見出し画像

【犬、哲学をひろう】 05/沖縄の可能性

話を伺った人:
久田友太さん(GYOKU 代表取締役・アートディレクター)

久田さんに聞きたい。
「沖縄は可能性に溢れた場所なの?」

沖縄の広告クリエイターの話を聞いてみたいと思った時、真っ先に顔が浮かんだのが久田さんでした。「琉Q(ルキュー)」のブランドマネージメントを手掛け、あのクリエイティブ集団「PARTY」の支援を受けるデジタルクリエイティブカンパニー「GYOKU」の代表取締役でもあり、現役のアートディレクターでもある。どんな経歴でそのような輝くルートを辿っているのだろうとお伺いしたら、驚くほどのフロンティア精神を垣間見ることになりました。

「沖縄にいながら、東京をはじめとする県外(本土)や、台湾・香港など海外の仕事を増やすと同時に、そういった仕事に積極的に対応できるクリエイティブ人材を増やしたい。だから、『GYOKU』はバナーの量産などを下請けする会社ではなく、沖縄クリエイティブを拡張するデジタルクリエイティブカンパニーを目指していく」。久田さんはそう言います。

沖縄では、沖縄県立芸術大学やデザインの専門学校を卒業したデザイナーが、沖縄にあるニアショアのクリエイティブ会社(県外の大手企業の系列会社)に入社後、2、3年働き疲弊して退職。クライアントワーク全体ではなく、特定の一部の業務のみを担当していたために転職に苦労するケースが多々あるそうです。専修学校IDAグラフィックデザイン科の教育課程編成委員を務める立場からもその現状に心を痛めており、積極的にデザイナーの働き方の相談に乗っていると聞きました。

その想いは一体どこから来るのだろう。この人はどうして「沖縄は可能性に溢れた場所」だと明言できるのだろう。そんなことが知りたくて、話を伺いました。



画像1


出身はうるま市。実家は貧乏。

「僕の実家は自営業(鉄鋼業)でした。小規模な鉄工所だったけれど、親父の人柄を慕って企業からも個人からも仕事の依頼があり、公共工事から民間工事まで、多様な現場へ出向いていました。僕もよくその手伝いをしていたのですが、家を建てる仕事では、整地から基礎・コンクリの打設・鉄筋加工・棚上げ・外装・内装・大工仕事まで、いろんな職人につきながら完成まで一貫して手伝いをしていたことが思い出に残っています。親父は責任感が強かった一方、お金儲けは上手ではなかったかもしれませんね。建築関係は動くお金が大きいから、稼働分を回収できないとダメージが大きくて。水道、電気、ガスが一気に全部止まることも、まぁまぁありました(笑)」。

はじまりは、そろばん塾。

「幼稚園から小中高を通して、ぐしかわ珠算教室っていう全国的にも有名なそろばん塾に通っていました。両親が共働きだったことと、そのそろばん塾に親戚筋にあたる人がいたご縁から『学校終わったら、まっすぐそろばん塾に』という感じでした。預かってもらっていたのに近いかもしれません。そこで勉強も習い、ご飯も食べさせてもらっていました。友達もいたし、先輩後輩もいてみんな兄弟のように過ごしていたので、楽しかったですよ。そのそろばん塾に通っていた子の中には同志社や早稲田に進学するような優秀な子もいて、『学があれば子供達の人生の選択肢は広がり、生き方を良いサイクルにしていける』という塾の哲学があったのかな。何かと厳しかったですね。箸の持ち方にも厳しく、食べ物の好き嫌いは許されなかったし、悪いことをすればゲンコツ、兄弟連帯責任は当たり前。厳しくも愛されながら人間形成してもらったと思います。

ひざまずき(正座)で反省とかも普通にありました。そうすると、近所の本屋で立ち読みしている時なんかに、『あの人、この前ひざまずきしていた人じゃない?』ってクスクス笑われるんですよ。子供ながらにそれがとても恥ずかしくてショックで。自我が芽生え『もう絶対にやめる』と逃げ出したことがあったんです。公園で遊んでいたら誰かに告げ口されて、一瞬で連れ戻されました(笑)」。

中学時代は、家の手伝いも。

「中学に入ると、土日、夏休み、冬休み、春休みは、家業の手伝いをしていました。ペンキを塗ったり、溶接をしたり。夏休みに入ると、鉄板にひたすら穴を開ける仕事や、高速道路のガードレールを立てる仕事なども。先輩たちはお金をもらえるけど、自分は家の手伝いだからともらえなかったこともあり、そういう時はすごく嫌でしたね。

