「絶望を生きる哲学」池田晶子の言葉

 がんで病床に伏していたとき、生命と運命について考えることが多かった。もしかしたら、もう命はそれほどないかもしれない。なんという、悲しい運命なのだ。さすがに、哲学書を読むことはなかったが、人は人生をどのようにとらえているのだろうかと考えることがあった。

 退院して、悲観的な自分を勇気づけられかもしれないと、人生の名言集を数冊読んでみた。著名人の名言のなかで癒されたのは、「人はいずれ死ぬ動物だ」ということだ。そして、生きていくことは苦しいことであり、死があるから生が輝き、命が大切に感じられるということだ。

 その結果、成功者の名言の多くは脅迫感を感じてしまった。癒されない言葉が並んでいる。成功者は人一倍努力して、しかも強運の人たちだからだろう。大多数の人間は、努力することを嫌がり、疲れ、前向きに考えることを止めてしまう。「がん」になろうものなら、悲観的になり、悲運を嘆く。私もそうだ。そんな気持ちの多くの人の心を癒すのは、「頑張った」人生ではなく、「頑張らない」人生も決して悲観するものではないという言葉である。それは、今日に「感謝」することにほかならない。

 科学が発達し、医療の進歩により人間の中の自然を薬物で加工することにより生きながらえている自分が存在する。その反動は、体内に入った異物により結果的に自然の死から人間を遠ざけてしまう。

 最近、文筆家の「池田晶子」さんを知った。もっと早く知っておけばと思った人の一人だ。彼女は、生きていれば私と同じ年齢であるが、47歳で腎臓がんで急逝した。その人生の絶望をまっすぐ「考える力」に魅せられている。たった1冊「絶望を生きる哲学」を読んでいるだけだが・・・。

例えば

「働き盛りの仕事人が、病に倒れて絶望するのも、病そのものの苦しみよりも、この落伍感、焦燥感によるほうが、大きいのではなかろうか・・・落伍感も焦燥感も、他人との比較におけるそれにすぎない。そのことに気付けるなら、病気こそが、自分に還るための稀有のチャンスではなかろうか。絶望する理由が那辺にあるか。」の件は、私に気づきを与えてくれた。

 他人と比べる人生だったことに、改めて気づかされたし、人間は他人と比べて考える動物なのだということが身に染みるし、そのことをストレートに言われた気がするのである。

 他人と比べるという人間の性が人間を苦しめていることに気づきつつ、今日も他人と比べる性から抜けきれないで、生きていることに「感謝」すらすることを忘れ、他人と比較して苦しむ自分を嘆くことが、「生きる」ことなのかもしれない。

貴重なあなたの時間を、私のつたない記事を読んでいただく時間に費やしていただきありがとうございます。これからも、地道に書き込んでいこうと思いますので、よろしくお願いします。