見出し画像

35年前の旅⑥ローマで何があったか

     さて、ローマである。

 オランダ~ドイツ(日帰りルクセンブルグ)~ウイーンとつなぎ、ローマから帰国する予定だ。
   落ち着いた国から来たので、ローマはガチャガチャぶりが目についた。
でも私にはそれがおもしろかった。友人はこわがって緊張していた。
 私にはウイーンは年配、ローマは若々しいイメージであった。

 さて、最初に駅で換金。当時の海外旅行ではトラベラーズチェックと呼ぶ小切手を日本で買って持ち歩き、その国の通貨に換金して使っていた。
持っていたのは、アメリカンエクスプレス社のマルク建てだった。当時の信用度ナンバーワンがアメックス社、ヨーロッパでいちばん強いのがマルクだった。
 ローマに入った時、おそらくチェックをほとんど使い終えていたのだろう。1万円札からリラを作ったら、ものすごい札束になってしまったのを覚えている。
 経済状況は今とは比べ物にならないくらい、日本は上だったしね。

バチカン。教皇謁見の日に集まった人々。手荷物検査があった。
バチカンの中庭

 さて旅の続き。
日本で予約したホテルは、予約バウチャーが使えないと言ったので、後日、帰国後に旅行会社に抗議してもらった。約束が違うだろと。

 また友人が寝込んでしまい、一人でお散歩に出た。お腹がすいたのでバルに寄って、あっま~いケーキとあっま~いオレンジジュースを注文、なぜか砂糖がついてきた。どんだけ甘いもの好きかと思った。
 
 そういえば、イタリアンは朝から、あっま~いものを食べるのに驚いたっけ。朝食がデニッシュ風のパンで、それをカフェオレなどにドボッと浸してからかぶりつく様子をホテルでよく見た。もしかして飲み物も砂糖入り?
 
 ちなみに、ウイーンまではそうではなかった。固い引き締まったパンに、バターかジャムかレバーペーストか、真っ黒なナンチャラ(後出)をぬり、コーヒーやジュース、卵が定番だった。これが私には妙に合って、今でもドイツパンは大好きである。日本でよく好まれる、バターかベーキングパウダーたっぷりの「ふわもち」パンはいらない。

 真っ黒なナンチャラ
    リコリス。35年のあいだに、日本にもぐるぐる巻きのグミがやってきているので、ご存じの方もかなり増えたが、当時は珍しかった。
 ドイツあたりでは、朝食のビタミン補給などと言ってペーストもあった。
 墨のように真っ黒で、得も言われぬまずさである。正露丸がいちばん近いかもしれない。あれを食べ続けられるなんて……味音痴だぞよ。
 帰国後、これでイタズラ。ちょびっとずつ配って、ゲッと言わせて遊んだのであ~る(^^♪

 さて、ローマのお散歩。
 近くの酒場で水を買おうとしたら、ないと。水はどこに売っているのだろう…スーパーかな。発見できず。寝込んでいる友人には甘いケーキのはしくれだけをあげたが、パクパク食べてありがとうと言ってくれた。

 今もそうだと思うが、ローマの水道水は飲めない。でも泉の水は飲める。
ローマ帝国時代から、遠くのきれいな水を引いているから。みんな泉の水を汲んで持ち歩くのだ。当時の私にはそれを知らなかったし、水の持ち歩きの習慣はなかった。
 
 交通ルールはあってなきもの。道を渡っていたのに車は止まらず、ボンネットに手をつくところまで来た。にらんでやったが、日本語でまくしたてればよかったかな。

 後々の知識では、イタリアの交通常識は日本とはエラく違うということがわかった。
 たとえば、車で、信号が赤へ変わった瞬間、向こう側にスペースはあっても、日本なら止まるよね。だがイタリアでそんなことをしたら、警官に叱られるとか。行けるのだから行け、ということらしい。極端だ~。

フォロ・ロマーノ(広大な街の遺跡)

 翌日。
 バチカンのピエタの前で、ローマで食事の約束をしていた友人夫妻にバッタリ。少し話していたら、神父姿の中年の日本人男性が思い切りなれなれしく話しかけてきた。
 しきりに「あぁ、今日は時間がないんだけどな~」などと独り言のように言って、いっきに彼のペースになった。友人の知り合いかと思ったが、友人は私の知り合いかと思ったそうだ。

 その後、夜まで、その神父さんに案内してもらうことになった。

 バチカンで、一般の観光客が入れない王の階段や礼拝堂に入れてもらい、新婚さんがいただくロザリオをもらい、昼食をお礼にしようと思ったら、おごってもらうことになった。そのとき食べたピザは、日本では食べたことのない美味しさだった。
 昼食後も、ローマ市内を案内してくださった。ローマはちょっと歩けば遺跡に当たるのである。神父さんはずっとしゃべりっぱなしだった。
 すべてを覚えていられない悔しさが残った。予習も足りないことを痛感。旅の前には、じっくり勉強した方が賢いと思った。
 
 神父さんはローマ市内にご自分が管理されている教会があり、ローマ教皇の日本訪問前の日本語教師という立場を「乱用」しているのだそうだ。日本で売っている、小型使い捨てライターや時計や電卓などの小物を、衛兵や係の人に渡し……まあ、ワイロだけどね……入れないところにちょっとだけ入れてもらったりしているのだ。
 なんとまあ、イタリアというか、カトリックというか……あはは。

