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ワクチンを打たない選択、打つ選択

こんにちは、ゆってぃです。

今日も本noteに訪れていただき、感謝いたします。最近はずっと、途中まで読んで放り出して、次の1冊に集中するというだいぶ変な読み方をしておりましたけれども、「実力も運のうち」という本を読んでくると頭が混乱してくるので、ワクチン不要論という本も平行して読んでいます。

今日は、「ワクチン不要論」からワクチンを打つ選択、ワクチンを打たない選択について考えていこうと思います。お付き合いくださいませ。

私は医者ではありませんし、医者の教育課程を受けてきたわけでもなし、自分の周りにいる人々、自分の体を見てきた感じです。あくまで見てきた感じで感じることは不織布マスク、消毒、手を粘膜になっていかないということを徹底するだけでも、だいたいはコロナは防げるんじゃないかと思っています。おしゃべりをしない、ハグをしないというだけども、かなり効果はあるのではないかと。

ただね、人間ですから、おしゃべりをしないってことは相当無理でしょうね。夏場になると特に苦しくなりますから、マスクを外したくなりますし、私自身、不織布マスクをしたまま、炎天下を数時間散歩したら、頭痛がひどくなりましたもの。外くらいはマスクは外したくはなるって気持ちもわかります。

そこで、でてくるのがワクチンと薬が感染病を抑える手段となることは良く知られています。ただね、このワクチン不要を唱える背景はわかるとしても、このコロナの感染が何故ここまで広がったのか、では、抑え込むにはどうしたらよいのか?という説得材料があまりなく、こういうリスクがあるから、ワクチン不要ですよって掲げただけでは、説得力が弱すぎるなっていうのか、私の正直な感想でした。

じゃぁ、どうたらよいのか?って所をもっと押し出してほしいと思いました。あとは本気で世の中を変えたいのなら、一番の近道は、政治家になって、権力者、権力者に近づいて、変えていくか、大きな世の中のうねりとしてもやる方法もあるかと思いますけれども、どうでしょうね。清濁併せ持ったふてぶてしい性格じゃないと、あそこは伏魔殿ですから、世の中に命をささげるつもりでいないと厳しいでしょうねぇ。

あとは、ワクチンが不要となったときに、じゃあ、感染病になりました、重い障害になりました。ワクチンがあれば、ここまで悪化しなかったかもしれません。ってなったときにどうするのか?ってところまで考察をしてほしいとも思ってしまいました。

結構きっつい言い方になりますけれども、人生自体が相当な博打である以上、ワクチンをうつ、打たないも相当な博打かなぁって思っています。私はワクチンは打つ予定ですが、ワクチンを打つ人が大多数、ワクチンを打たない人が少数派である以上、世界全体が同調圧力に染まっていますからね、最後殺されることも視野に入れて、ワクチン不要活動すべきかどうか、結構命がけな活動しているなというのが、私の正直な感想です。

嫌いではないんですけどね、こういう考え方の医者もいるんだとしっただけでも収穫ですし、WHOがまったくいただけないってのもずっとわかってはいたので。

あまり表立ってやるとね、新興宗教だの、国家転覆だの叩かれそうですが、単に小さな幸せを追求したいってだけだと思いますけれどもね。国家の介入をどこまで許すのか、どこまで許さないのか、どこまでが国の責任、どこまでが個人の責任?その辺は政治と哲学と、個と自由と自己責任とのせめぎあいだよなってつくづく思います。

長くなりました。

今日はこの辺で。

最後まで読んで頂き、感謝します。





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