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わたしは巨大建造物になりたい

かなり前の話であるが、巨大仏巡りにハマっていた時期があった。
今でこそ直接現地に赴く機会はほぼ無くなってしまったが、時折巨大仏の写真集や書籍を眺めて満足している。

※その大仏関連書籍。ワンダーJAPAN謹製の大仏学習帳は書籍というかただのノートだが、私にとってはお宝のひとつだ。

元々、巨大仏という存在に興味があった。
きっかけはJR東海道線に乗っている際に、大船駅周辺の車窓からぬるりと現れるデッカイ観音様、大船観音だった。
山の中からニョキっとのぞくあの存在が無性に気になって、実際に大船駅で降りて拝みに行った。

そして感じた、実際に間近で拝む大船観音は印象が違う。

車窓から唐突に現れる姿はどこか異質で、景色の調和とかそういう概念を無にするようなその存在感に、脳がバグるような不思議な感覚に陥った。

しかしいざ目の当たりにすると「ここに存在するのが当たり前」という重厚な説得力があった。
それほどまでの堂々とした佇まい。

街の光景に馴染む事なくドカンと違和感を発揮する巨大仏。
間近で圧倒的なパワーと威圧感を放つ巨大仏。

その二面性に興味を持った頃、書店で「晴れた日は巨大仏を見に」に出会い、迷わず購入した。

※ちなみにアフィではありません。クリックしても私に一銭も入らないです。

驚いたことに、著者である宮田氏も巨大仏に興味を持つきっかけの一つとしてこの大船観音を挙げていた。
利用者数の多い東海道線において、大船観音の放つインパクトは多くの乗客の脳裏に焼き付くのだろう。

この本では、

巨大仏旅行の目的とは、「巨大仏のある風景」をただただ味わうことである。(中略)
むしろ知りたいのは、なぜ自分はこんな風景に惹かれてしまうのか、あるいは巨大仏のかもし出す奇妙な味わいの正体は何か、ということのほうである。(第1章 牛久大仏 茨城 より引用)

とはっきり明言されており、私が先述した巨大仏の二面性のうち前者にのみスポットを当てた内容となっている。

常人には、それがそこにある必然性がまったく感じられず、それどころかその存在が周囲とあまりにズレているために、笑いさえ発生してしまっているような風景。それが「マヌ景」である。
そして、私が気になる巨大仏のある風景も、そんな「マヌ景」のひとつなのである。
(第4章 加賀大観音 石川 より引用)

確かに、著者が「マヌ景」と名付けたそのぬっとした違和感やズレ、ともすれば理解不能な強引な風景こそ巨大仏における大きな醍醐味であると感じる。

日本一デッカイことで有名な牛久大仏や、街の風景に馴染まない違和感をまさに体現している仙台大観音をはじめとした全国津々浦々の巨大仏やその周辺のスポットを巡った記録が、同行者(主に編集者の方)との摩訶不思議なやりとりなどのエピソードとともにテンポよく書き綴られており、活字が苦手な私でもスッと読むことができた。

著者自身はあくまで「巨大仏のある光景」の違和感と面白おかしさに興味を持っており、巨大仏そのものを崇拝しているわけではない。
これは私の勝手な解釈なので違ったら大変申し訳ないのだが、終盤は巨大仏巡りにやや飽きている(というか各地で十分「マヌ景」を満喫したのでもう良いかとなっている)感じがうっすらと伝わってきて、これもまたリアルな旅行記だなと感じた。
巨大仏のもらたす違和感というのは、摂取しすぎるとその新鮮さが奪われていくのかもしれない。

この旅行記自体がもうだいぶ昔の話であるため、残念なことに今では閉鎖されてしまった場所もある。
恵山の涅槃仏は文庫版発売時点で既に取り壊されていたそうだし、高さ100mを誇る淡路島世界平和大観音も、老朽化のためついに解体工事が始まってしまった。

追記:こんなネット記事を見つけてしまった。

「迷惑大仏」「時限爆弾」と、散々な言われっぷりである。

巨大仏は、見たい時が見に行き時なのかもしれない。(どこかの家電芸人のような言い回しになってしまった)

◇◇◇

そして、この本を読んで思い出したことがある。
私は大学生の頃、小田急線沿いに住んでいた。
町田より西を訪れる機会はあまりなかったが、帰省の際などは乗り換え駅の小田原まで行く必要があった。
その際、強烈に印象に残った景色がある。

確か、愛甲石田駅か伊勢原駅付近だったと思う。
普通の町並みの中に、デッカくて重そうな建物がドーンと聳え立っていたのである。
のどかな風景に馴染まない、調和を拒否するような異物感。

※その建物の写真。ありがたいことにフリー素材として配布されていた。
建物単体だとわかりづらいが、この建物はかなりデカイのである。
画像:イメージガレージ様より

なんらかの公共施設?企業ビル?それとも宗教関係?
いずれにせよ、巨大仏と違って探訪するような場所ではない気がしてわざわざ見に行ったりはしなかったが、私はその風景を眺めるのを密かに楽しみにしていて、車窓からその建物が現れる度に心の中で「よっ!出たな!」と呟いていた。

そして今更ではあるが、この時抱いていた感情は「巨大仏のある風景」を見た時と共通するものがあるな、と感じた。

(建物について気になって調べたところ、愛甲石田にある「フォーラム246」という研修•会議施設だそう。)

※調べた努力の痕跡

巨大仏、そしてこの建物。
これらには、

周囲との調和?何それ?
浮いてる?ズレてる?それがどうした?

といった迫力と凄みを感じる。
そしてきっとこの世の中には、他にもそのような巨大建造物が沢山存在するだろう。

タイトルで述べたように私が巨大建造物のようになりたいと思ったのは、調和も迎合もせずにただそこに堂々と聳える、己とは真逆のその強さに憧れたからだ。

(本の趣旨とだいぶズレてしまい、感想文というよりただの自分語りになってしまった。読書の秋2021タグをつけていいものか悩んだが、折角書いたので付けます。)

◇◇◇

最後に、本を読んで実際に見に行った大仏の写真をいくつか残して終了とする。
かなり昔に撮ったものなので現在の姿とは違いがあるかもしれない。

↑まずは欠かせない、大船観音。
ふっくらと優しい微笑みは、車窓で垣間見る姿とは印象が違う。

↑ご存じ、牛久大仏。
台座を含めてではあるが120mという大きさなのだから、まさに巨大仏の筆頭だ。
「巨大仏がある風景」から、大仏そのものの迫力まで存分に堪能できた。

↑高崎白衣大観音。
なめらかな姿が神秘的だと思った。

↑私の地元静岡にある、うさみ大観音。
座像にして高さ50mを誇るとのこと。観音様といえば柔らかなイメージがあるが、このうさみ大観音はキリリとした印象を受けた。

↑千葉の日本寺にある百尺観音。これは「晴れた日は巨大仏を見に」には登場していないが、約30mの磨崖仏の迫力は圧巻であった。
(写っているのは私の後ろ姿。観音様の大きさがよく伝わると思う。そしてよく見ると服装が色々とダサいことには目をつぶってほしい。もう10年近く前の写真なので…)

ひとまずこんなところである。
こうしてまとめると、全然巨大仏見に行ってないな…

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