腹は立ったけれど、子供の時からハードな建築現場の環境にいたおかげで『どんなしたら役に立てるかな』って考える癖はついたかもしれません。現場に入り、職人の手伝いをする中で『この作業の時はこの道具を使うのか。この作業の次はあの作業をする決まりなのか』って見て覚えて、常に次に使う道具の用意や段取りするようにしていました。その経験は、代理店に入ってから役立った気がします」。

そろばん塾の推薦で沖尚へ。
ストリートカルチャーからデザインの道へ。

「高校は、なるべくお金がかからない地元の公立に行きたいと思っていました。だけど、そろばん塾の先生は『お金はなんとでもなるから、進学校の沖尚(私立沖縄尚学高等学校)へ行きなさい』と推してくれ、推薦枠で受験しました。入学後のクラス分け試験の結果、一番成績が下のクラスに入ることになりましたが(笑)。

僕が入ったクラスには、中学からエスカレーターで上がってきた子がたくさんいました。遊ぶことへの感度が高いメンバーが多く、毎日超楽しかったですね。うるま市から那覇市までバス通学だったので、仲良くなった友達から沖縄市の面白いお店(洋服屋さんとかレコード屋さん)を教えてもらって寄り道も。そのお店のお兄さんからストリートカルチャーやサブカルを教えてもらったことをきっかけに、デザイナーになりたいって思うようになったんです」。

初めてMacに触れたのは、職業訓練校。
大手代理店に履歴書を送るも「まずは大学を卒業してください」。

「高校では勉強が身につかず公立大学なんか行けなくて、もちろん浪人は無理。職業訓練校にデザイン科があることを先輩に教えてもらい、受験しました。でも『ここは勉強するところじゃない。就職するための場所だから』ってあっさり落とされたんです。だから高校卒業後の一年間は家の手伝いやアルバイトでお金を貯めて、翌年、再度訓練校を受け、入学させてもらいました。訓練校に通った一年間は、三日に一度Macに触って、次の日はデッサン、次の日は印刷機を触るってカリキュラム。

そんな環境だったから、デザイン科を出たとはいってもデザインの勉強なんて全くできてないんですよ。専門学校や芸大を卒業したような人が作るような作品集がまずない。作品集として持てたのは、Illustratorのペンツールで太さ違いの直線を引いて並べただけ、みたいな謎のブック。印刷機の原理が学べて写真の現像の仕組みなんかも体験として会得できたのは良かったけれど、デザインについては基本さえわかっていない状態でした。

それなのに広告代理店に入社したい一心で、電通、博報堂とかに書類を勝手に送りつけたりしていました。『まずは大学を卒業してください』って丁寧に返事が来ましたね。当時はとにかく金持ちになりたかったんです。代理店に入れれば給料がいいし、毎日楽しそうだし、俺が広告業界でストリートの風を吹かすぜ、くらいに思っていました(笑)」。


画像2


「電通、博報堂には受験資格さえないことがわかり、とりあえずハローワークに。そこで紹介された印刷会社や、小さなデザイン会社をいくつか見つけ採用面接に行きました。どこかで甘く見ていた会社でもUターンの経験者とか作品をたくさん持っている芸大生、専門学生らと同じ土俵で戦わなければいけなかった。チラッとその人らの作品集が見えた瞬間に『終わった。この面接をどう頑張ったところで、この人たちより自分が採用されることはあり得ない』と思いました。そういうことが何回か重なると、さすがにわかってくる。即戦力を求めている会社に、俺みたいな何もできない人を採用する理由はひとつもないってことが。

とはいえ、新卒というアドバンテージは今しかないから俺だって後がない。いろんなことが瀬戸際だったので、やっぱり行きたいところに行くしかないと思いました。当時はネットで検索しても代理店のHPがたくさんヒットする時代じゃなかったので、知り合いや先輩のつてを辿って情報を集めることから始めて。当時はGoogleマップもないから、めちゃくちゃ迷いながら、履歴書を持っていろんな代理店やデザイン会社を探し回った記憶があります。

飛び込みで就職活動をしていたので当然、門前払いもたくさんされました。その中でたまたま履歴書を受け取ってもらえたのが宣伝という会社でした。『ゴミ拾いと文字打ちから、なんでもするのでとにかく入れてください』と頭を下げて入れてもらったんです。

勤務初日、9時からと言われていましたが、子供の頃から建築業界の厳しさを見て育っているので7時半には出社しました。会社が閉まっていてもそのうちに誰か来るだろうと思って行ったら、なんと会社が開いていて。『皆さん、朝早くから出社されているんですね』と声をかけたら『みんな徹夜してるんだよ!』と言われて。『今日からお世話になります。よろしくお願いします』と掃除を始めたのが代理店勤務初日の思い出です」。

