『シン・エヴァンゲリオン劇場版』感想2 「アスカ」について

公開当日の感想記事でこのように書いた。

・唯一残念な点があったとすれば、「惣流アスカ」に救いはなかったこと。「アスカ」にはあったが……。

結局シン・エヴァのことばかり考えて一日が終わったのだが、引っかかりの中心にあったのはこの命題だった。

“なぜ「惣流アスカ」は救われなかったのか?”

監督と担当声優の醜聞とか、昔から言われている作品外部の事情もあるらしいが、真実かどうかも不明瞭な事柄に手を出すのは憚られるし、第一作品外部の事情を内部に持ち込むことが好きではないので、そういったことについては措く。内部(『エヴァ』シリーズ)的な事情で「惣流アスカ」の特権性を主張しようとするならば、彼女は碇シンジという主人公にとって大文字の〈他者〉の象徴であったから、という理由づけができるだろうが、しかしシン・エヴァでは海岸での別れのシーンをわざわざ入れてきているあたり、「アスカ」のことは救おうとしている意思が見えるのである。実際、公開後に強火のファンの感想をいくつか漁ってみたところ、あれによって「アスカ」は救済されたのだ、「シンジとアスカ」をめぐる「他者との向き合い」の問題も解消されたのだ(よかったよかった)という論調のものが多い。昔からのファンで、「アスカ」という固有名さえあればよい、その周囲にまとわりつくキャラ性みたいなものだけが真実だと思える人にとっては、100点満点の解答だったのかもしれない。

しかし自分のように『エヴァ』という作品自体にそれほど思い入れがなく、しかし「惣流アスカ」というキャラクターのことは認識していてその固有名にも一定の価値――それこそ〈他者〉の象徴としての――を認めている人間にとっては、結局救われたのは「式波アスカ」で、それをもって「アスカ」全体が救われたのだとするのは、何か違うような気がしてしまうのである。おまけに、「式波アスカ」は綾波レイと同じように、クローン人間であったということが明らかになる。無数にいる「式波アスカ」の、たった一人の個体だけが救済されたということ。それ自体は普通に良い話だと思うのだけど、そこに「アスカ」の救済を重ねてしまうのは、錯覚なのではないか。

先の記事で、自分はこのようにも書いた。

・総じて、すべてのネームドキャラに救いがあったのが本当によかった。

僕が「救い」と表現したのは、『エヴァ』シリーズにおいて各キャラクターが象徴的に背負わされてきた類型的役割からの解放、というほどのことだった。シンジとゲンドウは対話を果たし、レイは芽生えた感情を自らのものとし、カヲルは終わりのない観測者としての役目を終え、ミサトは次代へ託す者としての役割を全うし、リツコはゲンドウ(的なるもの)に毅然と立ち向かい、加持は任務の達成をきちんと描写される。旧作においてアスカに背負わされていたものは、大文字の〈他者〉としての役割と、母親からの承認を得られなかった孤独な子供、という属性だったはずだ。しかしそれらは新劇場版のアスカが「式波シリーズ」というクローン人間(「惣流」とは別人)だったと明かされることで、両方ともなかったことにされてしまっている。意地悪な言い方をすれば、視聴者の「アスカ」という固有名にまとわりつく莫大な情念に頼りきって、「惣流アスカ」の真正面からの救済を諦めてしまったようにも思える。それも含めてリアルだ、といえばそうなのかもしれない。庵野監督が『エヴァ』を完膚なきまでに終わらせたのは事実であり、ゆえにシン・エヴァが傑作であるという評価も決して揺らぐことはないのだが、「惣流アスカ」はついぞ救われなかった、このことは視聴者が覚えておいておかねばならないと思うのである(「他者との向き合い」の問題は、いまだ根本的に解決などされていないのだ)。

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