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「セイレーン」とは何だったのか――『ちいかわ』島編の終了に寄せて

2023年11月26日、ウェブ漫画『ちいかわ』のエピソード「島編」が完結した(まとめは以下のページから読める)。

同年3月から、作者・ナガノ氏の体調不良による休載を挟んでの約8ヶ月間という、同作品でも異例の長期連載となった今シリーズ。

謎が謎を呼び、新たな登場人物・視点の追加により真相が多段階的に明らかとなっていく展開は極上の閉鎖空間ミステリをも思わせ、かねてより評価が高まっていたナガノ氏のストーリー漫画家としての手腕がいかんなく発揮されたシリーズとなった。

「島編」というのは便宜的につけられた呼称で、このエピソードを「セイレーン編」と呼ぶ人も多い。セイレーンとは、ちいかわ達が訪れることになった島に生息している(後に土着の生物ではなく、外からやってきたことがわかる)巨大な海棲生物で、言葉を話すことができる。また、常に人魚と呼ばれる、小型(ちいかわ達と同じくらい)の生物を複数引き連れている。

本記事は、このセイレーンをめぐって飛び交う多くの読者の反応に対して、筆者が違和感を覚えたことから書き始められている。


「島編」のストーリー

セイレーンはこのエピソードが始まった時点では島のはずれの洞窟に潜んでいて、そこにちいかわ・ハチワレ・うさぎの三人組が迷い込んでしまったところから物語は動き出す。

セイレーンはちいかわ達を見るなり襲ってくる。ボートに乗っていた三人組は必死にオールを漕ぎ、しかし追いつかれて転覆してしまう。三人組が目を覚ますとセイレーンはちいかわ達を介抱していて、謝罪とともに彼らを襲った理由を述べる。「自分には仲間の人魚が三匹いたが、その内の一匹が現地民に『食べられてしまった』。だから報復のために現地民を『食べ返している』のだ」と。セイレーンからするとちいかわ達も現地民もあまり区別がつかないようである(ちいかわ達が島に上陸した際、現地民の衣装である腰蓑を付けられたことも関係しているかもしれない)。

なお、「食べ返している」というのはあくまで後の時点から振り返って説明できることであり、「だから食べてるの」というセイレーンの台詞を聞いた時点では、ちいかわ達はそれが「現地民を仕返しに食べている」という意味だとは解釈できていない。なのでその場ではセイレーンの「仲間が食べられた」という情報のみを受け取って、気の毒に思っている。

さて、そもそもちいかわ達が島にやってきたのは、「通常の100倍の報酬を約束する討伐クエストがある」とのビラに誘われたからであった。このビラというのが、セイレーンによって襲われていた現地民が島の外部に助けを求めるものだったのだ(ちなみに、「通常の100倍の報酬」はでまかせであったことが後に明らかになる)。

セイレーンが「現地民に仲間の人魚が食べられた」と判断するに至った理由は、「島の中に人魚のウロコが落ちていた」からだという。もしかしたら冤罪なのかもしれない、という不穏さも漂わせながら、再び現地民を襲い始めたセイレーンに、ちいかわ達は和解の糸口がないか交渉を試みる。

しかし交渉は決裂。セイレーンはお前たちも現地民をかばうのだなと、ちいかわ達も攻撃対象とみなす。そこからは不意に現れた謎の登場人物・島二郎の助けも借りつつ、セイレーンを「攻略」するというフェーズに移っていく(「討伐」と書かないのは、最後までちいかわ達は和解の可能性を諦めていなかったからである)。

さて、「現地民が人魚を食べた」という件だが、実際にはどうだったのだろうか。結論からいうと、確かに二人の現地民が「食べていた」ということが最終盤で確定する(この二人は、ちいかわ達が島に上陸して初めて交流を持った現地民だった)。

なぜ二人の現地民は人魚を食べたのだろうか? それは、彼らが所持していた「伝説の生物図鑑」の人魚についてのページに、「食べると“永遠のいのち”が手に入る」と記されていたからだ。

ちいかわ達が島に上陸するよりもはるか前に、沖にボートで釣りに出ていた二人はセイレーンに遭遇、その巨大な尾が叩きつけられる形で片割れが致命傷を負ってしまう(なお、セイレーンはその巨体ゆえに「何かに触れたかな」と思う程度で気づいていない)。このことに憎悪を燃やした生き残りが図鑑の記述を思い出して人魚を暗殺し、その肉をふるまう形で片割れを復活させた、というのが真相である(そして、復活した片割れはその事実を知って生き残りにも「罪を分け合う」ことを望み、二人ともが“永遠のいのち”を手に入れることになった……)。

セイレーンは「悪の化身」なのだろうか?

