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推しとの距離感〜幸福な推し活その2〜

先週の土曜日、松田聖子さんのコンサートに行ってきた。嬉しいことにツアー初日。1曲目のとある曲から、ずーーっと心を鷲掴みにされ、興奮しっぱなしの2時間となった。エネルギッシュで、かつ可愛らしい聖子さんの姿は私たち見る者にとてつもないパワーをくれる。そのことの素晴らしさにしばらくうっとりして、私は脳内である一つの結論を導き出した。「推しは、ひとたび表に出ればあんなに輝いて、自分にとって元気をくれる存在。舞台裏(ホントはどういう人か/プライベート)なんてどうでも良くない?」ということだ。表で光り輝いている部分のあまりの眩さに、ファンが窺い知りようのない部分は本当にどうでも良い気がしたのだ。

昔、亀梨和也さんがアイドルは舞台裏を必要以上に見せるものではない、とおっしゃっていたのを聞いたことがある。その時はまだ私も若かったので「亀ちゃん、プロフェッショナルなのはわかるけど、あえてカメラの前でそんな寂しいこと言わないでよ」と思ったものだが、まさにこれ。亀梨くんのいうことが、急に腑に落ちた。これは、常に世の中の好奇の視線に晒され続ける中、私人としての自分(亀梨和也)を確保するという意味合いと同時に、「表でアイドル亀梨和也としてファンをとことん楽しませるのだ」という彼のアイドルとしてのプライドの現れでもあるのだと思う。元来、表で輝く姿がファンにとっては一番の「供給」なのだから。週刊誌を含めたマスコミが、ゴシップを書き立てるのは昔からのこと。ゴシップは相手にしないとして、今の世にはSNSというものがある。ひとたびSNSを見ると、舞台裏めいたものは、おぼろげながら見えてきてしまう。たとえばSTARTOのタレントさんでも、SNSをやっている方は本当に多い。WEST.も最近、それこそ舞台裏が見えすぎてしまったことで少し騒ぎになった。あれもまさに、SNSがあったゆえに起きた出来事である。聖子さんはSNSをやっていないが、あまりにも「表で元気にアイドルをしている」以外の部分が見えすぎることには、デメリットも確実にある。SNSは、内容的には間違いなく「舞台裏が見えすぎてしまう」ことに一役買っている。そして、構造的にもSNSで四六時中推しの更新が見れる状況が現代にはある。それにより何となく推しを近くに感じている人が圧倒的に増えた。このことも、推しとの距離感が仲々難しい理由の一つかもしれない。

この難しい面が一番出るのが、グループ脱退や熱愛・結婚という報道が出た時だろう。その度にSNSには「これは人として一線を越えているのでは?」という書き方の意見や、愛ゆえの阿鼻叫喚が広がる。たとえばグループ脱退の際に見られる、ずっとやってきた仲間を捨てるのか、的な言説も本来は不健全ではないか。推しの人生は彼/彼女らのものだし、私たちはただなんとなくそのアイドルとしての一部を垣間見させてもらっているだけ。その一部が途方もなく甘美で楽しく、それが構造的に深入りを助長することは私も身に沁みている。だがそこは少し理性的になる必要があるだろう。私自身は、たとえ脱退しても、結婚しても心から応援してあげられる自分で居たい。私が大好きなのは、アイドルの彼らなのだ。彼らが何のために人生を賭して、アイドルであるかといえば私達を笑顔にしてくれるためである。あまりにも深入りしていると、その視点が抜けてしまう気がする。私はその大前提をしっかり噛み締めて、これからも楽しんでアイドルを追い続けたい。