『シン・エヴァンゲリオン劇場版』ファーストインプレッション

<鑑賞直後のツイート>

場内が明るくなり、しばらくして立ち上がったものの足元がふらついたのでもう一度座り、観客のほとんどがいなくなってからようやくシアターの外に出た。廊下を進んでいき、外界の光が見えてくる。ああ、あのゲートをくぐったら本当にそこは「エヴァのない世界」なんだ。足が重い。また眩暈がしてくる。そしてゲートをくぐった瞬間、猛烈な吐き気に襲われた。激しく咳きこんで、なんとか腰かけられる場所にたどり着き、目を閉じて呼吸を整える。少し落ち着いてくると周りの声が少しずつ入ってくる。エヴァを観たのであろう人もそうではなかろう人も、映画の体験そのものとは関係のない話をしている。これが「エヴァのない現実」なのか。でも、それと向き合わなければいけないという話だったじゃないか。このシン・エヴァという体験を本物だと思うなら、それこそ目を開けなければならない。勇気を持って目を開けると……そこは「エヴァ」なのだった。なんだこれは。思わずマスクの中でつぶやいた。瞬間僕は気づいた、そうか、エヴァを終わらせるということは、エヴァという虚構を捨て現実に帰還せよということなのではない。虚構と現実の境目は消え、エヴァは普遍化し世界に溶ける。そういうことだったんだ。

エヴァというのは最初のテレビシリーズおよび劇場版が終わったときから虚構の象徴だった。だからこそリアルタイム世代ではない僕にも重要な作品であり続けてきた。僕より下の世代もそうだろう。『EoE』の観客を画面に映した「現実へ帰れ」のメッセージ性はそれほど強烈だった。シン・エヴァ(というより、今となっては「新劇場版」全体がと言うべきだろうが)は旧シリーズにおいて「虚構/現実」の主題に図らずも(?)絡んでしまっていた「親と子」の問題や世界観そのものの謎を丁寧すぎるほどに解決しつつ、最終的に「虚構/現実」の主題に新たな決着をつけた。それは2006年に出された「新劇場版」所信表明の中にある「願い」の具現化そのものだった。

「エヴァンゲリオン」という映像作品は、様々な願いで作られています。

自分の正直な気分というものをフィルムに定着させたいという願い。
アニメーション映像が持っているイメージの具現化、表現の多様さ、原始的な感情に触れる、本来の面白さを一人でも多くの人に伝えたいという願い。
疲弊しつつある日本のアニメーションを、未来へとつなげたいという願い。
蔓延する閉塞感を打破したいという願い。
現実世界で生きていく心の強さを持ち続けたい、という願い。

今一度、これらの願いを具現化したいという願い。

Webアーカイブより復元

庵野監督が言う、アニメーション映像の「イメージの具現化、表現の多様さ、原始的な感情に触れる、本来の面白さ」はいちアニメ視聴者としてまさに感じてきたところで、アニメを観ているときはニュース番組やドキュメンタリー、実写映画を観ているときよりもよほど「真実」を掴まえられているような気がしてきた。「真実」を捉える解像度が高い、とでも言おうか。シン・エヴァを観終えてからの僕の「現実」を見る眼は、まるで「アニメを観ているときのように」解像度が高くなっている気がする(正直、情報量が多すぎてちょっと疲れるくらいだ)。

シン・エヴァのラストはそれまでアニメーションで描かれていた世界がドローン撮影的に俯瞰され、シームレスに実写の風景に溶けていく形で終わる。これは『EoE』当時には技術的にも不可能だったわけで、そういう意味でも『Q』から数えて8年、『序』から数えたら15年という時間は必要だったのかもしれない。

本作でリアル(現実)に対置させられる言葉はヴァーチャル(虚構)ではなくイマジナリー(思い込み)だ。『シン・ゴジラ』のポスターに書かれていたキャッチコピーは「現実対虚構」だったが、シン・エヴァに至って庵野監督はもはやその二つは対立させる必要などないのだ、という地点に至ったのだと思う。「虚構」と「現実」を対立させることなく、その境目が溶かされることによって初めてエヴァに乗っていた少年少女たちは前向きに進むことができた。そして彼ら彼女ら「エヴァの少年少女たち」とは、すべてのアニメーションを愛する人たちのことなのだ。僕ら「エヴァの少年少女たち」は、それまで「虚構」と「現実」という言葉で分けられていた境界の消えた世界で、ただ「生きる」ということを謳歌することができるようになるだろう。

以下メモ。

・「加持さん何をしてたか問題」の解決の鮮やかさ。テレビシリーズの土いじりをしている描写から、こんな風にその存在感を膨らませるとは(「土の匂い」は最重要キーワードのひとつ!)。

・「シ者」でしかなかった「渚」という名前の再定義(新世紀=NEON-GENESISの再定義ともオーバーラップする)。加持さんとの会話は本当によかった。

・泣いたシーンは3つ。「鈴原サクラがシンジに銃口を向けてからの一連のシーン」「カヲルと加持のやり取り」「シンジの背中を押すユイ」

・「母性」を頭ごなしに否定しなかったのもよかった。見守り、必要なときには黙って背中を押すというだけのことが悪いことなはずがないのだ。

・真希波マリがあんな重要キャラになってたのだけは最後までピンとこなかったけど、深読みせず単に「新キャラ(旧エヴァにはいなかったキャラ)だから」でいいのかなと。

・唯一残念な点があったとすれば、「惣流アスカ」に救いはなかったこと。「アスカ」にはあったが……。

・ゲンドウvsシンジに関しては……何も言うまい。

・トウジとケンスケはめちゃくちゃいい感じの大人になってましたね(特にケンスケはテレビシリーズのシンジと二人でキャンプする回が地味に好きだったので、そこを拾ってくるかー!と)

・総じて、すべてのネームドキャラに救いがあったのが本当によかった。

ファーストインプレッションとしては以上です。

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(2021.03.09~ 追記しました)


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