以上が、ディテールを省いたこのエピソードの本筋に関わる部分の要約である。その上で筆者が問題にしたいのは、この漫画が発表されているSNS上で、セイレーンを「悪の化身」のようにして扱う感想があまりに多く見られたことについてだ(特にちいかわ族を生け捕りにして、生きたまま「味噌漬け」にする描写が描かれて以降、その傾向は加速したように思う)。

ここで行いたい作業は、報酬についての情報がでまかせだったとか、人魚を食べた二人が自ら名乗り出ず罪なき現地民がただ食べられていくに任せていたとか、そういったことを持ち出してセイレーンの「罪」を相対化しよう、ということではない。セイレーンとは普段私たちが『ちいかわ』として見ている物語世界には本来存在しない……したがって既存のキャラクター群と比較して「罪」を相対化できるという次元に、そもそもないのではないかということである。

『ちいかわ』の世界観を語るにおいては、「ちいかわ族」と「でかつよ族」という二分法が用いられることが多い。主人公格のちいかわ・ハチワレ・うさぎをはじめ、物語を前に進めるのは前者の小動物型キャラクターであり、彼らは「草むしり」や「討伐」などの仕事をすることによって日銭を稼ぐ労働者である……というのは、すでによく知られている通りだ。

対する「でかつよ族」というのは、上記の「討伐」対象となる大型の生物で、ちいかわ族とは基本的に捕食-被捕食関係にある。ちいかわ族の脅威となる存在には「怪異」と呼ばれるものもいて、捕食という生存本能的な目的からではなく、ただ理不尽に超常的な力を振るう、生物かどうかも怪しい存在が特にそう呼ばれる(なお、「でかつよ族」と「怪異」は「ちいかわ族の脅威となる存在」という点で一緒くたにされることも多く、公式で明確な線引きが行われているわけでもない)。

「ちいかわ」というキャラクター自体が作者・ナガノ氏の「なんかちいさくてかわいいやつになって暮らしたい」という願望から生まれたキャラクターであり、本格的なストーリー展開が始まってからはその「労働者」としての側面が厚く描かれることから、「でかつよ族」ないし「怪異」は日々の労働の重苦にあえぎながらもつつましやかな幸せを見つけてはやり過ごすちいかわ達(≒我々)に、それでもなお苦行を強いる圧倒的な「力」――現実においては資本家による支配だったり、人間社会の外側からやってくる天災だったりするだろう――のメタファーとして解釈される場合が多い。

こうした「『ちいかわ』世界は出口のない悲惨な資本主義社会のメタファーである」「ちいかわ族とは、そんな世界でつつましやかに生きる弱き労働者≒我々のメタファーである」的な読み方があらかじめセットされている場合、巨大な体躯を持ち、不思議な歌によって植物を操る能力も持つセイレーンは多分に漏れず、「でかつよ族」ないし「怪異」として映ることになるだろう。ちいかわ達を現地民と間違えて襲った後、非を認めて謝ったことも擬態の一種でしかない。どんなに言葉を解し感情のようなものを見せても、弱きもの=我々を蹂躙する存在に他ならない。騙されるな! と。

しかし、セイレーンとはそんな説明で割り切れるほど「浅い」キャラクターなのだろうか?

