私は気ぃ遣いである。
私は気ぃ遣いである。気ぃ遣いとは関西弁で、気を遣う人、ということを意味する。
どれくらい気ぃ遣いか説明しよう。
私はお笑い番組が好きだ。毎日なにかしら録画して、晩御飯の時間に妻と観るのが日課である。
私が録画した番組は私に責任がある。
番組を観ていて面白ければ私は大笑いする。
「あはははは…」と大笑いする。
と共に皆さんとは異なる行動をする。
そう、私は妻が笑っているかどうかを横目でチラリと毎回確認するのである。
先ほども述べたが、復唱しておこう。
「私が録画した番組は私に責任がある」
此れ、すなわち、私が録画した番組に妻が笑わないということは、私はつまらない番組を妻に観せたということになる。
一日の終わりの、おそらく一日の最後のゆとりの時間であるディナータイムに、美味しいご飯とクソつまらないゴミ番組という最悪のコンビネーションを創造してしまうという失態をおかしてしまったことになる。
こうなると、私の飯もまずくなる。
なんということをしてしまったのだろうか、とすぐにでも番組を変えたくなる。
逆に私が笑ったところで妻も笑っていようものなら、これほどの幸福はない。
ご飯、あと3杯はいける。
と、まぁこれくらい気ぃ遣いである。
また家庭以外のエピソードでいうと、沈黙が耐えられない。
私は沈黙が耐えられないという大半の人は、気ぃ遣いなんだと思う。
沈黙というつまらない時間を作り出してしまうのが嫌で、身を削って楽しい話を提供しようという、エンターテイメントのマザーテレサのような心境なのだと思っている。
少なくとも私がそうだ。
先輩社員や上司なんかとエレベーターで2人きりになろうものなら、
「今日、雨降りそうですねー」とか、地獄のような会話を始めてしまう。
大抵そういうときは、相手は話しかけるなよ、というような感じで「あ、まーそーだね…」と乾き切った回答を返す。
そして私のいないところで、「あいつ、話しても面白くない」と言われる始末である。
それでも沈黙が耐えられないので、二度三度の失敗をしてしまうのだ。
でも逆に話しかけなかったら話しかけなかったで、
「あいつ、面白くない」と言われるのだ。
社会人というのは格にやりにくいものである。
最近は私も学んできて、ようやく2人きりになっても沈黙が気にならないようになってきたので、誰が乗っていようが無視できるようになってきた。
すると不思議と先輩社員が、
「今日は花粉が多いってねー」
…てめーも面白くねーじゃねーか。
人間とは社交辞令な会話が苦手なのかな?と思う今日この頃である。
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