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光文社新書『映画を早送りで観る人たち』における「セカイ系」用法への違和感と考察

『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(稲田豊史著、光文社新書)という本を読んだ。ストリーミング配信の普及で広まった「倍速視聴」「飛ばし視聴」といったスタイルに対して、SNS社会特有の「これを観ておかなければ人間関係にも支障を来す」という同調圧力、貧困を背景にした可処分時間の少なさなどが背景にあるという仮説をもとに切り込んでいる。多数の学生、クリエイター、業界関係者へのインタビューも盛り込みながら、世代論一辺倒にならない記述が慎重に心がけられており、かつての映画が文化においてどのような位置だったのかを見定めるための、批評理論やメディア技術史の参照も適切だ。「“作品”を“鑑賞”する」から「“コンテンツ”を“消費”する」というモードへの変化を問う意識が全編に渡って貫かれており、ポップカルチャー産業に従事するクリエイターや批評家にとっても、いま最も読むべき一冊になっていると思う。

しかし、優れた問題提起の書であり、広く読まれるべきと認めるからこそ、この本には看過しがたい点がひとつある。

「セカイ系」という語の扱い方だ。

同書でこの語は第4章「好きなものを貶されたくない人たち――「快適主義」という怪物」の最後に、まったくもって唐突に登場する。インタビューした「30代のあるアニメ製作会社社員」の「ある作品に対するTwitter上での絶賛コメントに大量の『いいね!』がついて拡散されると、元は個人の意見なのに、まるで社会の総意のように見えてしまう(筆者註:傾向が最近の視聴者にはある)」という発言を引きながら、「ネット上の個人の発言を社会と錯覚してしまう」現象を「まるで「セカイ系」だ」と記述しているのだ。

セカイ系に関する一般的な定義として引かれている、「アニメやライトノベルやゲームの分野で、おもに2000年代初頭以降に流行った世界観のこと。自分の心境や自分を取り巻く狭い範囲の状況(近景)が、コミュニティや他の人々(中景)との関係性が描かれることなく、世界の危機(遠景)に直結している」という記述にも特に問題はない。しかし件のインタビュー発言の内容を「自分の“お気持ち”(近景)が、大文字の“社会”や“マスコミ”(遠景)と、直結してしまっている」と読み替え、それをセカイ系と論じるのはいかがなものか。何せセカイ系において中抜きにされていると言われる「コミュニティや他の人々(中景)」こそ、ごく一般的に「社会」と言われているものだ。「強引な当てはめ」で許される範疇を超えて、完全に真逆のことを言っているのである。

このような用法が行われているのは、著者がセカイ系を「物語の形式・ジャンル」ではなく「世界観」と捉えていることに起因するものだろう。同書の元となった『現代ビジネス』ウェブサイトに掲載された記事(「「インターネット=社会」若者の間で広がる「セカイ系」の世界観」)にも同様の用法が見られるが、その公開を受けて「セカイ系」の語をネット上で初めて使ったとされる(cf.前島賢『セカイ系とは何か』)「ぷるにえ」氏(を名乗るTwitterアカウント)は以下のように改めて整理している。

セカイ系、という言葉は、今でいうところの「あるある」です。アニメやマンガやゲームの物語や演出によくある類型のひとつ。少年と少女が出会うラブロマンスに世界の存亡が掛かるほどのスケールの大きな出来事が関係するという〔…〕理解が難しいのは、セカイ系というのが単純に話のジャンルを指してるだけではないということです。テーマでありストーリーでありキャラであり設定であり、そういった諸々から醸し出される独特の「っぽさ」がセカイ系

ぷるにえ氏と名乗るTwitterアカウント(@tokataki)のツイート(2021年6月22日)

セカイ系作品における「世界の危機」とは、文字通り巨大隕石が落下して地球が滅亡するとか、時空が歪んで人類史が書き換えられるとか、そういうものだ。その時が訪れるまでに起こるであろう社会情勢の変化などを描かず、視点人物のモノローグだけですべてが処理されるような傾向がある。そこに描かれる「終わり」は現実のシミュレーションなどではなく、形而上学的なポイント・オブ・ノー・リターンだ。だからこそ「(世界の)終わり」は「(青春の)終わり」などと受け手の側で読み替えが可能であり、その意味では児童文学とか、SF・ファンタジー要素を含んだ青春文学と言ったほうが近い。

「セカイ系」のコアは同書が定式化する「“作品”から“コンテンツ”へ」という流れにおいて、旧時代的とされる「“作品”を“鑑賞”する」という姿勢によって初めて見出される。受け手一人ひとりの中に、作品/コンテンツを介さずとも自然に(それこそSNSなどを通して!)醸成されている「世界観」のことではないのだ。皮肉にも同書内のような形で「セカイ系」の語を用いていることが、当の著者が「“作品”を“鑑賞”する」という姿勢を信じきれなくなっていることの表れであるように思える。

繰り返すが、私はこの本『映画を早送りで観る人たち』を優れた問題提起の書だと思っているし、それどころか、同著者とまったく同じ問題意識を持っていると言っていい。しかし、そうした現代の諸状況においてなお「“作品”を“鑑賞”する」ことはいかにして可能かということを考えており、そこが同著者と私とで決定的に異なるところである。

