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35年前の旅④西ドイツ・東ドイツで何があったか

 西ドイツから陸路で東ドイツを抜けて一路西ベルリンへ。
列車は西ドイツの国鉄ではなく、東ドイツのもので狭くて汚なかった。

 西ドイツの美しい緑の丘が続いたが、国境を越え東ドイツに入ると、その様相は一転。季節は間違いなく夏だが、いきなり冬になったかのような荒廃ぶり。当時謎に包まれていた東ドイツの現状をまざまざと見た気がした。
   写真はない。なんだか撮っちゃいけない気がしたのを覚えている。東ドイツの車掌が来て連行されて……なんて、当時はあり得ることだったし。

 しかも「通行ビザ」なるものが必要で、さらに運賃ではない「通行料」が53マルク、約4000円超。東と西のレート格差は覚えていないが、かなりだったはず。それを西ドイツマルクで支払わされ、ぼったくられ感バリバリだった。

 2年後の1989年、東ドイツはなくなるのだが、そりゃそうだろと思った。
ソ連にしても、東独にしても、実態はそんなに見えていなかった。あんなに軍事に金を投入し、オリンピックで金メダル量産の国である。生活水準が日本よりこんなに劣っている、とは思っていなかったが、百聞は一見に如かずであった。

 西ベルリンに入ると、違和感はなく、普通の都会であった。
 水族館で、温室から迷い出て、寒いよ~という感じのカマキリがいたので、ひょいと捕まえて温室に戻してやったら、周りの人が驚き顔。
 何て言う虫か、毒はないかと、質問される。ドイツ語と英語で軽く説明。
初めて見たのだとか。こちらもへえ…であった。

シャルロッテンブルグ城。たぶん。

 年の市と呼ばれるお祭りのような催し。移動遊園地でみんな遊んでいる。
広場ではオペラが開幕。さすがドイツ。見たかったが、もう夜だし、疲れ切っていたのであきらめた。

 翌日、トラムでエジプト博物館へ行き、美しいネフェルティティ像を見た。すごく疲れていてほかは覚えていないとか。その割には歩いて頑張っている。やっぱり若かったからね。
 その後ベルリンの壁に。長く続くベルリンの壁、西ベルリン側は芸術とも呼べるような鮮やかな色彩の絵が描かれていて、ちょこっと見えた東ベルリン側はコンクリートむき出し。緊張したのを覚えている。

 2013年に再び訪れたときには、歴史遺産として一部だけが残されていた。

西ベルリンと東ベルリンの境界「チェックポイント・チャーリー」

 さて、ベルリンを出たら、一気にミュンヘンへ。夜行が取れず、しかたなく昼間の電車。ミュンヘンへの最短ルートは東ドイツ国内が長くていやだったので、いったん西ドイツに入ってから南下した。
 ハノーファーから国鉄の特急インターシティーを捕まえる。快適。速い。ほとんど新幹線。
 ベルリンとミュンヘンと気温差がすごくて、長袖からノースリーブになった感じだった。
 ま、緯度を見てもらえば確かに。

 ミュンヘンは見所がたくさんだった。
まずレジデンツ。宝物館が閉まっていたとある。さぞド派手だったろうに。
赤ちゃんのミイラや骸骨に、キンキラの錦を着せて宝石で飾って、展示してあるのは趣味が胸糞悪いと思ってしもた。

 天井が描いてなかったり、ぼけていたりしたので、係の人に聞いたところ、戦争で溶けて? 修復しきれていないとか…。ホントかな。今ではどうなのかな…。
 2013年、このあたり確認するのをすっかり忘れてしまった。

 ニンフェンブルク城。博物館が6つもある。
広い城、広い庭。ルードヴィッヒ一世がかこった女性36人! の肖像画の部屋は……きれいだった。その他、深いプールがあったり、天井まで貝殻をはりまくってあったり、わざとボロに作ったとか、なんだかな~であった。
 馬車博物館には口あんぐりの私がいた。キンキラ金の明かりを掲げた人魚が先頭についてるだの、ドアに絵が描いてあるだの、この上ないケバケバしさ。

 人魚はかわいいお尻までがヒトだった、なんて書いてあるぞよ。

よ~く見てね。
口直し? のキンキラ

 商店街でまたコンタクトレンズ用品を買ったが、つたないドイツ語が功を奏し、生理食塩水3本がオマケに。嬉しいが重い、と書いてある。
 
 そしてついにジケンは起こった。
 有名なピナコテークという博物館の入口で、友人と何時間も大喧嘩をした。はぐれてしまい、やっと出会ったときには友人が激怒していて責められた。
 それまではプチぶつかりはあっても、基本的には私は黙って我慢していたのだが、この日は思い切り言い返した。吐き出した感じだった。
 結論は出なくて堂々巡り、疲れてやめたと書いてある。旅の疲れも出たかもしれないが、生涯、平行線なのかなとも思った。
 前にも書いたが、カルトに取られるようなタイプである。理屈はほぼ通じなかったのだ。
 
 この友人、つい最近、カルト宗教団体のイベントに誘ってきた。一緒にその道を歩きたいとか。「世の中のことは私たちの聖典にすべて書いてあるのよ」だそうで……涙。
 友よ、早く、目覚めよ!!!

  さて、友も普通だった過去のミュンヘン。
 郵便局でまた日本へ向けて物を発送した。このとき、一人のおっさんがドイツの郵便局の箱を組み立てていたが、信じられないくらい不器用で、さっと取り上げてパパパッとやってやろうかと思った。書いている住所を見たら、アルゼンチン。出稼ぎだろうか…。
 このころの西ドイツは、アラブや南米からの出稼ぎがとても多い時期だった。後に移民問題となる。
 日本の本格的な移民問題はこれからだ。西ドイツのこと、参考にした方がいいよね。失敗例も含めて。

疲れるとカフェで休んだ。

 鉄路、こんどはウイーンへ。ドイツとお別れ、しおしお気分だったっけ。



  
 
 

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