セイレーンは「自然界における人間」である

ここからは筆者がどのようにセイレーンという存在を解釈しているかを述べる。

結論からいうと、セイレーンは「ちいかわ族」とも、「でかつよ族」ないし「怪異」とも違う、あえて言うならば「神」に近い存在だというのがその答えである(あるいは『ポケモン』でいうホウオウやアルセウスのように、神格を持ちながらも現代科学の枠組みでは「ポケモン」として扱われ、ボールで捕まえることもできてしまうという意味で「でかつよ族(怪異)」の亜種と言うことはできるかもしれない)。

そもそも、現実世界における「セイレーン」とはギリシア神話に登場する、美しい歌声で船乗りを惑わし遭難させるという半人半魚の怪物の名前で、解釈によっては神格を持つともされる存在である(スターバックスのロゴマークの元ネタになったことでも知られる)。

作中の描写から、セイレーンはちいかわ達と何ら変わりない喜怒哀楽の感情――仲間の死を悲しむ気持ちや、間違いを認めて謝ることのできる礼節さえも――を持ち合わせていることが窺える。では何がちいかわ族と決定的に違うのかといえば、それは端的に存在として生きる次元が違うということに他ならない(当初、ちいかわ達と現地民の区別がついていなかったことにも表れている)。

ちいかわ達に友好的に接しつつも、「こいつらは食べてもいい」と思った瞬間容赦なく襲ってくるというのも、裏と表を使い分けているというよりは、「こいつらは食べる(こともできる)対象だ」という目線がデフォルトというだけである。

このセイレーンとちいかわ族の関係は、自然界における「人間」と「食用動物」の関係に対応すると考えるとわかりやすい。私たち人間は、仔豚や仔牛をかわいいと愛でながら、その口でトンカツや牛すき焼を美味しくいただくことができてしまう。自然界において人間という生物は多くの動物にとって脅威であり、我々はそのことを知らないふりをして生きている。労働者だろうが資本家だろうがこの点では変わらないのだ(「生け捕りにして味噌漬けにする」というのも、「踊り食い」という文化を有している以上、それをもって悪辣とまでは言えないはずである)。

もちろんこれをもってセイレーンを「無罪」と裁定しようというわけではない。セイレーンには確かに傲慢なところがある。しかし、その傲慢さは、人間社会における強者の傲慢さではなく、自然界における人間という生物全体の傲慢さに対応していると捉えるべきなのではないか、ということである。

セイレーンを「でかつよ族(怪異)」の代表として、「自身の加害性に無自覚な者の象徴」と、近年のキャンセルカルチャーなどの文脈に結び付けて読解するような向きが一部で見られたが、筆者的にはそれは少し力点が違うのではないかと思う。そのようなテーマだったら、わざわざ離れ小島という舞台を設定しなくても、通常の「ちいかわ族」対「でかつよ族(怪異)」の対立軸の中でもできる。島という舞台、そしてセイレーンという存在は、普段「ちいかわ族こそが我々だ」と思っている読者の視点を相対化し、『ちいかわ』世界を安全圏から見ている我々の立ち位置に揺さぶりをかける、そういうものではないかと思うのである。

セイレーンの冤罪

ちなみに、こうしたことをわざわざ書こうと思ったのは、人魚を食べた二人の回想という形で描かれた「セイレーンと人魚がイカのような生物を投げて遊んでいる」シーンについて、さすがにセイレーンに肩入れしたくなる解釈を見たからでもある。

さらし上げるような真似はしたくないので引用は控えるが、コマが進むごとにイカの足が少しずつ減っているのを指摘して、「足をちぎっては投げ、ちぎっては投げしている残虐な生物なのだ」という考察をしている投稿があった(筆者が見かけたときには、すでに4ケタの拡散がなされていた)。

しかし少なくとも2つ目のコマと3つ目のコマについては、イカを空中に投げたあとに足の本数が減っているからその解釈は成り立たないし、翌日の更新分では前日の3コマ目より多い本数の足が描かれていた。ものすごく小さいコマだし、作画ミスか、深く考えずに描かれたというのが妥当と思われる(「ちぎれるかちぎれないかギリギリの範囲で空中に投げ、空中で足が外れてどこかに行った」とか、「翌日更新分のイカはまた別のイカである」とか強弁することもできるだろうが、かなり苦しい解釈だろう)。