そして私はそのための鍵となる概念こそが、他でもない「セカイ系」だと考えているのだ。

「セカイ系」は2000年代の初頭……つまり家庭にインターネットが普及し始めた時代に生まれた言葉だ。動画配信サイトや電子書籍は当時なかったが、画像・テキスト・音声を等しく「データ」としてやり取りすることができるという事実は新たな認識を人々にもたらし、それが「作品」を「コンテンツ」として捉える流れにつながっていったのは間違いない。日本では角川書店(現・KADOKAWA)が1970年代から広めたメディアミックス――同一の設定やキャラクターがメディアを超えて横断する――という手法と技術的な相性もよく、「作品」の範囲を確定する境界がこの時期から飛躍的に曖昧になっていった。

ぷるにえ氏の書き込みから始まり、現在に至るまで「御三家」的な扱いを受けているのは『ほしのこえ』『イリヤの空、UFOの夏』『最終兵器彼女』の三作品で、それぞれ短編アニメ、ライトノベル、漫画と発表されたメディアが異なる。形式的には先述の通り、(主に少年の)モノローグの多さが共通点として挙げられるが、音声メディアであるアニメとライトノベル・漫画、視覚メディアである漫画・アニメとライトノベル……といった非対称性があることを踏まえれば、それぞれのモノローグが受け手に与える効果が自ずと異なることは、当該作品を鑑賞したことがない人でも想像できるだろう。異なるメディアに発表された複数の作品に「特別な力を持たない少年」「特別な力を持った少女」「世界ないしは宇宙規模の戦争」くらいに抽象化された設定面での共通項――ちなみに当然ながら、「少年」「少女」の人物造形のディテールなどはそれぞれ全く異なる――を見出すことで、その総体に対してある種の「文学性」を仮構しようとしたのが「セカイ系」という発明だったのではないだろうか。「メディア」が「データ」に、「作品」が「コンテンツ」になろうとする流れへの抵抗として、この言葉は生まれてきたのだ。

具体的には、漫画やノベルゲームを素材にした「静止画MAD」を見てみると良い。ビジュアル要素が編集ソフト上で取り扱える「データ」になったことを逆手にとって、印象的な台詞を抜き出して時系列を入れ替えたり、他媒体で展開された際の挿絵や版権イラストをも素材として取り込むことで本編を圧縮した、いやそれ以上に想像力をかき立てる、魅力的な余白を作り出すことができる。そこに物語「らしきもの」を見て取れるようにするのが、やはり「データ」として取り扱えるようになった(原作とは無関係な)ポップソングであることにも注目したい。「少年」「少女」「世界の終わり」という最小限の要素の組み合わせでも心に残る物語にはなり得る、という「セカイ系」のコアが、最も端的に「静止画MAD」には表れている。

さらに、そこで見出される「文学性」が、児童文学や青春文学のそれであることも重要だ。『映画を早送りで観る人たち』の中でまさに「セカイ系」の語を用いて指摘されていた最近の視聴者の特性、「ネット上の個人の発言を社会と錯覚してしまう」ことにより生じる息苦しさに対して、社会というレイヤーとは異なる――モノローグと「世界の終わり」が直結する形で表現される――「セカイ」というレイヤーを提示することで、愛とか、死とか、倫理とか、運命とかいった、「社会人」になったらそんなことは忘れていきろと言われがちな抽象概念について考えてもよいのだ、という思考回路が生まれる。私たちは自分の年齢が何歳であろうと、少年少女向けに作られた「セカイ系」作品を通じて、息苦しい現代におけるオルタナティブな思考法を手に入れることができる。

私事だが、こうした考えに基づき「セカイ系」から2020年代を見通す評論系同人誌『ferne』を昨秋に刊行した。多数の専門領域の異なるゲストを迎えた200ページ超えの論考集(インタビュー、座談会もあり)となっているので、ご興味のある方はぜひチェックしてほしい。

『現代ビジネス』に掲載された記事を読んだ時には、単発で触れたこともありその「セカイ系」の用法に反発を覚えたのは確かだ。本書を手に取った動機も、その問題含みの「セカイ系」の記述が残っていると知って、反論をしなければ「セカイ系」を軸に文筆活動をする者として責任を果たしていないことになるだろうという思いからだった。

果たして、本記事の前半部分で書いたように、一冊の本として読める形になったことで著者の問題意識はクリアに見え、むしろその問題意識への真摯さゆえに、「セカイ系」について通常とは異なる使い方がされていたということもわかった。

おそらく『映画を早送りで観る人たち』を読んだ人の多くは「セカイ系」についての記述を軽く読み流すだろうし、(「強引な当てはめ」と著者自ら留保を付けていることもあり)間違った使い方をこの本で覚えるということもおそらくないだろう。生みの親であるぷるにえ氏が当初は揶揄的な意味合いで書き込んだという経緯もあり、この語が雑に扱われてしまうことはそもそも日常茶飯事である。

しかし繰り返すように、本書で「セカイ系」という語が唐突に、おかしな使い方で表れること自体が本書の勘所なのだ。そのおかしさを指摘すると同時に「セカイ系」のポテンシャルを改めて整理することで、本書のより深い読解を促すことができると考えた。おかしな使い方がされていると一蹴するでもなく、無批判にその用法を受け入れるでもない。誰かの手による作品/コンテンツに覚えた引っかかりを形にすることこそ(本書で危機に瀕していると言われる)「批評」のスタート地点だし、作品/コンテンツやその制作者にとっても意義のあることだと私は信じている。

改めて『映画を早送りで観る人たち』おすすめです。

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