらえ、はかない蛍の飛び回る光景を愛する日本人の情感にどこか近いところがあるからではないか。漠然と寂しいね(そうだね)、漠然と綺麗だね(そうだね) という、互いに害し合うことのない浮遊的な世界。それはあまりに大きい不条理に接してなお信仰を持たずにいようとする人の行き着く態度の一つなのかもしれない。私は今は否定も肯定もできない。

終戦から70年以上が経過し世界大戦の記憶が風化しつつある時代に差し掛かった2000年代以降、ボルタンスキーは芸術祭などで地域性を生かした作品を作っており、そのうちのいくつかは二つのグループに分けられる。
一つは<架空の地(準-架空の地)> 。 どこかにそういう場所があったことだけ記録として残っていればいい、実際に訪れる必要はない、思いを馳せるための聖域のような場所。かつて発せられた光だけが地球に届いているが今も存在しているかは不明な、何千光年も遠くの星のような。いつか神話や伝説として語られるような。(アニミタス : 雪景色の荒野で鳴る、いつか自然に還る無数の風鈴)
もう一つは<巡礼地> 。実際に訪れてかつて存在した他者とコミニュケーションを取るための場所、半永久的に稼働し生の記録をアーカイブし続ける機関。地上に自分の爪痕を残せる場所。(直島の心臓音のアーカイブ : 増え続ける来場者たちの心臓音のストック)
あらゆる宗教から一切の教義を抜きとった上で最大公約数を求めたときの宗教的な場を想定するなら、この二つに大別できるのかもしれない。(準)架空の地と巡礼地、個人的に思いを馳せる場所と爪痕を残す場所。象徴的な存在も善悪を規定する教義もなしに、それでも人がそういった特別な場を必要とするなら、その場所は何をもって設定されるのだろう。
野良十字架の写真を撮りながら、この続きをまだ考えている。