イタさを極めた代理店時代。
「お前はデザインを教えてもらえるような人間か?」

「最初の3年は、仕事という仕事は一切できていなかったと思います。写真の切り抜きを永遠にやるとか、先輩の案出しの手伝いをさせてもらうとか、そんなことばかりでした。入社一年後に初めてもらった名刺は、アシスタントデザイナー。上司に、宣伝で初めて使った肩書きだと言われました(笑)。そんな状態なのにある日モヒカンにして出社して、『お前、その頭じゃクライアントのところに連れて行けないよ』って怒られたことも。とにかくイタイ奴でしたね。

その当時関わってくれた先輩には、今でも本当に感謝しています。『先輩、なんで自分にデザインを教えてくれないんですか?』って聞いた自分に対して、『そもそもお前は教えてもらえるような人間なのか?』と言い、仕事への向き合い方から教えてくれたんです。それから必死で考えるようになりましたね。仕事ってなんだろう、広告ってなんだろう、デザインってなんだろうと。沖縄ではデザインを納品しただけじゃクライアントのビジネスは前進しない。『デザインは納品しました、あとは頑張ってください』ではなく、その後の事業を伴走しながらお手伝いすることの方に意味があるんじゃないか、ってことも考えるようになりました。その気づきは今でも生きています」。

夜間のコンビニバイトで、
自分がデザインした店頭POPを並べた日々

「27歳頃、代理店で働きながらコンビニの夜間アルバイトをしていたことがあります。22時から1時って枠を作ってもらって。週に3、4日入って3万くらいしかもらえなかったけど、ないよりましだと思ってやっていました。それが結構面白かった。自分がデザインしたクライアントのキャンペーンPOPを、夜中に自分で組み立てたことも。『このさんぴん茶のパッケージ、俺がデザインしたんだよ』と同僚の夜間バイトの子に言っても『ふーん』くらいの反応しかもらえなかったことで、自分は誰のために、何のためにデザインの仕事をしているんだろう、なんて考えたりもしましたね。

人間性でいえば、先輩にも色々なことを教えてもらいました。『エロ本から文藝春秋まで全部読まなきゃだめだよ』『沖縄では上映されていないけどこの映画は絶対見ておいたほうがいいよ』とか。政治や宗教などビジネス的な会話をする上で知っておくべき基礎知識も。そんなすごく仕事ができる先輩のプライベートは実はぼろぼろ…、なんてこともあって。いい背中も悪い背中も全部見せてくれる大人が、自分の周りにはいた。それが大きかったんじゃないかな、って思います。

親とか先輩の役目は、いい背中を見せることって風潮がある気がしますが、悪い背中を見せることも大事だなって思うんです。子供がどうしたいかは、それを見た子供が自分で決めることじゃないですか。いいも悪いも両方あることの方が、いつでもかっこいいことより大事かな、って思いますね。自分がしてもらったことの恩返しの意味も含めて、自分が知っていることは全部、これからの子たちに話してあげたいって思っています」。

__

インタビューを経て、久田さんはこれからますます、肌感覚や直感力や人間性や経験値を駆使して、GYOKUを磨いていくのだろう。一緒に仕事する人を幸せにしながらデザインを拡張していくのだろうと感じました。かっこつけないというかっこ良さが、沖縄にはある。自分で道を切り拓こうと思えば、いくらでも道を作れる余地がある。それを可能性と呼ぶのかもしれないと、教えていただきました。

__

久田友太さん(GYOKU 代表取締役・アートディレクター):
KIGI、PARTY、伊藤総研、沖縄広告、GUILD OKINAWAが携わるプロダクトブランド「琉Q(ルキュー)」を通して、商品企画から開発・販路開拓・売場作り・店頭販売までブランドマネージメントを担当。2019年、PARTYとGUILD OKINAWAで設立したGYOKUの代表取締役に就任。Ocy(Okinawa Creators Yui)会長。クリエイティブサークルOOKINAWA会長。専修学校IDAグラフィックデザイン科の教育課程編成委員。


【中山理恵 プロフィール】
コピーライター、編集者。WELEDAなどグローバルブランドの日本コミュニケーションや、青山フラワーマーケットのコピーワークなど。QANDO所属。第32回繊研流通広告賞準大賞受賞。夫の映画作りのため東京から沖縄へ。男の子がひとり。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?