見出し画像

あやちゃんの水筒には、甘くて冷たい紅茶が入っていた

貧しい家に育ったので、他人を羨ましく思う場面は多かった。

この季節なら、夏休みに家族でディズニーランドに行った話や、プレーステーションを買ってもらって「ぼくのなつやすみ」で遊んだ話なんかを聞く度に、一緒に公園で遊んでいた友人達も実際は別の世界の住人だったんだなと思い知らされて、子供には到底言語化できない、とにかく嫌な気持ちになっていた。

子供の頃の夏休みは毎年一ヶ月間母方の祖母の家に預けられて、親戚に気を遣ったり、その土地の知らない子たちと一緒に盆踊りを踊ったりして過ごしていた。
そして、その間もらったお小遣いを迎えに来た親に回収されて私の夏休みは終わる。祖母が靴下に隠してくれたお札も、車に乗って10分も経たないうちに親に渡していた。
お金があると親の機嫌が良くなると思っていたのはただの甘い願望で、そのまま機嫌の悪い親と4時間かけて自分の家に帰っていた。
掃除の行き届いた家で三食のご飯とおやつが用意され、お金の心配もいらない祖母の家から、それでも私は、犬や親や祖父のいるボロボロの家に帰りたかったのだろう。

綺麗な家に住んでいる子、自分の部屋がある子、新しい洋服を着ている子、借金のない親、塾に通っている子、全て羨ましかったし自分には永遠に手に入らないものだと思っていた。
お土産にもらったミッキーマウスのポストカードを見ても、ディズニーランドがどんな場所なのか、そこに家族で行くのにはどのぐらいのお金がかかって、どうやって行くのかすらも想像出来なかった。

そんな風に様々なことを日常的に羨ましいと思いながらも、自分には関係のない世界だと信じていた中で、唯一嫉妬ではなく憧れを覚えた出来事がある。

うちは家で飲むお茶といえば何故か烏龍茶だった。
当時健康に良いと流行っていたか、中国産ということで他のお茶よりも安かったのかもしれない。
錆びたヤカンで沸かしたままポットに移すこともなく、お茶パックを取り出すこともせずに放置した烏龍茶は限界まで茶葉の渋みを出し切っていて、さらには家の隙間から入ってきた蟻が列をなしてヤカンの口から入り、黒い液体の中に無数に浮かんでいた。

今考えると、何故ヤカンに蟻が入らないように対策をしなかったのかと疑問に思うが、私にも親にもそんな気持ちの余裕はなく、生活の質を良くしようという思考すらなかったのだと思う。
台風で家の外壁が崩れても、お風呂が壊れてもそのままにしていたくらいだから、ただ起きた悪いことをそのまんま受け止めて、自分達が状況を良く出来るとは思っていなかったのだろう。
良い方向に向かうのではなく、それ以上悪くなくならないようにじっと身を固くして耐えるような生活が、そこから先も何年も続いた。

蟻を茶こしで漉しながら飲む渋い烏龍茶。
それがこの季節の普段の飲み物で、私も少し嫌だなとは思いながらもそれを当たり前に飲んでいた。


小学校の同級生にあやちゃんという女の子がいた。
苗字からして漫画に出てくるお嬢様のような響きの彼女は、仕草も口調も上品で、一緒の学校に通っているのが不思議なくらいだった。
妬みの対象にすらならないほど別の世界の彼女と、その時どういう会話をしたかは覚えていない。
ただ、ある年の運動会で同じ組になったあやちゃんが、

「お茶飲む?」

と、自分の水筒を差し出してくれたのだ。

一口飲むと、あやちゃんがくれた水筒には、甘くて冷たい紅茶が入っていた。

衝撃だった。
水筒に紅茶が入っていることも、その紅茶が甘かったことも。
その時の私は紅茶なんてペットボトルの午後の紅茶しか飲んだことがなかったけれど、それとは確実に違う、冷たい紅茶を淹れてわざわざ甘くした味だった。

特に仲が良かったわけでもないし、放課後や休みの日に遊んだ記憶もない。
それ以外にしゃべったこともほとんどないあやちゃんの強烈な記憶として、そのお茶の味は今も覚えている。
妬みや羨望ではなく、その時の私は、ただ甘くて冷たい紅茶が水筒に入っているということに憧れた。

そんな私はその後引きこもったりいろいろありながらも、現在やっと自分で好きな飲み物を好きな時に飲めるくらいには余裕を持った生活を送ることができている。
毎日カフェに行くほどの余裕はないが、その気になれば外出時に高いお店で紅茶を飲むことも、良い茶葉を買って家で淹れることもできる。

しかし、私は完全な珈琲派になっていた。
お店で珈琲か紅茶を選べるなら必ず珈琲を、しかもブラックを選んでいる。

きっとどこかで幸せに生きているであろう、あやちゃん。
あの運動会の暑い日差しの中で、身体に染みわたった冷たい甘さはずっと覚えているよ。
私は、好きな時に自分でアイスティーを飲めるようになった上で、苦い珈琲を選んでいる。水筒にもブラックのアイスコーヒーを入れているから、冷たくて甘い紅茶は年に一回飲むか飲まないかだ。
でも、あの時、あの紅茶の味を知った上で、その延長線上でその選択をできるということにとてつもない幸せを感じているよ。

あの時、水筒のお茶を分けてくれてありがとう。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?