冒頭でも述べたように「島編」は、立場によって異なる情報とその開示の手順、新たな登場人物の投入、回想シーンの使い方など、きわめて重層的なストーリーテリングを有している。1日1ページずつ更新されるストーリーを牽引するのは読者が思わず感情移入したくなるキャラクターで、これは『ちいかわ』にかぎらず漫画というメディアの特性といえるが、ことSNSという場において感情というパラメータに訴えかける手法は諸刃の剣といえる。

先ほどキャンセルカルチャーという言葉を出したが、ある事象が起きたときに多面的な検証がなされず、圧倒的な感情の物量によって渦中の人物が追い詰められてしまう、ということがSNS上の「流れ」においてはよくある。これは単純にキャンセルカルチャー批判というわけではなく、むしろ本当にキャンセルすべき事象が明らかになったときこそ、それを個人=キャラクターの問題から切り離し、客観的で多面的な検証を行わなければ、同様のケースの再発防止にはならないだろうということだ。

「島編」はSNS上でキャラクター漫画を展開することの可能性と限界を、良くも悪くも示したシリーズだったといえるだろう。

「伝説の生物図鑑」の謎

今後の『ちいかわ』を占う上で最後に触れておきたいのが、「伝説の生物図鑑」の存在である。二人の現地民が人魚を殺害するに至った理由は、この本に「人魚の肉を食べると“永遠のいのち”が手に入る」と書かれていたからであった。誰がこの本を書いたのか、書いた者はどのようにして“永遠のいのち”を実証したのか。これらは依然謎のままである。

また、この本の存在を念頭におくと、セイレーンへの見方が三たび変わってくる。セイレーンは「現地民の暮らす村に人魚のウロコが落ちていた」という状況証拠のみをもってして「現地民が人魚を食べたのだ」と判断し襲撃に至った。しょせん状況証拠であったわけだが、実際にはその通りだったわけで、セイレーン側には「ちいかわ族たちは、ときに“永遠のいのち”を求めて人魚を狩りにくる存在だ」という確信があったということになる。

人魚を食べたあとの身体にどういう変化があるかも知っていたことから、おそらくこれ以前にも何度か“永遠のいのち”目当ての襲撃には遭ったことがあるのだろう(三匹が二匹に減ったとされていた人魚だが、それ以前にはもっといたのかもしれない)。そう考えるとセイレーンと人魚もまた「食べられる」側の存在であり、その上でちいかわ族と友好的に接していたのは、懐が深いとも思えてくる……。

「伝説の生物図鑑」に記述があったのは「人魚」であって、「セイレーン」が記述されているかは作中で明らかになっていない。しかし記述されているかいないかに関わらず、「伝説の生物」というカテゴリがあると明言されたことは『ちいかわ』世界にさらなる重層性をもたらす。連載初期に登場した「スフィンクス」、ちいかわ族と変わりない外見をしながらちいかわ達を捕食しようとした「ゴブリン」など、現実世界においても伝説上・空想上の生物として文献に記されるものは「ちいかわ族」や「でかつよ族(怪異)」とはまた違ったカテゴリに分類されるのではないかという仮説が立てられるのだ。

この基準を採用するならば、準レギュラーキャラである「シーサー」も、この範疇におさまることになる(一説によると、シーサーの起源はスフィンクスにあるのだという!)。そう考えると他ならぬシーサーが、ちいかわ族が何らかの条件下でそうなってしまうと示唆される「キメラ化」の真相に近づいたことも、意味深に思えてくる。

(2コマ目の左端に描かれているエプロンをつけたモブが、4コマ目で突然現れた怪物に「変異」してしまったと、読者の間で囁かれている)

素朴で真面目な性格の彼は、実は純然たるちいかわ族ではなく、ゴブリンやセイレーンに近い「伝説の生物」……つまり「キメラ化」の不安とも本来無縁な存在なのではないか。そのくらいの皮肉は利かせてきそうだよなという妙な信頼が、作者のナガノ氏に対してはある。

「島編」完結後の『ちいかわ』も、まだまだ楽しませてくれそうである。

2023/12/9 追記

本記事を読んだ編集さんからお声かけいただき、Webメディア『KAI-YOU Premium』に寄稿させていただきました。「島編」にかぎらない、包括的な『ちいかわ』論に取り組んだので、ご興味のある方はぜひ。

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