見出し画像

今、再び、村上さん②

やりきれない思いを抱えたとき、
あの子なら、なんて言うかなって、何人かの友達の顔が浮かぶ。

やりきれなさの根っこはきっと自分の中にあるから、そこを見つめようとする。でもそれができないくらいに、そのやりきれなさが立ちはだかる。
口にしてしまえば、中学生女子が言いそうなしょうもないことなんだけれど、でも、大人になっても、やりきれないものは、やりきれないし、自分ごととなると、しょうもないなんて思えない。

そんなことをぼんやり考えながら蕎麦を食べていたら、村上さんの、「風の歌を聴け」の女のことを思い出した。太平洋の海に浮かんでいただけの鼠と、腕がもぎとれるくらい二日と二晩、一生懸命に島まで泳いだ女の話。

そのやりとりを読み返したくて「風の歌を聴け」を手に取りボロボロの表紙を見たら、村上さんの本に夢中だった10代後半から20代のころは毎年夏が来るとこの本を読んでいたことをふと思い出した。
煙草とビールがあれば僕と鼠になれると思って、わたしは親友と、飽きるまで(飽きることはほとんどなかったけど)話し続けてぐーたらしていた。(当時は青春の無駄遣いだなんて思っていたけれど、いろんな意味で、あの日々はもう戻ってこない、かけがえのない時間だったと、過ぎた後で、思い知る。)

夏の終わりは、毎年、その夏その夏の、物悲しさがなんとなく漂う。「風の歌を聴け」を読み返して、過ぎた夏の気だるさや、ヒリヒリする気持ちを少し思い出した。

しかしここ数日抱えていたやりきれなさは、本を読み返したところで全然解決していないし、根っこの部分は見えてこない。
でも、女の言葉に、やりきれなさを許された気がした。

「私は腕がもぎとれるくらい一生懸命に島まで泳いだのよ。とても苦しくて死ぬかと思ったわ。それでね、何度も何度もこんな風に考えたわ。私が間違っててあなたが正しいのかもしれないってね。私がこんなに苦しんでいるのに、何故あなたは何もせずに海の上にじっと浮かんでいるんだろうってね。」
風の歌を聴け


一生懸命、泥にまみれながらじゃないとたどり着けない人もいるし、何もしなくても同じ場所にたどり着く人もいる。
鼠の言うとおり、人間は生まれつき不公平に作られているのだろうと思う。
できれば後者になりたいと思い続けてきた(思い続けている)けれど、結局毎回同じパンチをくらっている気もしている。

本を読んだだけでは何も解決しないのかもしれない。でも、わたしだけじゃないんだ、この女も一緒なんだ、と思えたら、物語に心が癒され始める。

解決を求めず、一瞬一瞬、何かに許され、癒されながら、生きていくのも、時に、悪くないのかもしれない。

その「何か」が、今日のわたしにとっては、村上さんの言葉たちでした。
そして美味しいお蕎麦にも癒されました。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?