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あなたはなぜ『呪術廻戦0』で泣いたのか? ――約束・愛・呪いについて

私はなぜ『呪術廻戦0』で泣いたのか? こんなにもおどろおどろしい作品でなぜ? 「話題作だし、ちょっと怖そうだけど観てみるか……」と劇場版に足を運んで、そう自問自答してしまった人も多いんじゃないか。よく『鬼滅の刃』『チェンソーマン』と並んで「人が容赦なく死ぬ最近のジャンプ漫画」として挙げられることも多い本作(の原作)。理不尽で残酷な世界観は現代の諸相を映しているのだとの評論も目にする。しかしすでに読み比べた人ならわかるように、3作は(確かにスプラッタ・ゴア表現が比較的多いという共通点はあれど)それぞれまったく異なるベクトルをもった作品だ。他2作に関しては今回は割愛するとして、『呪術廻戦』の特徴はその残酷な世界観を規定する「呪い」に明確なメカニズムが設定されている点にある。詳細については現在進行形で連載されている本編で開示されている点も多いのだが、前日譚(発表されたのも本編より先、ジャンプ本誌での連載を見据えた正真正銘のプロトタイプ)である『0』にはその最もプリミティブな法則が描かれている。というより、そのプリミティブな一点により突破しているのが本作であり、それが私たちを現実の社会を根底から規定している絶対の法則であることが、この物語が普遍的に胸を打つ理由になっている。

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結論を言おう。そこにあるのは「約束とは呪いである」というテーゼである。結婚したからには添い遂げなければならない、雇用契約を結んだからにはつらい残業にも耐えねばならない、出生届を出したからにはよき親として子供を育て上げねばならない……私たちは多様な約束(契約)に縛られており、それが社会というものを成り立たせている。約束をしたからには「果たさなければならない」という強迫性、それが一義的には「約束とは呪いである」というテーゼの正体だ。しかし本作ではさらに踏み込んでいて、主人公・乙骨憂太というキャラクターを通じて「愛とは最も大きな呪いである」というテーゼを浮かび上がらせる。「呪い」としての「約束」の効力が極大化する局面、それが「愛」が関わる瞬間なのだ。

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これを現実に置き換えてみる。常識的な契約には本来解除についての規定もあるものだが、それでも縛られた気になってしまうのは対象に対する「反故にしてはいけないのではないか」という忖度が働くからだ。実際の過労自殺の問題などを前にこのように言うのは正しさを欠いているのかもしれないが、追い詰められた人間のそのような(本来しなくてもいい)忖度とは、もはや「愛」に近い心の動きなのではないのか。要不要を問わず、対象への執着の度合いを表すパラメータが「愛」であり、「約束」という制度は本来可変的であるはずのそれを一時点に留め置く役割を果たす。そのように整理することも可能だろう。

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『呪術廻戦0』の大まかな筋は、幼馴染の遺した「約束という制度によって強制力を得た愛という名の呪い」を主人公の乙骨が解くというものだ。乙骨は幼馴染の少女・祈本里香と幼少期に結婚の約束を交わすが、ほどなくして里香は乙骨の目の前で車に轢かれ命を落としてしまう。死後「特級過呪怨霊」と呼ばれる強力な呪いの化身となった里香は乙骨にとり憑き、彼を害するものに自動的に制裁を加える暴力装置と化す。生来優しい気質である乙骨はそのことを良しとせず自殺も図るが、それも〈里香〉によって阻まれてしまう。かくして乙骨はなるべく他人と関わらないように、実に6年もの間人生を消極的に生きてきたのだった。

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予告編に使われている台詞にもあるように、呪術高専に入学した乙骨は〈里香〉の力を使役し攻撃手段に転化させる術を身につけることで、呪術師として誰かのために役立てる可能性に思い至る。「誰かと関わりたい、生きてていいって自信がほしいんだ」。その過程で高専の同級生や教師との交流も深めていく。しかし乙骨憂太という人物像に、そして『呪術廻戦0』という物語に深みを与えているのはここで「里香への執着を断ち切り別の関係性へ移行する」とまとめるに留まっていない点にある。乙骨憂太という人物の中心にあるのはあくまで里香とのつながりであり、彼自身の言葉を借りれば「純愛」なのだ。終盤、乙骨は新たにつながりを得た同級生たちが傷つけられたことに激情を爆発させ、〈里香〉に自身を生贄にすることで「力を貸して」と頼む。それは2人の間に約束=呪いが確かに存在するからこそ可能な取り引きであり、乙骨の戦闘力は彼と里香の間にある愛の深さに依存する。新たなつながりを守るためにはむしろ最も執着する対象への愛を捨ててはいけない、ということがその姿を通じて伝えられるのだ。

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とはいえこのようなロジックで乙骨が意味ある活躍(つまり、戦闘)を行うことができるのはこれが『呪術廻戦』というバトル漫画・アニメであり、生来の「呪力量」という(「愛の深さ」とはまた別の)生得的パラメータが彼に備わっているからでもある。現実世界を生きる我々にとっては、理不尽な約束=呪いについては対象への過度な愛着を断ち切る、というのがやはり穏当な処方箋となるだろう。しかし約束=呪いを結んだ相手からの「赦し」があれば話は別だ。『呪術廻戦0』が素晴らしいのは、この「赦し」の可能性についても描かれているところにある。

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実のところ、乙骨は里香に呪われていたのではなく、里香の死という現実を否認した乙骨が、むしろ里香を呪っていたのだった。「すべては自分が原因だった」と慟哭する乙骨に、元の姿に戻った里香は「生きていたときよりもこの6年間はずっと楽しかった」と言う。これは劇場版では省略されていた里香の生前の経歴(両親が原因不明の死を遂げており、「親を殺したのは里香なのでは」と周囲に疑われていたというエピソード)にも拠るものなのだが、その言及がないがゆえにかえって「赦し」の主題は前景化している。人が人に「赦し」を行えるということに、理由など必要ないのだ。対象からの「赦し」があることで、人は呪いと共にでさえ生きていける。そして、「赦し」もまた「愛」のひとつの形であることは言うまでもない。ここに具体的な他者との「約束」と、書面上で交わされる機械的な「契約」との違いが浮き彫りになるだろう。「約束」にあって、「契約」にはないのが「愛」なのだ。本来、「契約」だって「約束」の一部なのだから、それによって成り立っているこの社会にも「愛」があることを信じていいんじゃないか。「呪い」をそのタイトルに冠した本作らしいとても捻れた仕方で、そんなピュアな願いを観る人の胸に灯すのが本作なのである。

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