 かっこいいバチカンの衛兵さんと写真を撮ることができた。通常、写真は断られるのだけどね。

 バチカンの教皇の定例会見日。予約なしで入れてしまった。観客的ではなく、二階サイドの立ち見。会見といっても、大講堂で、観客席には多くの人が集まっていた。
 一番前列に陣取った、僧服らしい格好の子どもたちが、手拍子とともに「パーパ、パーパ」と叫んでいる。アイドルのステージのようだ。

 ずっと後日、スペインの旅で、父親にお土産を買おうとして、英語もドイツ語も通じないお店の人に「父」を説明しようとして言葉が出てこずに大汗をかいた。
 そのときなぜか、このバチカンの「パーパ、パーパ」を思い出して「パパ」と言ったらわかってくれたのであった。

 さてバチカン。この日は、偶然にも、日本の禅僧が数人、ステージに現れた。交流しているんだね。正しい宗教人は平和論者であり、また変な勧誘や詐欺まがいの騙しのテクニックもないと思う。
 遠くからではあったが教皇に会えて、敬虔な気持ちになった。

 後日。
 神父さんに、お礼がてら、小物を箱詰めにして送った。次の旅人たちのために利用してくれたかな。丁寧なお礼のはがきをいただいた。
 またこの神父さん、日本人に会うと案内してしまう人で、知る人ぞ知るの存在だったと後々聞いた。
 出会えたことは幸運だったんだね。

当時のカメラ、パノラマは撮れなかったか

 イタリアはファッションの国。センスのよさそうなお店もたくさんあって、ウィンドウショッピングもしたかったが、やはり観光を選び、行けるだけのところを回った。
 いつの日か、当時でもおしゃれで通っていたミラノに行って、思い存分ショッピングするんだ~と思ったけどね。

 ちなみに、ヨーロッパでは店に入る前に徹底してウィンドウショッピングをする。日本のように店に入って自由に商品を触る習慣はなかった。まず外からじっと見て、良さそうなら入り、店員に言って出してもらって選ぶ方式。それでもいらないなら、ごめんなさいと出てくるのだ。
 今はどうなのだろう……ユニクロあたりがノシてきたので、日本式に近づいているのかもしれない。

 当時、イタリアは危ないと言われていた。今でもそうだと思うけど。
広場に子どもの群れがいて、その子たちがスリ集団だったりする。
 どうやって防ぐか、まず見回して発見したら、時間をかけてジロジロ見るのだ。「来るなよ、コノヤロー」のオーラを出す。
 その子どもたちっていうのが、見事に見た目が「ワル」に見えるのだ。露骨すぎて苦笑してしまうところを抑えてにらんだんだっけ。

 さて、ローマのさいごの夜、友人夫妻と4人で夕食。
行ったのは高級レストランのはずだが、イタリア人たちは、ワイワイ陽気に話している。何のきどりもない。料理もとてもおいしい。確か魚のオリーブ油の塩焼きなんて食べたと思ったが…。
 友人夫妻とは、お互いに旅の様子を語り合い、とても楽しい食事だった。

 旅にはプチ事件はつきもの。直接関係はないものの、この旅さいごのあらあらというジケンのお話をさいごに。

 ローマのフィウチミーノ空港で帰国便のカウンターに並んでいたら、日本人来てくださいということで、カウンター前まで行った。そうしたら、係の人がパスポートと航空券の名前(姓)が違うので確認できないと言い、日本人の新婚さんが抗議をしていたのだった。そんな場に呼ばれても……。

 どうやらアエロフロート側のミスらしいが、こういうことってどうしたらいいのか、説明してくれと言われても、英語もロシア語もできへんで! 
ドイツ語だって、トラブルシューティングはそうそうやってへんで!  
   何をどうしたのか忘れてしまったが、ろくに力になれなかったと思う。
ドイツ語英語日本語繰り交ぜて必死に何か言ったんだろう。大汗。

 だが新婚さんもリサーチ不足だと思った。相手はソ連、しかも格安航空券、ダブルブッキングだのトリプルブッキングだのあたりまえの世界だったんだから、用意周到にしなきゃね。
 私たちは、少なくとも自分の方はしっかり準備して、たとえNOと言われてもひるまず、日本人も女子をも捨てて、二人で机をたたいて泣いてわめくくらいのことはやろうと決意・約束してでかけたよ。

 後に飛行機で、何事もなかったかのように、その二人は座っていたっけ。
ま、良かったけど。

 自宅に帰還。
 外につながれていた昭和のワンコが私のことを忘れていて逃げた。が、部屋に入り、窓から見たらもう思い出していて、狂喜乱舞していたよ。
 
 35年前の旅、一生モノの思い出となった。
この後も数々旅にでかけた。海外にも行った。けれど、この旅がいちばん長く自由な旅だった。
 
 この後35年、結婚して育児を終えた。
 仕事を引退したら、ヨーロッパに渡り、中古のゴルフを買って、1~2年くらい、車で気ままな安旅をしようと考えていた。
 でもそれは果たせぬ夢となった。収入が低すぎて、生活に余裕がほとんどないこと、夫婦とも体調が万全でないことが主な理由だ。
 当時は航空券も含めて、女子だからぜいたく気味にしても、一日一万円ほどの予算で、十分に満足のいく旅ができた。
 今ではそれは無理だろう。日本人の所得は、すでに先進国の半分だとか言われている。
 若ければ、ドイツあたりで日本語教師の職を得て、そこを拠点に稼ぎながらの旅ができたかもしれないが…。

 私は、生涯現役のボンビー暮らし、再びの欧州の長旅は、残念ながら妄想の中なのであ~る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?